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道標-泉町の横道

 今日は仕事を早めに切り上げて帰ってきた。銀行をまわって支払いを済ませたが、今回は屋根の修理代に思わぬ出費となった。
でも雨漏りの心配がなくなり落ち着いて過ごせるのでありがたい。

今週は勝手に応援団の「ことば座」の定期公演がある。

先日ブログで書いたが、500円引きOKとのこと。詳細はこちらのポスターを見てください。

もし来られるなら、受付で「ブログ見たよ」と行っていただければ3000円→2500円です。
ふる里を応援するつもりで一度ご覧いただければと思います。
3日間(6/17~19)は同じ内容です。

 さて、今日の歴史案内は、市内に残された追分道標のルーツを追いかけてみたのだが、意外に面白い姿が見えてきました。
やはりこのような道標はもとの位置において、できるだけ広報をして説明をする姿勢が如何に大切かを知った思いです。

昔の国分寺薬師の所から「右 かさま 阿たご道」となっていたので、この愛宕をさがしたのです。
これは岩間の愛宕神社のことを指しているのかもしれないが、石岡の地図に愛宕神社が書かれており、この可能性もありそうに思ったのである。

今では岩間の山は愛宕山というが、江戸時代は岩間山と言っていた。
この神社は有名なのでこちらの可能性がとても高いのですが、この街中の地名にある「愛宕神社」を探してみた。

しかし、そこは住宅街で、神社の面影はまったく無くがっかりです。こちらの可能性はなさそうです。

(ここの愛宕神社が総社に合祀されたかもしれないと思って、あとで総社へ行ってみた。星の宮などの合祀された神社と並んで「厳島神社/愛宕神社」というのがあったが、元どこにあった何処の神社かわからない。

atago.jpg
大正八年に厳島神社の愛宕神社が合祀され、さらにそれが総社に合祀されたものか?

まだ若い(高校生のような)二人の巫女さんが庭を掃き清めていた。
近付くと向こうから「こんにちは」と声をかけてきた。(これは12日の日曜日のことです)

miko01.jpg

よっぽど聞いてみようかと思ったが、あまり場違いのようなので止めにしました。)

次に、泉町の古地図にある「意徳院」という寺と「不動」と書かれたところを探してみた。
これはすぐに見つかった。

「威徳院」と「安産不動尊」である。

これは、駅の方からやってきて泉町通りから横道に入る道があり、この前に出るようになっているが、あまり気にとめてこなかった。
石二高生などがこの近くの横道を通っているところだ。

itokuin01.jpg

「威徳院」は無人のお堂とお墓しかない。しかし江戸時代には「虚空蔵(こくうぞう)」とでてくる。

fudouson.jpg

安産不動尊(多胎不動尊)はいかにも「昔からここにありますよ。」というようにどっしりと座っている。

fudouson02.jpg

不動尊の脇には地蔵さまも置かれている。

石岡はこのような脇道がとても多い。
これはこの町の特色と言っても良い。
車社会になり不便なのだが、脇道の方が歩いたり自転車で走り回るにはとても都合がよい。

この横道を掘り下げると、江戸時代からの人の流れが見えてくるのです。

私はこの場所に来て初めてこの泉町の姿が少し見えてきたように思い嬉しくなった。

さて、この町が泉町と命名されたのは宝永年間(1704~1710年)のことで、それまでは「新宿」と言われていました。
江戸の初期には水戸街道がここを通っていなかったといいます。もっと今の駅の近くで川を渡っていたのです。
それをこちらを通るように変更して、ここに旅館などができるようになったために「新宿」となったのです。

そして、宝永年間に東海・南海連動型の大地震がおこり、さらに富士山の大噴火が起こりました。
おそらく、この時の災害を機に、火事などが起こらないように願いを込めて「泉町=和泉町」としたのでしょう。

