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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(1)

 俳人正岡子規は学生であった明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。

当時水戸までは小山経由で鉄道は開通していましたが、まだ常磐線は開通しておらず、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。本人たちは2人でしたので弥次喜多道中を意識しての徒歩道中の気分だったようです。
子規は体は丈夫な方ではなかったようですが、俳句などを詠むにも、いろいろな場所で新たな発見をするのが好きで、いろいろなところに出掛けています。

本郷から千住-松戸-我孫子を通って藤代の2軒しかない旅籠の1軒である銚子屋という宿に1泊しました。
翌日は小雨で傘をさして牛久-土浦-中貫-稲吉を通って石岡の萬屋(よろずや)に泊まりました。

当時、常磐線は通っておりませんでしたが、石岡の町は高浜から霞ヶ浦を経由して東京まで汽船(高浜汽船)が周航していました。このため、多くの商人たちも石岡の宿に宿泊し、街には醤油工場や酒造所の大きな煙突が何本も聳え立っていました。

正岡子規は水戸では親友の菊池謙二郎氏が入れ違いで東京に出てしまっていために会えずに舟遊びなどをして帰路は水戸線経由で上野まで列車に乗っています。

子規は帰京1ヶ月後の5月9日に喀血しこれが後の病に伏せる原因に成ったとも言われています。そしてこの水戸への旅行記を半年後の10月に書いています。
ただ旅の途中は歌を詠むためのメモ以外にはあまり記録は残していなかったようで、半年前の記憶をたどって書いたようです。

原文は詩的表現やリズム感なども重視されていて原文で読むことをお勧めしますが、現代的な表現からは少し難解な部分もあるため、ここでは少し現代表現に訳して載せることにします。

参考とさせていただいた原文はこちらから読むことが出来ます。

小さな資料室:⇒ こちら 
(本資料室は充実しており参考にさせて頂いています。御礼申し上げます)

ブログではこれから数回に分けて載せます。
(調べるのが大変で、しかも1回分がかなり長くなってしまい何回で終わるかもわかりません。
よろしければ時々覗いてくださいね。)

<1> 出立~千住まで(約9km)

(現代語訳)
水 戸 紀 行
             莞爾(かんじ)先生子規著

我は生まれながらにして身体が弱く、殆ど外出はしないで部屋のなかに閉じこもって詩語などを集めた書物を読み漁る方であったが、好奇心は強く、まだ見たり遊んだりしたことのない知らない山や海川などは、読んだことのない書物を読みたいと思うのと同じように見に行ってみたいという思いがつのり、これは読んでいない書物を読みたいと思うのと同じように興味を覚えるものだ。

我の旅の最初は、明治十四年、十五の歳に、三並・太田・竹村の三氏と(伊予松山の久万(くま)山の)岩屋行を勧められて出掛けた。この時は旅に出てみたいという気持は強くあったが、我の脚力では年上の人についていくことは難しいといって止めた母の言葉も聞かずに、草鞋を履いて勇ましく出掛けたのだった。この場所は私の生まれた場所から十里(約40km)ほども離れた場所であったが、この久萬山岩屋を見物して、大変面白くそこで一泊したのだが、帰りは足が疲れて、途中から歩くことができず、道端に倒れて動けなくなることが何度もあった。
翌年の明治十五年には、伊予南部の大洲(おおず)地方へ四五泊の旅行をした。

そして明治十六年には、ついに東京へ来ることとなった。しかし、東京の旅は、陸路は車にのり、海路は舟で行くので、昔の膝栗毛道中の旅とは異なり歩く旅とはならなかった。東京へ来てからも歩く範囲は遠くと云っても、王子、鴻の台、小金井位までの範囲であり、それより遠くは何時も汽車に乗っての旅であった。
いつか膝栗毛道中の旅をしてみたいと思うのであったが、学校の休暇は極暑または極寒の時期が多く、病体の身ではなかなか思い立つ時がなく、心苦しくも年月が経ってしまったのである。

