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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(2)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は2回目です。


<2> 千住~松戸~小金~我孫子(約40km)

(現代語訳)
千住の中頃より右に曲るとは聞いていたが分かれ道がどこやら分らず、そうしているうちに向うに巡査がたたずんでいるのが見えた。これは地獄で仏とばかり、駆け寄って

「モーシモーシ このあたりに水戸へ行く街道があれば、教えて下さりませ」

と石童丸(いしどうまる:伝説中の人物。出家した父の苅萱(かるかや)道心を探しに高野山に訪ねる)の気取りで言うと、巡査もまた助高屋(歌舞伎役者)気取りか何かで「ここをまがるも水戸街道で、あそこをまがるもまた水戸街道、どこも水戸街道ばかりですよ」とでもやるのかと思いきや、芝居心のない巡査と見え、左の手を出して、 「コッチへ」とだけ云ったきりであった。

我は相棒の多駄次を見てニッコリ笑いながら、そこを横に曲り、「丁度曲るところで道を聞いたというも妙じゃないかね。あの巡査は何故あそこに立っていたのだろう。まるで僕等の為に待っていたようなもんだぜ」と云いながら後を振り返れば、もう巡査の影もなかった。 

さては、明神樣が仮に巡査の姿をして現れ、我に行く道を敎へてくれたものか、ああ有難いか否かといって、睫(まつげ)に唾をつけてみた。

ボタボタと草履(ぞうり)を引きずり、着物の裾もからげずに歩いていくと、もう人里はなれていて(街並みを離れ)野路にかかっているので、見栄をかざる必要もないと尻をりりしく端折(はしょ)て多駄次に向いながら、

「オイ 多駄公、君とこう二人で一処に膝栗毛とは妙ぢやないか 僕が野暮次で君が多駄八 だから彌次、喜多よりは一段上の洒落人となって一九(十返舎一九)をくやしがらせるとは、極々妙々の思案じやなア」

 多駄「こいつは妙(案)だ、サア道中の始まり始まり」
すると、折しも路ばたの車夫が声をかけ

 車夫「旦那どうです 松戸まで帰りですのでお安くやります」
というので、二人顔を見合せたが

 野暮「オイ いくらでいく」

というと、サアそれから談判が始まった。すると高いとか安いとかいう内に、車夫(人力車)がまけるとくる、さらば乗らずばなるまいと、折角端折った裾をおろして、再びもとの紳士となり、さきの言葉もどこへやら 中川橋を渡り松戸のこなたで、車はガラガラギリギリドンと止まった。

車を下りて、江戸川を渡れば松戸駅(駅:鉄道はまだないので「うまや」「宿場」のこと)である。

それから一里余りで小金駅に至る。
道中は一本道で、町は寂々寥々(せきせきりょうりょう:しずかでさびしい)として空き家が立ち並んでいると思うばかりである。

そのとき、その道端で四五人の子供が集まって遊んでいたが、その中に七八歳くらいの女の子がいて、身なりはつゞれ(つぎはぎ着物)を纏(まと)っていて大変汚い格好であったが、子守歌などを歌いながら足ぶみしていて、背中に背負われている子供の頭だけが見えるが、それが白いので、少々怪しく思えて、近づいてみると、何とそれは小さな犬の子であったのは、おかしくもあり面白くもあった。

    犬の子を負ふた子供や桃の花

と詠んでここを過ぎると、繩手道(並木道)となった。そこからさらに行くこと一里(約4km)ほどいったところで、次の宿へはと問うと、ここからまだ二里(約8km)もあるという。

時計を見れば(この時計は多駄八のものであって、持ったふりをしているわけではない。念のためことわりおく)十二時に近い。
腹が減っては歩かれぬという説に、多駄公も異論をとなえるはずもなく、と云ってみても、そこらに気の利いた飲食店もなく、路傍に一間の草の屋あって、食物をならべていたが、むさ苦しくて東京の紳士が立ち寄る所とは思えない。

ただ、この先にも望みがないだろうから、腹がへっては戦さも出來ずと云いながらこの中に入った。
我等を迎えたのは、身のたけ五尺五六寸(約165cm)、体重は十七貫(63.75kg)はあると思える大女であった。

「菜は燒豆腐とひじきと鮫(さめ)の煮たのとがありますが、どれにしましょうか」と問うが、どれとして選ぶ物がない。
しかし燒豆腐やひじきは恐れる(心配だから)から、それなら鮫にしようと、二人の投票が鮫に落ちついたので、そのように女亭主から板額に通じて、盛って出てきたものを見ると、真っ黒な肴(さかな)かどうかも分からない。また飯を盛ろうとするが、杓子がないので

 野暮「オイ しやもじくれんか」
 大女「エヽ」
と振り返りながら、何のことかわからない樣子であったので
 野暮「飯をよそう………」
と半分手まねで示すと、
 大女「アヽ しやくしか」と一声叫んだ。