天明4年(1785年)「常陸古跡案内調べ」という書物が書かれています。これが「いしおか100物語」に記載されていましたので引用します。

「それより、泉町へ出、威徳院の虚空蔵へ参る。昔この町に3月朔日より5日まで馬市が立ち、毎年芝居などありて賑わいし・・・・」

これによると昔のにぎわいが見えてきます。この脇道こそが昔の面影を残しているのではないでしょうか。

道標 | コメント(25) | トラックバック(0) | 2011/06/15 15:19
コメント
昔の道
 ROMAN様。旧笠間街道通って泉町に抜ける道は子供の頃よく利用した道で、懐かしいです。「途中お墓があって、ちょっと怖いんだよね」と思っていた場所が、威徳院の辺りだったんですね・・。
 昔の道は細くてくねくねと曲がっており、迷路のようで、面白かったです。
Re: 昔の道
べあべあ様に教えていただき、あまり行かないところを知るチャンスにもなりました。
あちこち細い曲った道が残っていますね。
石岡の特徴ですが、開けるのに妨げになっているのか・・・。
でも今の状態ならかえって趣があるので残すことをかんがえるのも手ですね。
愛宕神社は
街中の愛宕神社は、がらみ堂の所にありましたよね。
そこは常陸国分寺の七重塔跡で、ちょっと近いかも知れませんが……。
Re: 愛宕神社は
gengorou様
ありがとうございます。
本当ですね。伽藍御堂のあったところの近くですね。
東に200mくらいいったところに七重の塔があったと聞いていたのですが・・・。
もっと良く調べないとわからないものですね。
すっかり住宅地になってしまって・・・。
ありがとうございました。
国分寺も表面的なことしか目に入っていないものです。
まだまだダメですね。これからもよろしくお願いします。
昭和10年の地図
 ROMAN様がもってるという地図に、愛宕神社載ってますよね?今は墓地になってる周辺でしょうか?そのあたりが伽藍堂とかつて呼ばれていたあたりでしょうか?
 石岡は火事が多かったので、愛宕神社が何か所かにあったのでしょうか?今も木之地と中町にありますよね?
Re: 昭和10年の地図
べあべあ様
確かに地図に載ってました。探した場所と少し違いました。
ガラミ堂のあったという場所とほぼ同じでした。
こんど見に行ってみます。
木之地と貝地は知っていますが中町の愛宕神社は?
何かそういえばあったような。
愛宕神社の歴史も面白そうです。
国香が分霊してもって来たとか? これが水戸の愛宕神社に移ったとか・・・。
でも良くご存じですね。地図も細かなところは読むのに苦労します。(笑)
No title
ROMAN様、べあべあ様、Gengorou様
いやこの辺は将に幼少期から少年期にかけてのテリトリーです。
安産不動産のお地蔵様から国分寺側に坂を下りたところが小川で山王川に注いでいました(というか山王川そのもの?)。今は暗渠です。
8月16日にお盆のお供え物をこの坂下に出していました。昔は川に流していたのでしょうが、ゴミ処理問題からこう変更したのでしょう。多分70年代半ばに暗渠となり、こういうことも行われなくなったように思います。
二箇所の墓地も4,5月の通りかかりましたが、
墓石がひどいことになっていました。中学の
通学路で三年間ほぼ毎日通った道ですので、なんとも、、、、
Re: No title
行徳様
確かにこの2つの墓地の間に川があったみたいですね。
昭和10年の地図にはかかれています。
近くから湧き出していたようですね。
いまは聞かなければ、何もわかりませんでした。
昔、石岡の景観アンケートで「脇道」とおっしゃっていた意味がやっとわかりました。
川は線路の方に流れ、線路下を通り川に注いていたようです。
都々一坊のお墓もこちらの「ガラムドウ墓地」にあったようです。
地図に書かれていました。今は国分寺境内の墓地にあります。
近年の亡失心礎・流失心礎
ご存じかも知れませんが、がらみ堂に関して表題のようなペ-ジがあります。
貴重な写真には、驚きます。
この愛宕神社は、戦時中に総社宮に合祀されました。
いまは住宅地ですが、きちんと調査・保存するべき場所だと思っています。
Re: 近年の亡失心礎・流失心礎
gengorou様
この写真ネットで見ておりました。貴重なものですね。
それにしても、このような写真に残っているものが
皆どこかになくなってしまったのでしょうか?
この場所を調査することは非常に大切なことだと思いますが・・・・
愛宕神社は防火の神社ですが、武士の信仰の対象でもあるようです。
石岡の愛宕神社や八坂神社ルーツや祭礼などをたどると昔の生活も
見えてきそうです。
情報ありがとうございます。
幻のガラミドウ広場
昭和10年の地図には「古」の印あり、この場所が遺跡だということは、認識されていたんですね。ちゃんと保存されてれば・・。惜しいですね。そうすれば、「昔ガラミドウ広場で遊んだねー」なーんていうお話も、できたかもしれないですね。私は今回初めて「ガラミドウ」の地名と場所を知りました。有難うございました。
Re: 幻のガラミドウ広場
べあべあ様
すごいところで遊んでいたのですね。
何故こうなってしまったのでしょうか?
これからでも対策は無いとは言えませんね。
まだ空地もありますし・・・。
No title
皆様
この辺り私にも遊び場でした。お墓なのに結構カクレンボさせていただいていました。小川の先の常磐線の小さな鉄橋の下も入り込み対岸に出たりしていました。対岸も勿論水田でセリだのつくしだの採らせて戴きました。雪ノ下や野蒜(ののひろ、と言った)も。
不法侵入と言えばそうですが、子供だったのと時効ということでご容赦。
今でも時々夢に出てくる風景です。