今年(明治22年)の春に十日ほどの学校の休みが得られたので、常盤会寄宿舎内の友一人を誘って水戸地方への旅行をしようではないかと相談したところ、話がまとまり、思い立ったが吉日・善は急げということになり、では明日出立しようと草履や朝飯の旅支度をととのえたのが四月二日の夜のことであった。

日が明けて、紀元(皇紀)二千五百四十九年四月三日の暁となった。
恐れ多い我らの遠い先祖にあたる天皇が、この日本を千代萬代にもわたって尽き果てることのないようにお開きになった初代神大和盤余彦尊神武天皇が崩御された日という由緒ある日を選んで旅立ったのもなにかゆかりがあるのだろうか。闇の世の中は一寸さきの見えないのが仕合せであるのだが。

されば何ごとも吉兆であり、幸先が良いと祝福して自ら慰むのもやさしき心根である。若し、いつ災難にあうとか、何時死ぬかなどが分っていたら、仮の浮世では何一つ面白くもないだろう。

この旅が、神ならぬ我が身の一月先に病になるなどと知るはずもなく、朝六時に勇んで本郷台の寄宿舎をブラッと立ち出でしは、二人のなまけ者である。

一人は鬼も十八の若盛り、ましてや顔(かんばせ)は雪のように白く、眼は夏でも暑さを知らないという程にすずしく、鼻はスッとして通らぬ処よろしく、また口元は普通よりも小さく、燒き芋を十個ほどに割らなければ入らないほど小さな口と見え、体は小柄で福相があり、災難を逃れることのできると人相見が言いそうな風つきで、縦から見ても横から見ても正札付きの美少年である。

もう一人は中肉中背とまではよかつたが、それ以外に取柄もなく、顔の色は靑白くといいたいが、白より靑の分子が多いため、白靑いと云う方が論理にかないそうなという難しい色であり、着物はゴツゴツ木綿の綿入と、その下に白シヤツ一枚、それをダラリとしだらなく着流して、醤油で何年も煮しめたような嫌疑のかかりそうな屁兒帶(へこおび)を小山のように締め、時々齒をむき出してニヤリニヤリと笑うところは大ばかでなければ狂顚(きちがい)病院へ片足を踏み入れた人と見える。
前の美少年と比べると無気味(ぶきみ)さが一層に引き立って見える、毛唐(けとう)人にいわせれば、good contrast と云える。

この前者の好少年が、即ち我の事で、後者の醜男子が我の連れの吉田の少將多駄次(ただじ)とか呼ぶ者である。………いやいや、実はこれは真っ赤なウソで、本当は真逆である。

── こんなことを白状する位なら、最初にあんなに人をほめるものでもなかつた。 また自分のことも余り遠慮がなさ過ぎた。 殘念々々 ──。

近頃長寝の癖があるが、(早起きしたので)町々の店の戸を開ける音がドタンドタンとひびくのもいさましく感じ、切通しとなった道を下って上野にやってきたら、はやくも初桜がいまにも脣(くちびる)を開こうとしていた。

一枝を手で折りたいところだが、これは違警罪といふ恋の邪魔に妨げられて本意をはたさず、そうしているうちに、早くも千住についたので、一枚のはがきを買ってこれから行く水戸の友に宛てて、我の出立のことをしたためて郵便箱に投げ入れた。
その時「コレ郵便箱さん頼みましたヨ たしかですか」とか何とか言えばよいのに、何とも云わずに出してしまったのは、後から思えば不覺であった。

(注釈)
<出立前>
● 正岡子規は慶応3年(1867)9月に伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士の長男として生まれる。幼少時の名前は正岡處之助(ところのすけ)といい、後に升(のぼる)と改めた。子規の名前はこの水戸への旅(明治22年4月)1か月後に吐血して、死ぬまで鳴くのをやめないといわれているホトトギスの漢字表記から子規と号するようになった。

● 東京へは明治16年(1883)5月に大学予備門受験のために松山中学を中退して6月にやってきた。
・明治17年(1884)9月:東京大学予備門入学
・明治21年(1888)9月:第一高等中学校本科に進級、本郷の常盤会宿舎に入る。

