権現山古墳(東海村)
日立市をさらに南へ戻って、東海村へやってきました。
ここには十三参りで有名な村松虚空蔵があります。
しかし、風土記が書かれたころはまだこの虚空蔵尊はなく、後に筑波山から見て鬼門(北東=丑虎)方向に建てられたものだと理解していますので、今回は風土記の頃を考えて、風土記の遺称地として名前が挙がっている「権現山古墳」を探していってきました。
このあたりにはほかにも古墳が残されていますが、これらは「那賀国造一族の墓」ではないかと考えられています。
常陸国風土記では、那賀国のところではなく、行方郡の成立の説明箇所の出てきます。
「孝徳天皇の時代(645~654年)の653年に、茨城の国造である小乙下壬生連麿と、那珂の国造の大建壬生直夫子たちが、請い願って、行方郡を設置した」となっています。
この大建壬生直夫子(だいけんみぶのあたいおのこ)は建借間命(たけかしまのみこと)の子孫と思われます。
小乙下(せいいつげ)、大建(だいけん)というのは664年制定の冠位26階中の24位と25位だという。
ただ、行方郡を作った時は653年で、この冠位の制定は664年であり、年代としては合わないが、すでに653年前には同じ名前の冠位が存在していたものと思われます。
この権現山古墳は東海村村松943あたりで、古墳の上に「素鵞神社」が祀られています。
県道284号線沿いにあり、すぐ隣に「日本原子力研究開発機構の権現山寮」が建っています。

この神社があるところが権現山古墳(前方後円墳)で、右側が日本原研の権現山寮。

素鵞神社と掲げられていますが、昔から素鵞神社なのか明治以降に変わったのかは不明。

この神社と裏手の山全体が古墳のようです。

築造は五世紀中葉だという。

古墳の説明版の隣に「ヤマザクラ」の古木の案内が書かれています。

素鵞神社鳥居から上に上ると、小さな社がポツンとありました。
どうやらこれが素鵞神社の社のようです。

またこの左手側にヤマザクラの古木があり、根を保護するために周りにロープが張られていました。
ここには十三参りで有名な村松虚空蔵があります。
しかし、風土記が書かれたころはまだこの虚空蔵尊はなく、後に筑波山から見て鬼門(北東=丑虎)方向に建てられたものだと理解していますので、今回は風土記の頃を考えて、風土記の遺称地として名前が挙がっている「権現山古墳」を探していってきました。
このあたりにはほかにも古墳が残されていますが、これらは「那賀国造一族の墓」ではないかと考えられています。
常陸国風土記では、那賀国のところではなく、行方郡の成立の説明箇所の出てきます。
「孝徳天皇の時代(645~654年)の653年に、茨城の国造である小乙下壬生連麿と、那珂の国造の大建壬生直夫子たちが、請い願って、行方郡を設置した」となっています。
この大建壬生直夫子(だいけんみぶのあたいおのこ)は建借間命(たけかしまのみこと)の子孫と思われます。
小乙下(せいいつげ)、大建(だいけん)というのは664年制定の冠位26階中の24位と25位だという。
ただ、行方郡を作った時は653年で、この冠位の制定は664年であり、年代としては合わないが、すでに653年前には同じ名前の冠位が存在していたものと思われます。
この権現山古墳は東海村村松943あたりで、古墳の上に「素鵞神社」が祀られています。
県道284号線沿いにあり、すぐ隣に「日本原子力研究開発機構の権現山寮」が建っています。

この神社があるところが権現山古墳(前方後円墳)で、右側が日本原研の権現山寮。

素鵞神社と掲げられていますが、昔から素鵞神社なのか明治以降に変わったのかは不明。

この神社と裏手の山全体が古墳のようです。

築造は五世紀中葉だという。

古墳の説明版の隣に「ヤマザクラ」の古木の案内が書かれています。

素鵞神社鳥居から上に上ると、小さな社がポツンとありました。
どうやらこれが素鵞神社の社のようです。

またこの左手側にヤマザクラの古木があり、根を保護するために周りにロープが張られていました。
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