余は東京にきて「杓子(しゃくし)」といつてしくじったことがあるので、気をきかして「しやもじ」といったのだが、又しくじってしまった。

飯を盛って食ってみたが、その米の色は玄米であっても、硬さは石膏(せっこう:ジプサム)よりも硬いと思えるほどであった。
ならば鮫を(さめ)で腹をこしらえようといって怒る多駄八を諫(いさ)めて、一きれ食べてみたが、藁(わら)を食っているような心地がして、吐き出した、でもまあ主(あるじ)に対してそうすることもできず、口の中で持て余して興覚めして、一思いにグッと喉の奥に流し込むと、目に涙が浮かんだ。
物の本に「さめざめと泣く」などと書いてあるのは、この時から始まったのだろう。

これではだめだと多駄公の発議に贊成して、生卵はあるかねと問へば、ありという。
田舎でも卵は卵なりで、味も変わるものではないから仙桃(せんとう:中国で云う仙人の桃)を得た心地がして、多駄公は飯をヤッと一杯喰い、余は我慢して二杯食った。

お代はと聞くと、二人前にて卵二個をそえても十錢もしない。こんなに安いのでは、不味くても無理はないとそこを立ち出で、二三十間(36~54m)行くと、大きな息をついて、鮫の口をのがれたのを祝って傍(かたわら)を見れば芋屋(いもや)があった。

二人は喜び斜ならず、「ふかし芋」二錢を買って喰ひながらあるいた。
この芋の旨いこと鮫の比ではなく、芋に助けられてようやく我孫子駅にやってきた。


(注釈)
 千住宿~松戸宿(約11.4km)
 松戸宿~小金宿~我孫子宿(約28km)

(千住から松戸)
201.png

千住_北斎
(富岳三十六景:千住花街と大名行列 (北斎) Wikipediaより)

● 千住はすぐ東を荒川が流れ、西は墨田川があり、両方の川が蛇行している場所です。
このため、千住は河川が運んできた土砂の堆積による湿地帯であったようです。北斎の富岳三十六景に描かれているような雰囲気だったのでしょう。
また荒川は江戸への物資輸送の大動脈として舟運が発達していました。
昭和5年(1930)に完成した荒川放水路により川の両側に新荒川堤防ができ、現在は洪水の危険もなくなり、当時の様子が想像しにくくなりました。
また江戸時代には、荒川も江戸防衛の為に橋は架けられていなかったようですので、子規たちも渡し船で渡ったのだと思われます。

● 千住を過ぎて水戸街道へ入ってそれ程いかないところで、車夫に声を掛けられ、帰りなので安くするとの言葉で二人は人力車に乗りました。乗った距離は10kmほどだと思われます。水戸までの距離の1/10位をこの車に乗ったことになります。

● 水戸街道の入口にいた巡査に道を尋ねた時のとのやり取りですが、子規は高野山に親を探しに行く「石童丸と刈萱道心の説話」(歌舞伎)の登場人物や歌舞伎俳優の名前を出しています。

(物語のあらすじ)
平安時代末期、九州博多の守護職であった加藤繁昌は大宰府を守る苅萱の関守も兼ねており、苅萱道心(かるかやどうしん)と呼ばれていた。
しかし40歳を過ぎても子宝に恵まれず、香椎宮(かしいぐう)にお参りして子授け祈願をしました。
そしてそのとき石堂口に行ってそこの玉のような石を妻にあたえよとのお告げがあり、その石堂口にあった輝く温石を持ち帰り妻に与えると妻は身ごもり、やがて男の子を生んだ。
その子の名前を「石堂丸(石童丸)」と名づけた。
しかし、父繁昌は世の無常を悟り出家を決意し、石童丸の誕生前に京の黒谷へ出て法然上人の弟子となった。
石堂丸が13歳となった春、あまりの父恋しさのため、まだ見ぬ父を探しに九州より母と二人で都へ旅立った。
父を探して訪ね歩いていると、父は高野山にいるという話しを聞き、二人は高野山に父を探しに行った。
しかし高野山は女人禁制で母は山に登ることがかなわず麓の宿に留め置かれてしまった。
まだ13歳の石堂丸は一度も父にあったことがないため父の顔もわからなかったが、一人で高野山へ登った。

しかしそこで修業している僧侶の数は数知れず、顔も知らない父を探すことは並大抵なことではなかった。
それでも石堂丸は必死になって彼方こちらを訪ね歩いて父を訪ね歩きまわったが、知っている者はいなかった。
とうとう疲労困ぱいしてふらふらと歩いていた時に一人の僧侶が声をかけてきた。
実はその僧侶がその探していた父であったが、父は世俗を捨て修行の身であり、石堂丸の名を聞いて自分の息子であることに気が付いたが、父親であることを名乗れず、そなたの父は既に亡くなっていると告げ、母の許へ帰るように諭した。
悲嘆にくれて山を下りた石堂丸だったが、麓の宿では旅の疲れから母は亡くなっており、母を弔い、高野山で親切にしてくれた僧侶(父)のもとを訪ね、弟子入りを志願して一緒に修行生活を送ることになります。