● 子規の旅行歴:

1) 明治14年(1881)(15歳):三並・太田・竹村の三氏と伊予松山の久万(くま)山へ徒歩旅行。当時子規は水墨画を習っており、この一緒に旅した三氏は恐らく水墨画の年長の先輩であったものと思われます。

久万の古岩屋は、高さ100m近い礫岩峰がいくつも立ち並び、国指定の名勝地となっています。また、その手前には四国八十八ヶ所霊場45番札所の海岸山岩屋寺があり、寺は八十八ヶ所中4番目に高いところにあります。

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(写真は名称・古岩屋:久万高原町ホームページより)
近くの不動尊に子規の碑が建てられています。

2) 明治15年(1882):大洲(おおず)地方に四五泊の徒歩旅行
愛媛県大洲市は南予地方にある伊予の小京都とよばれており、大洲盆地を中心に、瀬戸内海と四国山地に面し、中心を肱川が流れる少し高台の盆地にあります。江戸時代の大洲(おおず)城を中心とした江戸や明治の街並みが残されていて、情緒豊かな場所です。盆地にあるため、霧が発生すると幻想的な景色が広がります。

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(大洲城:大洲市公式観光情報サイト VisitOzuより)

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(煉瓦の道::大洲市公式観光情報サイト VisitOzuより)

3) 明治16年(1883):東京へ
子規は東京での徒歩散策圏内は王子、鴻の台、小金井位までの範囲と書かれています。

・【北】:王子(現東京都北区王子)・・・子規が水戸へ旅立った頃は王子村であった。
明治初期は浦和県であったが、明治4年に東京府に編入された。
王子製紙が明治8年に操業を開始しており、明治16年には鉄道も上野-熊谷間の一つの駅として開設されている。
そのため、子規は上野から鉄道で王子へ行くことも出来たようだが、王子稲荷の社(キツネ)が江戸時代から有名であり参拝者が多かったという。
東京都の北側であり、ここから筑波山が見えたそうだが、今はビルで見ることは出来ない。

・【東】:鴻の台(千葉県市川市国府台)・・・江戸川の下流にある高台を呼んだ。
これはこの近くに下総の国府があったことから国府台(こうのだい)と呼ばれたが、下を流れる川にコウノトリが飛来したことから鴻の台とも呼ばれたという。
広重の名所江戸百景に「鴻の台とね川風景」がある。

・【西】:小金井(東京都小金井市)・・・明治18年(1885)4月25日に子規は小金井で花見をしている。
後に根岸の子規庵に寄宿していた高浜虚子にも小金井桜を見に行くことを勧めている。
玉川上水の両岸の桜が有名だった。

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歌川広重 「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

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歌川広重『王子稲荷の社』
王子稲荷では2月の牛の日は凧市(防火)でにぎわう。稲荷の裏手から見えた筑波山は、今はビルで見えない。

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歌川広重「鴻の台とね川風景」

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歌川広重「富士三十六景武蔵小金」安政6(1859)(武蔵小金井市ホームページ「小金井桜のあゆみ」)

4) ここには書かれていないが、病弱でありながら実にその前後も子規は旅をしており、無類の旅好きだったようです。
・明治18年9月8日、鎌倉無銭旅行:秋山真之、清水則遠、小倉(梅木)脩吉と共に夜の11時に鎌倉へ徒歩無銭旅行(懐に五十銭程懐中)をした。
夜中中歩いて翌日戸塚の手前で昼飯を喰い。
皆が歩けなくなり神奈川まで歩いて戻り、汽車に乗って(小倉氏が皆の汽車賃を何とか持っていた)新橋まで戻った。

