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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(3)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は3回目です。



<3> 我孫子~取手~藤代(約14km) 

(現代語訳)
(我孫子宿では)両側の宿屋の下女が人を呼びとめ、騒々しく嚙みつきそうであったが、これを無視して靜かに、又急いで走り去ると、宿場の街並みから四五町(約500~600m)行けば、もうここまでの単調な景色に引きかえて、一面の麦畑のある場所にでた。その麦畑に菜の花が咲き混じっていて、無数の(麦の)白帆がまっすぐに隊列をなして音もなくその上を往来している。
近くに川があるとは察せられるが、川面は全く見えず、実に絶景である。

ここで一句をひねろうと考えてみたが、中々に目は景色にうばわれて、一句も読むことが出来ない。
白帆と麦緑と菜黄と三つ(三色)を取り合せて七言の一句となそうと苦吟してみるがうまくは出来ない。

それならば発句にしてみようと無理に十七字の中に、この菜花と麦と白帆とを云い込めて見たけれど、それも気に入らず、それではと三十一文字にしてみようとするが、これも不出来なものばかりだ。

しばらくいろいろと辛苦していると、余の胸中に浮んだ一大問題は、日本字・漢字・英字の比較である。
今この景色を表すのに漢字を使えば、これだけの字にて足り、日本字ならば何字、英字ならば何字を要するかなどということを初めとし、漢字には日本や欧州にはない特性の妙があり、麦緑菜黄というように他国の語にて言うことが出来ない能がある処であるということ、そのほかに、種々の漢字の利益を発明したり、この議論を詳細に書こうとすると少なくとも八九枚を費してしまうだろう。あまり横道へはいりこんでしまうと、中々水戸までたどり着けそうにないので略して(ここで句を詠むのを)止めることにした。

このように考へながら歩いている内に路地伝いに麦畑の間に入ってしまった。気も晴れて、胸にあった雲も晴れてしまった。

ああ心地よいなと云いながらたたずめば、たちまちチーチーといふ声がいかにものどかにあちこちから聞こえてくる。その鳥を見ようと仰き見るが姿が見えない。
これは不思議であると多駄八に問うと、「雲雀(ひばり)」だという。
あゝそれよ

川辺にやってきた。始めて知ったのだ。
これこそ阪東太郎というあだ名を取りたる利根川とは。
標柱を見れば茨城県と千葉県の境であった。

川を渡れば取手であり、ここまでで一番繁華なる町である。
処々に西洋風の家をも見受けられた。
ただ、このあたりから少しづゝ足の疲れを感じるようになった。
多駄八の足元を見ると、よろよろとして確かではなくとかく遅れがちであった。

周りの野原のなかに1本の梅の木があり、花は眞盛りで、まだ散り始めておらず、こゝらあたりは春も遲いのだろうと、煙草を出して吸ひながらたたずんでいると、少し過ぎて鶯(うぐいす)の鳴き声を聞きければ山陽の獨有渠伊聲不訛といふ句の思ひ出されて

    鶯の聲になまりはなかりけり

このあたりの場所は言葉がすこしなまって鼻にかゝるが、鶯にもし鼻があればなまるのかもしれない。

かくて草の屋が二三軒立ちならぶ処に至る 道のほとりに三尺程の溝あり 槇(まき)、木槿(むくげ)などの垣根があり その垣根の中に一本の椿(つばき)がたいそうにぎやかに咲いていたが、その半ば散って、溝の中は眞赤であった。 あれ見よや、美しいことであると言おうとして、後を振り返ると多駄八は一町程離れて、後からよぼよぼと歩いてくる

道行く商人を相手に、次の駅(宿)のことなど聞き合せ、藤代の入り口にて(商人とは)別れ、まだ日は高いので(次の宿の)牛久までは行こうと思っていたが、我も八里(12km)の道にくたびれたので藤代の中程にある銚子屋(宿屋)へ一宿した。

この駅(藤代)には旅店が二軒あるのみといへば、その淋しさも思ひ見ることが出来よう。(宿で)湯にはいり、足をのばしたのは心持良かったのだが、夜に入って伸ばした足が寒くて、自らちゞまってしまった。またむさくるしい(食事の)膳の中身は昼飯(ひどかった)に比べれば美味いと云えたが、食事が終りすぐ床をしかせて、これで寒さを忘れたのだけれど、枕の堅いのには閉口であった。床の中で多駄八とおもしろき事などを話しあった。