泉町、大小路、富田、元真地、若松、土橋と路地が今も多々あり、あれが近代以前の人間にとって自然な道幅で、欧州の近世都市の路地裏もあんな
ものです。
子供がかくれんぼするのには最高の環境ですね。
Re: No title
行徳様
懐かしい思い出ですね。
確かに石岡には狭い横道がたくさんあります。
これが町の発展の妨げとなっていると思ってきたのですが、そこには歴史が眠っていますね。
大切にして、これをもっと積極的に整備して「・・・の小道」とか「・・・古道」とか
名付けて、紫陽花の花なども植えたりすれば、今の時期はとてもいいですね。
悪くないと思います。

前に教えていただいた「もう少しで千と千尋にあえるかも」などもいいですね。
私の小さな時の思い出は横浜の「三渓園」です。ここにはきれいな三重塔がありますよ。
ここに流れている小さな川でザリガニとりに夢中でした。
No title
ROMAN様
散歩のできる環境は良いですね。
ヒトの流れが出来れば商業振興になりますし。
駅から金丸を経て355に出る道、あるいは大小路
から香丸に出る道などプロムナード化(車の原則
立ち入り禁止、住民車両は徐行)し、子供やお年寄り
が常時出歩けるようにしたらどうでしょう?

355や御幸通りのみならず、旧市内の主な
通りは抜け道として使われているばかり、生活に
近接した道でありながら、大量の車が高速で走り
過ぎていくばかりで、集客にもなっていないどこ
ろか、歩く側には不便かつ危険です。モータリゼ
ーションが逆作用になっているのは明らかで
例えばレンタサイクルを観光客に貸し出そうにも
これがネックになるでしょう。

市内へ流入する車が減るなら、それもチャンスと
できるようポジティブシンキングでいかがでしょう?

xxの小道、がたくさnある町はいいですね。

ここ行徳もしょぼいのですが、小さな公園は
たくさんあって、子供達は、今日はxx公園な!
と言って集まっています。そうやって彼らの
物語が出来ているはずです。車の少なかった昔、
路地とそれにつながる通りが遊び場でした。
欧州のオールドタウンは皆車両規制していますね。
そろそろ考えるときかと。
Re: No title
行徳様
いつか素晴らしい街に生まれ変わったらいいですね。
それだけの素材のある町です。
気がつかないだけのように思います。
今は路地を幾ら整備しても人がいなければ話になりません。
でも、ここってそんなに田舎でもないし、国道も、鉄道の駅も銀行も、レストランも高速も
あるのですから、どうかしていますよ。
最低の人の流れはどうしても必要です。
観光はそれに伴ってついてきます。
ほっておいてもどんどんPRしてくれるようになります。
それまで、沈没しないように声を上げ続けるしかないと思っています。
これからもアドバイスもよろしくお願いします。
No title
ROMAN様
帰省した時に毎回思うのが、どんな裏道にも車が
入ってきて、その上表通りの車の速い事!です。

また横断歩道の信号待ちがうっとおしい。
駅から御幸通りに渡る横断歩道の待ちが長いので
国分、若松方面に向かう、帰る人たちは駅から
自然と右に曲がって大小路経由となるのでは
ないでしょうか。
御幸通りに出たら出たで、今度は対岸に渡るの
がまた大変。
泉町の歩道は細く、その横を車がびゅうびゅん
通っており、非常に怖い。
ほかにもひやりとするような場所たくさんあり
ますね。
車で市内を通り過ぎるドライバーは市内の客では
なく、住民は住民で出歩かず、なにか欲しければ
車で外に買いに行く。
これでは町にヒトがいないのは当たり前です。
歩行者視点で見直して欲しいですね。
例えば土日の午後~夕方だけでもよいから御幸通りを歩行者天国にするとか。
学生バンドや学校ブラスバンドの発表会やっても
いいじゃないですか。ビーたこ焼きル売っても良いし、これなら金かかりませんよね。問題はトイレでしょうが、それとて大した話じゃないと。
これやれば土日だけでも、御幸通りから香丸町、
幸町方向のヒトの流れができ、金丸、富田にも
波及するのでは?


