椿の海と鉄牛禅師
昔、千葉県の九十九里浜の内陸側に「椿の海(太田ノ胡水とも呼ばれた)」大きな内海がありました。
江戸時代になり、この内海を埋め立てて、広大な農地を作り、「干潟八万石」とまで言われるほどの農地が出現したのです。
私が千葉県側をよく散策するようになり、それまで茨城県側からのみ古代、中世の歴史などを見てきたのですが、こちらの千葉県九十九里浜方面からの人の流れが見えるようになると、それまでの歴史観も変わってきました。
古代の古東海道などでの陸のルートばかりではなく、九州からの海人族や、伊勢近郊から船で黒潮に乗りやってきた古代から中世の人々がかなりいたことを示す痕跡があちこちに残されていました。
この椿の海も江戸時代前までは多くの武将たちも九十九里からこの内海や栗山川から内陸部に入り、東庄町あたりで利根川を越えて常陸国側にわたってきたようなのです。
そんな椿の海の干拓した姿を眺めるのに適した場所が、千葉県民の森の「東庄県民の森」にある高台です。
ここには、この椿の海の干拓に尽力したのが「鉄牛和尚」でした。
この椿の海といわれる名前のごとく、もともとは海とつながる汽水湖だったようですが、次第に九十九里川が閉じられ、淡水湖になっていたようです。
それを埋め立てて農地にするため、干拓申が1615年ころから行われたが許可は下りず、やっと寛文9年(1669年)に許可されて工事が行われたが、排水のために九十九里浜側を掘削すると、今度は海水が農地に流れ込むことになったり、なかなかの難工事となり、資金繰りにも苦労して途中で断念するまでになってしまったようです。

(広大な椿の海のあった干拓地を望む。手前の湖は干拓用の池。干拓された農地はこの右側に大きく広がっている。)
それを救ったのが鉄牛和尚といわれる人です。この和尚のおかげで何とか干拓も寛文11年(1671)成し遂げられたそうです。
この干拓の功労者として、この椿の海が見下ろせる山の上に「福聚寺」というお寺が建てられ、鉄牛和尚は晩年をここで過ごされたそうです。

福聚寺入口(黄檗宗(おうばくしゅう):禅寺)

福聚寺本殿

鉄牛和尚の墓所

社の中には大きな墓石がおかれていました。
市のHPによると「遺言により境内で荼毘にふされ、その場所に石造無縫塔が建立された。塔は2メートルに及ぶ巨大なもので伊達綱村・稲葉正通の寄進」となっています。
この寺や椿の海を眺める高台は、県民の森でもあるのですが、他にも過去に記録のある場所のようです。
1)「城山の森」=沼闕(ぬまかけ)城跡

この見晴台の一角に上記のような看板が立っています。
中世の城があったようで、現在の東庄町一帯を領していた東(とう)氏の一族の居城であったようです。
ただ、近くに「大友城」という千葉氏の祖といわれる平良文(村岡良文)の孫・村岡忠常(平忠常)が築いたようあり、この沼闕城もそのまた一族が築いたのかもしれません。
ただ、椿の海を船で進んでくると、この場所で陸に上がって上ってくれば到達する好適地であったものとも考えられます。
誰が初期に築いたのかはわかりませんが、何度か建て直したりしたのかもしれません。

この内容の記事は以前にも書いています。
今回少し記事を追加して、明日へ続きます。
江戸時代になり、この内海を埋め立てて、広大な農地を作り、「干潟八万石」とまで言われるほどの農地が出現したのです。
私が千葉県側をよく散策するようになり、それまで茨城県側からのみ古代、中世の歴史などを見てきたのですが、こちらの千葉県九十九里浜方面からの人の流れが見えるようになると、それまでの歴史観も変わってきました。
古代の古東海道などでの陸のルートばかりではなく、九州からの海人族や、伊勢近郊から船で黒潮に乗りやってきた古代から中世の人々がかなりいたことを示す痕跡があちこちに残されていました。
この椿の海も江戸時代前までは多くの武将たちも九十九里からこの内海や栗山川から内陸部に入り、東庄町あたりで利根川を越えて常陸国側にわたってきたようなのです。
そんな椿の海の干拓した姿を眺めるのに適した場所が、千葉県民の森の「東庄県民の森」にある高台です。
ここには、この椿の海の干拓に尽力したのが「鉄牛和尚」でした。
この椿の海といわれる名前のごとく、もともとは海とつながる汽水湖だったようですが、次第に九十九里川が閉じられ、淡水湖になっていたようです。
それを埋め立てて農地にするため、干拓申が1615年ころから行われたが許可は下りず、やっと寛文9年(1669年)に許可されて工事が行われたが、排水のために九十九里浜側を掘削すると、今度は海水が農地に流れ込むことになったり、なかなかの難工事となり、資金繰りにも苦労して途中で断念するまでになってしまったようです。

(広大な椿の海のあった干拓地を望む。手前の湖は干拓用の池。干拓された農地はこの右側に大きく広がっている。)
それを救ったのが鉄牛和尚といわれる人です。この和尚のおかげで何とか干拓も寛文11年(1671)成し遂げられたそうです。
この干拓の功労者として、この椿の海が見下ろせる山の上に「福聚寺」というお寺が建てられ、鉄牛和尚は晩年をここで過ごされたそうです。

福聚寺入口(黄檗宗(おうばくしゅう):禅寺)

福聚寺本殿

鉄牛和尚の墓所

社の中には大きな墓石がおかれていました。
市のHPによると「遺言により境内で荼毘にふされ、その場所に石造無縫塔が建立された。塔は2メートルに及ぶ巨大なもので伊達綱村・稲葉正通の寄進」となっています。
この寺や椿の海を眺める高台は、県民の森でもあるのですが、他にも過去に記録のある場所のようです。
1)「城山の森」=沼闕(ぬまかけ)城跡

この見晴台の一角に上記のような看板が立っています。
中世の城があったようで、現在の東庄町一帯を領していた東(とう)氏の一族の居城であったようです。
ただ、近くに「大友城」という千葉氏の祖といわれる平良文(村岡良文)の孫・村岡忠常(平忠常)が築いたようあり、この沼闕城もそのまた一族が築いたのかもしれません。
ただ、椿の海を船で進んでくると、この場所で陸に上がって上ってくれば到達する好適地であったものとも考えられます。
誰が初期に築いたのかはわかりませんが、何度か建て直したりしたのかもしれません。

この内容の記事は以前にも書いています。
今回少し記事を追加して、明日へ続きます。
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