(注釈)
我孫子宿~取手宿~藤代宿(泊) 約14km
<我孫子~取手~藤代>

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● 我孫子宿では両側に並んだ宿の下女たちの呼び込みがうるさいようにかかれています。
でも町の様子や手賀沼のことは書かれていません。

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(Wikipediaの我孫子宿地図)

説明では本陣・脇本陣が置かれた大きな宿場町で、東西1km弱の範囲に広がっていたとあります。
この上の地図の左側東京方面に1km程のところから布施弁天への分かれ道があり、水戸街道も我孫子・取手・牛久などを通らずに牛久沼などが氾濫した時などはこちらの布施弁天→板橋不動尊→土浦のルートもありました。
また上記地図の右(東)側の分かれ道「成田街道」もその昔はこちら側を通って布施から北上するルートもありました。

地図上の門松(角松)本店は江戸時代から旅籠として存在し、現在も割烹旅館角松本店を営業されています。
ただ、この旅館は明治17年に明治天皇も利用したといい、昔は「松島屋」という旅館であったようです。
明治43年頃は柔道の嘉納治五郎もよく訪れていたそうで、その後門松本店に営業が移ったようです。
明治の初めころも結構にぎやかだったようですね。

● 我孫子を過ぎて麦畑を通り、白帆と麦緑と菜黄を合わせた句を詠もうとするが詠めず、あきらめ、その後、鶯の鳴き声に訛りがないことを一句残しています。
このあたりの訛りは鼻で濁り音が出ると思うのでしょうか。
鶯はどこでも同じようにきれいな声で鳴くのでしょうね。

「山陽の獨有渠伊聲不訛」とありますが、頼山陽の漢詩の一部なのでしょうか? よくわかりません。
「渠伊」は中国語で」方言のことのようです。

<取手宿>
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現在の取手駅の東側あたりに宿場があった。
範囲は東西に1キロ弱の範くらいの規模で広がっており、子規も利根川を渡った(渡し船?)あと川に平行に宿場町を進みます。
対岸の東京側にも、青山宿という小規模な宿場町があった。

取手宿が正規の宿場町に指定されたのは、江戸時代に入り暫くしてからであり、他宿場町より、多少遅れていた。
しかし取手宿は利根川水運の拠点地・物資集積地でもあったため、二百軒程の家並みが並ぶかなり大きな集落を形成していた。本陣として使われていた染野家住宅(1795年築)が保存されており週末には公開されている。

また取手の渡しとして渡し船があったが、昔の利根川は、取手市の南(現在の古利根沼(ふるとねぬま))を蛇行して流れており、水害が絶えなかったことから利根川改修工事(明治40年から大正9年まで)が行われ、現在の形に姿を変えました。
この時それまで地続きであった小堀(おおほり)地区が利根川により分断され孤立したため、渡船場(とせんば)の設置を決め、大正3年に渡し船が就航しました。
これが今も船の姿や動力船などに姿は変わりましたが「小堀(おおほり)の渡し」として観光船を兼ね就航しています。

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小堀(おおほり)の渡し:Wikipediより

取手宿について、子規はこのあたりで一番の大きな町だとあり、西洋風の家なども見えると書かれています。
やはり当時はまだ鉄道が通っていなかったが、船運は盛んで、東京などに運ぶ荷物もこの利根川が使われていましたから、町はにぎわっていたのでしょう。


<藤代宿>
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● まだ日が高いから牛久まで行こうと思ったが八里も歩いてきて二人ともくたびれて、藤代に泊まった。
宿が2軒しかない少しさびしい町だったという。
その宿の名前は「銚子屋」といった。もう一つは「永田屋」といったらしい。
この銚子屋さんは江戸時代には宿場の脇本陣だったそうですが、明治になり旅館をされていました。

現在はその跡地に別な経営者として建て直されて「河原崎書店」(取手市藤代502-5)となっています。
現在この河原崎書店さん宅に残された古くからある庭に子規の没後百年記念句碑(平成元年12月建立)が置かれています。

『旅籠屋の門を出づれば春の雨』

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(河原崎書店さんのホームページより)

この句はこのとき詠まれたものではなく、明治29年の作品です。
でも情景はぴったりですね。
また藤代の本陣は現在の役場の場所にあったそうです。



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/02/29 21:04
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