Re: No title
行徳様
車に乗る人とそうでない人で感じるものが違いますね。
私はいつも駅前の八間通りの車の少なさに驚きます。
駅前通りなのにこれではどうしようもないと考えています。
街中の人の感覚が恐らく車はいらないのでしょうが、少し郊外から
来てもらうには車でくるでしょう。
この車を横道に入らせないのは良いかもしれません。
また、お祭りと七夕祭りの時に駅前通りを歩行者天国にしています。
これはとても良いです。
しかし毎週やってよいかとなると集客力がなさすぎです。
レンタサイクルもやっているようなのですがあまり見かけませんし、終わる時間が早すぎです。
観光協会でやっていると書いてあるが見たことがない。
「・・・小道」などのネーミングとそこの歩行者天国は良いとして、集客力は何かが問題です。
No title
ROMAN様
あの銀座でも毎週末はホコ天です。大型犬を散歩
させていますよ、どこから連れて来るのか?
やはりヒトはヒトがいるところに群れますね。
ヤンキーが群れているのも困りますが、ヤンキー
すら群れない街はもっと困ります。
川口のプロムナード商店街の人出見るとつくづく
そう思えます。

卵が先が鶏が先か、よく起こる葛藤でありますが
その葛藤を延々二十年以上やってきたのが日本
であり、石岡ですね。
月一でもとりあえずやってみるとかあれば面白い
かもしれません。
今日も高校生レストラン見て泣いていました。
三重県の某所はまず鶏を育てたのですね。勇気づけられます。

No title
久しぶりにコメントさせて頂きます。泉町のお不動産、近所すぎてびっくりしました。よくこのお地蔵様の裏側でドングリや銀杏を拾った記憶があります。そういえば小学生の時に泉町の由来もRomanさんの言ったとおりです。眉唾ではありますが、幸町と相町となった訳も泉は火災、幸は(人災)警備という意味からきているとか・・・?
No title
皆様
なんか町内会みたいなってきましたが、色々お教え
ください。
こちらのやりとりで失われていた記憶が随分と補足されました。
今日突然思い出したのが、サーカス。
旧西友下、駅から向かって左で、サーカスやって
ました。バイクが空飛んでいたのを覚えています。
映画館は善隣幼稚園の方に1館、ほかにもう1館
あったらしいですね。

石小のフル木造講堂で’ゴジラ’見た真夏のある日とかも突然に思い出します。

泉、幸の由来は知りませんでした。

モリコーではありませんが、まだまだ思い出して
見たいですね。さもないとただののっぺらボーの
寂れた田舎街になってしましそうで、、、、

Re: No title
reeさま
まだ見てくれていたのですね。ありがとうございます。
「キッチンさくら」でコメントいただいたような・・・・
皆さんの地元を掘りかえしてしまいましたがいいですか?
幸町の由来が人災警護? とは初めて聞きました。
泉町と同じころに名前が変わったのですね。
もう300年も前でも言い伝えられてきたことはあるのですね。感心しました。
書物では「当時の天皇の勅使の御幸から名前をとった」などとでてきます。
今の御幸通りとおなじですが・・・・。
これからもコメント大歓迎です。よろしくお願いします。
Re: No title
行徳様
町内会歓迎で~す。
ただ私が記憶がないのでついて行けませんが・・・・
サーカスなどは昔の記憶がところどころで出てきます。
木下大サーカスなどあちこちに行ってテントを張って興行していました。
ゾウやトラなども連れて、バイクの曲乗りも大きなミラーボールのような球の中で
グルグルまわっていたような。
空を飛んだのを見たのは大分後からです。
時代が私の方が10年位前なのでしょうか。
小学校でも映画の上映もありましたね。また劇団が「森は生きている」の公演を
小学校でやったことを今でも覚えています。
このようなイベントも必要ですね。都会にいないと観劇などもめったにしないです。
 
映画館
石岡にあった映画館(金丸)で観た唯一の映画は「ザタイガース 世界は僕らを待っている」です。笑えますね。なんでこんな映画を見に行ったのでしょう??昔の映画館は、お世辞にもきれいとは言えず、一度入れば、何度もでOKでしたね。中学になるころには、もうなくなっていて、映画を見に行くなら(めったに行かなかったけど)水戸か土浦でした。(当時の私にとっては大都会)(たぶん校則では禁止?)
 サーカスは見に行ったことがないのですが、
市民会館に、ケロヨン(木馬座)がきて、誘われていった覚えがあります。
 市民会館の緞帳の絵は、石岡の獅子です。
 
 小学校での上映会も覚えてます。その頃は、映画がとても贅沢なものだったのでしょうね・・。
 
Re: 映画館
べあべあ様
その頃のことは私にはわからないですが、小さい時に見た時代劇の「総天然色」
の字幕が妙に新鮮な気がしていました。カラーなどはそれまでなかったのです。
アメリカはデズニーの映画がもうずっと前(戦前)にきれいなカラーでした。
小学校に入る頃はまだテレビなどなかったのです。
ラジオのドラマに夢中でした。古いですね。
昭和30年に小学校入学でしたので・・・。時代が違いますね。

石岡繁昌記(明治34年発行)には「歌舞伎座」(金丸町)と石岡座(仲之町)の
2つの劇場があったと書かれています。
その当時まだ馬市(年2回)がありました。 

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