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仏の浜(1)-度志観音跡

 常陸国風土記の多珂郡の記述はそれほど多くはない。

多珂郡が大化の改新以降に律令制制度での国や郡を明確に区分するようになる前は、まだ多珂国とよばれており、国造(くにのみやつこ)が派遣されていた。

都から4世紀中頃に、ここの国造に派遣されたのは建御狭日命(たけみさひのみこと)で出雲臣と同族の人であったという。
また、この頃の多珂国は今の日立市助河の北から福島県の大熊町あたりまでと記載されている。

この多珂国の南部の入口あたりを「道前」と呼び、最後北部の出口付近を「道後」と呼び、読み方も「みちのくち」「みちのしり」などといった。

その後、大化の改新直後の孝徳天皇の時代(645-654)に、この国(多珂国)を管理するには広すぎるとして、南北2つに分割して「多珂国」「石城国」となり西暦700年前頃に、常陸国多珂郡、陸奥国石城郡となった。

そして、この常陸国風土記にはこの「道前の里」で倭武の天皇(ヤマトタケル)が妻の橘皇后(弟橘姫)に会い、海幸彦・山幸彦の伝承を彷彿させるように、ヤマトタケルは山で狩りを、弟橘姫は海で漁をして獲物獲得競争をしたとなっている。

結果は姫の完勝で、山の幸はほとんどとれず、海の幸は大漁で(食べ)飽きるほどだったという。
このため海沿いの地名に「飽田の村」と名付けたと書かれており、ここは今の地名で「日立市相田町附近:小木津駅の東側海岸沿い)とみなされています。

風土記にこのような話を載せたのは恐らく何か理由があったはずですが、考えてみるととても意味深な話でもあります。
それぞれそれを想像してみるのも面白いでしょう。

さて、今回は、常陸国風土記に、この「飽田村」の近くの大海のほとりの岩壁に仏像が彫られた場所「仏の浜」があるとの記載があります。

全国の風土記でも仏像の記述は他になく、この常陸国風土記のこの箇所のみだといいます。
この仏の浜と言われる場所の候補地が2か所あります。

1つ目は日立市田尻町の田尻小学校南側の崖に残されている「度志(どし)観音跡」でここが県の指定史跡「仏ヶ浜」として登録されています。


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この田尻小学校の南側の崖を目指していくと、その近辺の通りの道は結構広く整備されており、開けた感じの場所となっていました。
地図を見てみると、通りに沿ってコンビニ(ミニストップ)があり、その反対側にセレモニーホールがありました。
その駐車場のわきから少し内側に回り込むと「佛ケの浜」の案内板がありました。
どうやらこの通り沿いの駐車場のすぐ裏手の崖部分に「史跡・度志観音跡」があるようです。
(木々が生い茂っていて表通りから見えなくなっています)

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その案内ポールのところから、前の広い道路に平行に木々の間に道が続いています。
そしてその少し上った先が開けていて説明看板が置かれていました。

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このように、常陸国風土記の「佛ケ浜」はこの度志(どし)観音の場所に違いないと、昭和30年に茨城県教育委員会に認定されて、県の史跡として登録されました。

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奥の岸壁中央に扉の付いた場所があり、ここが1300年以上前に風土記に書かれた仏像だと考えられたようです。
格子の中をのぞきましたが、壁面に何か彫られた跡があるようでしたが、その姿は肉眼ではよくわかりませんでした。

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又向かって左側の壁面には地蔵像などいくつかの仏像が置かれていました。

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壁面にも何か摩崖仏が彫られているのかもしれませんが、はっきりしません。

ここの歴史を見てみると、かつて常陸三十三観音霊場の第15番札所であった真言宗「清滝山源勝院観泉寺」があり、この観音像を本尊としていたそうです。
また、この寺は弘仁年中(810~824年)に空海が建立したという伝承があると書かれています。
ただ、この観泉寺も廃寺となっていて、よく歴史はわかりません。
風土記が書かれたという西暦720年頃にすでにあったのかはわかっていません。

今では次に書く「仏の浜(2)」の説の方の場所が可能性は高かそうです。

ただ、このあたりの岸壁に摩崖仏が彫られたというのは歴史的にはとても興味深い話で、多珂国は7世紀末頃は陸奥国での蝦夷に不穏な動きが頻発していたらしく、このあたりに観世音菩薩などの仏像を岸壁に彫り、蝦夷の動きを鎮めたいという願いをこのような仏像に込めたと考えられています。

<仏の浜(2)へつづく>





常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/11/06 09:05
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