・明治21年7月28日~7月30日鎌倉旅行
船で浦賀→横須賀→金沢文庫→鎌倉(泊)→鎌倉見物→七里ヶ浜(泊)→江の島→東京戻り(この時の旅でも吐血し暴風雨や寒さで病状悪化)
一般には水戸紀行の4月の旅のあとに吐血したとされていますが、この前年の夏の鎌倉旅行で既に吐血を経験していました。
ただこの時はただの喉の炎症と思っていたようです。
・明治24年3月25日~4月2日:房総半島一周
 常盤会寄宿舎→市川→船橋→大和田(泊)→臼井→佐倉→成田→酒々井→馬渡(泊)→千葉→寒川→浜野→閏井戸→長柄山(泊)→長南→大多喜(泊)→小湊→天津(泊)→和田→朝夷(あさい)郡平磯(現南房総市)(泊)→野島崎灯台→館山(泊)→那古の観音→保田(泊)→羅漢寺・鋸山→船で東京へ戻る(4月2日)
 ただ、明治27年12月にも房総鉄道の開通に合わせて鉄道を使って旅行しています。(市川・船橋・幕張・千葉・四街道・佐倉など)
・明治24年6月25日~7月4日 木曽・長野・妻篭 馬篭→松山へ帰省 
 この後に8月広島・岡山・大阪等を見学して東京へ戻る(8月31日)
・明治24年11月 武蔵野旅行(蕨、熊谷、川越など)
この後も度々旅行して居り、時には夏目漱石と共に行っています。
・明治26年7月19日~8月19日:1か月間東北旅行。
小旅行はこれによらずにまだ多くあります。実にたくさんの旅行をしています。勿論鉄道や船を利用しての旅も多くありますが、歩く旅は好きだったようです。

● 子規の旅の出発点となった「常盤会寄宿舎」:伊予松山藩の子弟の為に建てられた東京本郷真砂町の愛媛県人の男子宿舎であった。現在は東京都東久留米市中央町に移転している。

<出立から千住まで(約9km)>
● 出立した4月3日は当時の暦で、神武天皇祭であり、この日は神武天皇が崩御された日とされ、『日本書紀』によれば紀元前586年(神武天皇76年)3月11日をグレゴリオ暦に換算して4月3日がその日に当たるとしている。

● 子規はこの旅行から帰って1か月後の5月5日に喀血し、肺結核が発病した。
子規の号もこの喀血から、ホトトギスの唇が赤く、鳴いて血を吐く、死ぬまで鳴き続けるなどと云われていたことから、ホトトギスの漢字表記の「子規」を採用したとされる。
そのため、この水戸紀行は旅から帰ってから半年ほどたった同じ年の十月十七日から二十日にかけて、記憶を頼りに書かれたものである。
旅行中は途中で読んだ俳句以外には、あまりメモを残していなかったようです。

● 一緒に旅した友人は、同じ寄宿舎のまだ18歳の若者であり、ここでは吉田の少将多駄次と書かれているが、詳細は書かれていない。
しかし千葉日報の2008年12月の記事によれば「吉田匡(よしだただし)」氏だと書かれている。
ただ詳細はわからない。
匡は「ただじ」と読むのかもしれないが東海道中膝栗毛の弥次・喜多に合わせて面白く書かれているのだろう。

● 本郷の宿舎から上野までは1~2km程で、子規たちも散歩程度に通っていた道筋であろう。
切通しと書かれているが、これは湯島天満宮の前の「切通坂」(文京区湯島3丁目と4丁目の間)のことだと思われる。
この辺りは多くの文豪たちが過ごしていた場所だ。
この本郷 → 湯島 → 上野不忍池の道路は、比較的短い距離で、そこから千住までは、何処を通ったかは書かれていないが、そのまま東に進んで浅草あたりから墨田川を舟で北上するか、墨田川の西側のいわゆる旧日光街道を進めば、千住宿に着く。
宿舎から日光街道を歩いても千住宿まで8~9km程であるので恐らく歩いたのだと思う。
千住宿の中心は現在の北千住駅の西側にあり、この少し北の四丁目と五丁目の間の道を東に進めば水戸街道です。

