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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(4)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は4回目です。


<4> 藤代~牛久~荒川沖~中村~土浦 約23km

(現代語訳)
四日(4月4日)朝起き出でゝ見れば小雨がしよぼしよぼと振っていて少し落胆したれども、春雨のことであり、何程の事でもないだろうと二人は各々が携えて来た蝙蝠傘を広げた(ただ、余が持ってきた傘は明庵よりの借用物である)

野道をたどること一里、たいそう大なる沼あり牛久という 地図を見るとこの沼の形は二股(ふたまた)大根の形をしていて、余等はその大根の茎と接する部分を横ぎるものであった。
沼には枯れ葦(あし)、枯れ菰(こも)のたぐひが多く、水はそれほど深いとも見えない。
一艘の小舟が雨の中を釣糸を垂れているのは哀れにも寒げであり、水鳥はあちらこちらに一むれ二むれづつ固まって動きもしない。
両股(ふたまた)の股(また)にあたる所に近いため、雨にかすみながらも低い岡があって、そのふもとに菜の花が咲き出でたるなどが見えた。 そこから一里程にて牛久駅に達す。

牛久を通りぬけて後は、路のほとりに一二寸の木瓜(ぼけ)の木が葉もついていないのに、花だけが咲いているのはいぢらしい
路は一筋の松繩手(松並木)にかりゝぬ
雨は次第に勢を増してきて、寒さに堪へられず少し震えながら、多駄公に何か物語りを話してくれないかと思うのだが、話すことは大方昨日の旅路の話に尽きてしまった。
仕方がなく、震える声で声を張り上げて放歌吟声を始めた。

月落烏啼きてを序幕(はじめ)にして寒玉音の知っている詩はすべて吟じ尽くしてしまい、それから謠ひ(うたい:謡曲)を自己流の節にて歌ひしが、諳誦(あんしょう)せし処も少しであるのでこ、れも忽ち種切れとなった。

そこでズットなり下って大阪天満宮の話となり、ここだけは多駄八も加勢してくれてどうにか千秋楽となつた。

サア困つた、(他に)何か種はないか、あるある、花山文に指南を受けた小笠原島の都々一がある。それをやつたが、これも終わってしまい、それからも都々一ときまつたが 都々一は文句を三ツ四ツしか知らないので、半分はウヽウヽと小声で何か自分にも分らぬことをうなっていた。

片手で傘を持ち、もう一つの手は懐に入れている。
風が後から追っかける樣に吹く。
雨がさも憎らしそうに横から人を打つ。
手がかじかんで、小便するのもやつとの思いであった。
足はだるくなった。
歌は拂底(ふってい:すっかりなくなる)になった。

………からだはふるへる。
………粟粒が言ひ合した樣に百程が一所に頰の辺に出た。
………松を吹く風の音ゾー。
………傘に落ちる松の露ポテポテポテ。
………その寒さ。
………その哀れさ。
………痩我慢(やせがまん)の彌次喜多(やじきた)も最早降參だ。

折ふし松のあはひ(松と松の木の間)に一軒の小屋を見付けたり 
店さきにはむさくるしき臺(台)が置かれていて、ふかし芋をうづ高く盛っている。
多駄八にめくばせして、つかつかと店に入り

 野暮「オイ 芋を一錢だけくれんか」 
 「ハイ、わるいお天氣で困ります」

といふものは年の頃十七八を五十許りこえたと思はれる老婆なり、
老婆の手づから与えられた芋を、多駄八にわけている内に、茶など汲みて出だせり つくつく家の内を見るに間口四間奥行二間もあるべし 

右の半分は板間にて店となし、左の半分は土間にて竈(かまど)をすえ、薪を積みなどし、火も燃えていた
かの老嫗(おうな)の外には猫一匹いるとも見えないので、いでここにて一休みしようと内に入って、多駄八と共に火にあたり、木の切りはしに腰をかけ、袂(たもと)より芋を取り出して食ひけるは
滹沱河(こだか)の雑炊にも、十年の宰相にも劣らないと思われた。

老嫗を相手に話している内に一人前五厘の芋は喰ひつくしてしまった
烟草(たばこ)を巻きながら前を見れば釜の中にて何かが煮えており、気がかりなれば

 野「ばあさん これはなんだ」
 婆「それは赤飯(せきはん)でございます」と答ふ
 野「そうか、それじやア何か祝ひでもあって炊くのか、」と何心なく問ひしに老婆はせせら笑ひしながら
 嫗「イエ それは売るのでございます」とさも気の毒そうににいへり

これは吾等の身なりが宜しくないので、それを一杯くわせろなどとねだるのではないかと邪推している樣子であった
少し癪(しゃく)にさわったが礼を述べてその家を去った。
火にて温まっている間は寒さを忘れていたが表へ出れば再び藤房(万里小路藤房?)を気取って松の下蔭(したかげ)に袖を濡らざるを得ず、今はいよいよ御運の末であると力なげに落ちて行くである。
昨日までも今日までも、玉の台の奥深く、蝶よ花よとかしづかれ風にもあてぬ御からだ、薙刀(なぎなた)草履(ぞうり)に身をやつしているのはいても、行くあてもなく、

すべる道草ふみしめて、雨も嵐もあら川や うきとなげきの中村を、
さまよひ給ふ御有樣あはれといふもおろか也 
かゝる苦にあい給ふとも いつかは花もさくら川土浦まちへと着き給う
(宿場は牛久-荒川沖-中村-(さくら川)土浦とあり、これを詠み込んだ)


(注釈)