その二人が修行して暮らしていた高野山のお堂が「(高野山密厳院)苅萱堂」です。
その後も父であることは告げずに二人は修行を続け、石堂丸もうすうす父かもしれないと気が付いていても、最後まで父は親であることを名乗ることもなく亡くなります。
その後、石堂丸は父と同じく「苅萱道心」とよばれ、ある日、善光寺如来に導かれて信濃の地で草庵(現在の苅萱山西光寺)を営み、14年に亘って毎日善光寺に参龍し、83歳で亡くなりました。
西光寺には、この説話が伝わっています。

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歌舞伎:「苅萱道心 助高屋高助」「石童丸 嵐和三郎」

助高屋は、この水戸紀行が書かれた頃の歌舞伎俳優という事で、四代目助高屋高助であろう。
ただこの四代目は明治19年に亡くなっており、その後を澤村宗十郎が養子となり継いでいますので、この澤村宗十郎なのかもしれません。

● 中川に架かる中川橋は、今の中川に架かる橋とすれば亀有-金町間を通っており、人力車に乗ったまま、この橋を渡り、少し進んだ江戸川の手前で車を降り、歩いて江戸川を渡って松戸宿に行ったようだ。
江戸川を渡ったのは、現在の県道54号線に架かる「葛飾橋」の辺りだと思われるが、江戸川は江戸時代は治安も含め橋はかかっていなかったようなので、子規の旅した当時もまだ橋は架かっていなかったのではないかと思う。
そうすると渡し船で渡ったことになる。この江戸川も船運拠点でもあり船が結構にぎわっていたようだ。

少し下流側には、歌で有名な「矢切の渡し」があります。ここは柴又帝釈天と千葉県側(松戸市)を結ぶ渡し船です。


<松戸宿~小金宿~我孫子宿>

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● 松戸~小金間の距離が約6km(1.5里)、小金~我孫子間が約12km(3里)程度です。
この間は現在の6号国道に近い道で、今では人家やお店も多くにぎやかですが、子規が歩いた明治22年当時は「町は寂々寥々(せきせきりょうりょう)として空き家ばかり」と書かれています。
松戸から小金まで1里(4km)ほどであり、その道路近くで遊んでいる子供たちのことが書かれています。
犬の子を背負った女の子を見ての句

 犬の子を負ふた子供や桃の花

季節は上野で桜が咲き始めていた時で、この辺りでは桃も咲いていたのでしょう。
ただ桃と犬の子を背負った少女を対比するとかわいらしさが引き立ち、目に浮かびます。
この句が詠まれた場所は文章からは小金の手前のあたりとなります。

● また犬と正岡子規の関係ですが、子規がほぼ寝たきりの生活であった明治33年1月に書かれた犬についての短編の文章が残されており、その最後に「こんな犬(罪を背負った犬)があって、それが生れ変って僕になったのではあるまいか、その証拠には、足が全く立たんので、わずかに犬のように這い廻って居るのである。」と自分のことを書いています。

● この小金宿近くには江戸時代の幕府の馬の放牧場であった「小金牧」が大きく広がっていました。
子規の紀行文の中にはこれに関する記述は見当たりません。

● 子規たちが昼食をとったのは、次の宿まで2里ほどの所とあると書かれているので、恐らく現在の南柏から柏駅の近くであったと思われます。今はにぎやかになって全く想像もつかない程です。鮫(さめ)は海から離れたこの地でも腐敗しにくいため、エイなどと共に食べられていたようです。
ふかし芋を食べた芋屋もこの柏あたりでしょう。
また杓子を「しゃくし」「しゃもじ」の呼び方でもめたようですが、調べて見ると「しゃくし」が元々あった言葉で、平安時代に「文字(もじ)」をつける言葉がはやり、「しゃもじ」という呼び名が生まれたようです。
その後「しゃもじ」が飯を盛る平らな杓子で、「しゃくし」が汁などを盛る「お玉杓子」などを指すようになったようです。汁を盛る「しゃくし」は一般に「お玉」などとも呼ばれていますね。

● また我孫子と云えば近くに手賀沼があり、大正、昭和の文豪(志賀直哉や武者小路実篤等)たちの別荘や白樺派ゆかりの地ですが、これらは明治末期から大正・昭和の時代ですから、子規の旅したころにはまだそのような傾向はなかったのでしょう。
また、子規の旅した翌年の1890年(明治23年)には利根川の洪水により堤防が決壊し、手賀沼沿岸が水害に見舞われています。



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/02/28 10:56
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