芭蕉も奥の細道の記述では、千住(宿)まで弟子たちに見送られてきており、ここから日光街道・奥州街道を進んだ。
千住宿は日光方面や水戸方面からの江戸の入口であり、昭和初期まで大きな遊郭があった。
水戸街道はこの千住宿が出発点となっていた。
この千住で子規は、善は急げと出立してしまったので、水戸の学友・菊池謙二郎氏が水戸に帰省しているはずと思い手紙で、これから訪ねることを知らせたが、水戸に着いた時には入れ違いで、謙二郎氏は実家から東京に戻ってしまっていた。

● 参考までに松尾芭蕉の奥の細道の記述からいろいろ推察してみよう。
芭蕉は千住まで船で弟子たちに見送られてきており、ここから日光街道・奥州街道を進んだ。

(千住旅立ち:元禄2年3月27日)
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

行春や 鳥啼 魚の目は泪  (芭蕉)

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。
人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。
芭蕉は東北への旅立ちで、まず門人たちと船で深川から隅田川をさかのぼり、千住の宿にやってきました。

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(蕪村が書いた芭蕉旅立ちの絵)

千住は隅田川と荒川とにはさまれた地帯で当時の江戸では品川に次ぐ大きな宿場でした。
北への玄関口だったのです。当時のこの宿場町には約2400軒の家屋と、人口は1万人近くもいたといわれています。

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<千住宿>
道路にはめ込まれている千住宿のタイル:本陣が1軒、脇本陣1軒、旅籠は55軒ほどあった。
本陣跡は北千住駅からすぐ。

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北千住駅西口から西にまっすぐ伸びる道を最初の信号の右に一つ入った路地裏に看板がある。その地図の緑色の場所が本陣屋敷です。
その本陣跡の上の赤丸部分が「見番跡」となっています。

説明によると「江戸時代から千住宿は遊女を置いていい旅篭が50軒ほどありました。
明治になりこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。
花街が千住柳町に移転させられた大正8年以降も昭和18年まで営業していたといいます。
そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。」と書かれています。
まあ岡場所なんていってもう知っている人は少なくなったでしょうね。

政府が公認で遊女を置いてよい宿場は江戸には4つありました。
「品川宿」「板橋宿」「内藤新宿」とここ「千住宿」です。
もちろんこのほかに遊郭として「吉原」がありました。
これらは政府の公認であり、その他の宿や食べ物屋などは禁止されていたのです。
そうはいってももぐりはあって「あいまいや」などというものが存在していたのでしょう。
子規もこの後、土浦で「あいまいや」のことを書いています。

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写真の通りが「見番横丁」です。奥の左側に「見番」なる芸妓組合の事務所があった場所で、右側は本陣のあった場所です。


さてもう一つ、この見番通りと交わる通りが「旧日光街道」となっています。

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このお店のたくさん並んだ通りが一方通行ですが、旧日光街道です。
この先が日光や奥州へ繋がっていたようです。
芭蕉も門人「河合曾良」とここを通って奥の細道へ旅立ちました。
旧水戸街道は、この道のすこし先を東(右)に曲がった道です。

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旧水戸街道の道標:千住四丁目と五丁目の間に置かれています。
この道標は、東へ「旧水戸佐倉道」となっています。
また旧石造りの道標(時代は不明)が足立区立郷土博物館に残されているようです。
説明では「もと千住四丁目30-1角に旧日光道中より分岐する旧水戸海道入口に建てられていた道標」となっており、街道ではなく海道と書かれています。

それでは、ここから子規たちが徒歩旅行した旧水戸街道の道筋を、宿場名から地図に示しておきます。
全行程は約111kmあります。

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(日本の旧街道の地図GPSCycling:旧水戸街道による)

千住-新宿(5.5km)-松戸(11.4km)-小金(17.4km)-我孫子(28.2km)-取手(34.8km)-藤代(42.7km)-若柴(46.2km)-牛久(51.9km)-荒川沖(58.7km)-中村-(60.5km)土浦(65.5km)-中貫(70.6km)-稲吉(74.0km)-府中(石岡)(80.9km)-竹原(86.4km)-片倉(91.0km)-小幡(95.5km)-長岡(101.9km)-水戸(111km)
・・・( )内の距離は千住からの概算値です。


水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/02/27 18:41
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