<牛久沼>
水戸街道は陸路は牛久沼の東側を進んで、若柴宿などを通っているが、牛久沼を船で渡ることの方がこの頃は一般的だったようだ。

401.png 402.png  
(牛久)               龍ヶ崎市観光物産協会ホームページ

旧水戸街道は藤代宿より牛久沼を東に迂回して若柴宿を通る道となっていますが、子規も牛久沼を舟で渡ったと書かれています。
上の右側の図の赤い点線のように船を使った方が近道で楽であったようです。
ただ紀行文には船で渡る場所は、牛久沼の二又に分かれるところに近くてその陸がよく見えると書かれていますので、上記の地図の船のルートよりもう少し西側を通ったのかも知れません。
また牛久沼そのものも現在よりはもう少し東側に広がっていたのでしょう。
悪天候の時は陸路を通ったようですが、これも水が氾濫した時などにいくつかのルートがあったようです。
取手から大きく西に回って現在のつくばみらい市にある板橋不動尊を通って土浦へ行く道もありました。

● また牛久沼を船で渡っていたことでこんなお話もあります。

403.jpg
<うな丼発祥の地:牛久沼」>(常陽藝文 2011年6月号)

江戸日本橋の芝居の金方であった大久保今助が、生まれ故郷の常陸太田へ向かう途中、水戸街道の牛久沼の渡し場にある茶店で好物の鰻の蒲焼と丼めしを頼んだ。
ところが、注文の品が出てきたとき「舟がでるよー」の声。
あわてた今助は、丼めしの上に蒲焼ののった皿をそのまま逆さにかぶせて舟に持ち込み、対岸に着いてから土手に腰をおろして食べることにした。

すると、蒲焼がめしの熱に蒸されてよりやわらかくなり、めしにはタレがほどよくしみこんで、それまでに味わったことがないうまさの食べ物になっていた。
 数日後、今助は江戸に戻る途中、再び茶店に寄り、今度は初めから蒲焼ののった丼めしを作ってもらった。
その後、茶店でこれを売りだしたところ大当たりして、牛久沼の名物となった。
また江戸では、今助が芝居見物につきものの重詰め弁当の代わりに、熱いめしの上に鰻の蒲焼をのせた重箱を取り寄せるようになり、これがうな重の始まりになった。(ここまで引用)

404.png
(藤代~土浦)

● 牛久を通り抜けてからしばらく行くと昔の街道の松並木が続いていたようで、この場所は蝙蝠傘を片手に持ち、いろいろな歌や詩、都々逸など声を出しながら進んだが種が尽きてしまったと書かれています。
これは牛久宿から荒川沖宿までの7kmほどの区間になります。
但し、この間は今の6号国道とほぼ同じところを通っており、国道の拡張や街並みの変化ですっかり昔のイメージは湧きません。

ただ、昔の街道は一般には松が植えられた場氏が多く、このイメージを得るには、土浦-稲吉間にある「板谷の松並木」あたりが参考になると思います。そちらの方は別途後で載せます。

● この松並木の間にあった小さな店で芋を一銭で一つ買って、二人で分けて食べていますが、店の婆さんとのやり取りも面白く、また赤飯を炊いて売っていた様子なども当時のお店の様子が目に浮かびます。

●  この火に暖まりながら芋を喰っているときの表現に「滹沱河(こだか)の雑炊にも、十年の宰相にも劣らない」とありますが、私の知識不足でよくわかりません。
しかし、滹沱河(こだか)は中国の川の名前で、思い浮かぶのは禅宗の臨済宗の名前由来。
臨済禅師が、滹沱河(こだか)の川のほとり(古渡:古い渡し場)に院(寺)を結び、臨済院と名付けたものです。「済=渡し場」であり、渡し場に臨んでいるから「臨済」となったそうです。
昔は禅宗の寺などでは残った汁に飯などを入れて雑炊も良く作っていたようです。
十年の宰相(そうしょう)は、国のトップで10年? 秀吉でしょうか?  秀吉も三十三間堂前の鰻の入った「うぞうすい」がお気に入りだったようです。 もし清盛なら出生にまつわる「山芋」の話があります。
21歳の子規も若くしていろいろ書物を読んでいたのでしょうね。
ただ同期の親友夏目漱石の文には子規も脱帽だったというような話もありますが。

● 店屋を出た後にまた寒くなり、「藤房」の話が出てきます。
私もよくわかりませんが、南北朝時代に建武政権の立役者として知られる藤原藤房(万里小路 藤房)のことではないかと思われます。中納言、正二位まで出世しましたが、37歳(?)で1332年5月に常陸国に流されています。
その後本職に復帰しますが、39歳で出家しています。(太平記)

● ここら先土浦までは歌のリズムでかろやかに「荒川沖宿」「中村宿」と特に書くこともなく通り過ぎています。
荒川沖宿は6号国道から荒川沖駅の方(東)に分かれた道沿いに面影が残されています。
ただ本陣もなく牛久・土浦の補完的な宿場として機能していたようです。

<荒川沖宿>
 「荒川沖」は国道6号線から一つ線路寄りに平行に走る道が旧道のようです。
わらぶき屋根の家が残っています。
写真は2013年11月に訪れた時のものです。

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(鶴町(たばこ屋さん)の建物?)

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佐野屋(旅籠)だった家のようです。

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詳細はわかりませんが数件の家の造りが昔をしのばせてくれるものがあります。


また中村宿も荒川沖宿から1里ほどしか離れておらず、それほど大きな宿場ではなく本陣と宿屋が少しあった程度のようです。
場所は、現在の土浦市外・花室川の少し手前、現6号国道の西側、大川橋手前ですが現在それらしき痕跡はあまり残されていません。



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/01 13:46
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