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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(6)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は6回目です。

<6> 石岡(府中)~竹原~片倉~小幡

(現代語訳)
 石岡は醤油の名所なり 萬屋は石岡中の第一等の旅店なり さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故、藤代にくらぶれば数段上と覚えたり 足を伸ばしたりかがめたりしながら枕の底へいたづら書なとす。
余がこの二日の旅において感ぜしことは気候の遅きことと地理が相違していることの二つである。

 気候が寒いのは、梅の花がまだ散らないことを見ても知ることが出来る。
地理に付いては、余は兼てより下総常陸あたりは平地であって山はないと聞いていたため平野が一望され、肥沃な土地が千里続いていると云った様子を思い浮かべていたが、思いのほか、それ程でなく平野は極めて稀であり、却って低い山や小さな丘陵が多く稲田などは丘陵の間を川のように縫って連なっているところが少なからず見られた。

このほかに、大木もなく、といって開墾もしていない平原といいたい様な所が時々ある(余が広い原を観察するのは、ベースボールから生じた思いである)。これを我が郷里松山あたりと比較すると大差があるというべきだろう。

我の郷里は真に沃野千里(そんなに広くはないが)とでもいうべき丘陵もあるが、常州の辺りのように散在せず、稻田も麦田も時候によって変化するものであり、水田には稲より外の植物を作らないというようなことはなく、又一坪といえども開墾していない土地はない。
これが、余が常州あたりを漫遊して一種奇異なる感情を起した所以である

(四月)五日の朝、褥(しとね)の中で眼を開けると、窓があかるくなっていて日影がうららかにうつっていた。
昨日とはうって変わった日和であるので旅心地は非常にうれしく、障子をあけると、連なった屋根の上に真っ白いものをよく見ると霜であった。

宿を出ようとすると、宿の家婦が言うには、「水戸へおいでになるのでしたら、どこか御定宿はございますか」と、余は「なし」と答えると、それならば「何がしといふ宿へ行きなさいませ。きっとおろそかには取扱ないはずです」と言う。そして案内状まで添えてくれたので、それを受け取りここを出て行くと、筑波山は昨日の(雨の)けしきとは引きかえに、たいそうさやかに見られた。

昨日から絶えず筑波を左にながめながら行くので、山も共に行くような心地がして離れそうにない。

    二日路は筑波にそふて日ぞ長き

(筑波の山が)時々雲にかくれたり、また雲のあいだより男体女体のジャンギリ頭と島田髷(まげ)が見える所などは、なかなかおつである。

    白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體 

このあたりより街道はますます東北の方へと向ひければかの俳諧の元祖を後に見て竹原片倉はどうして過きたか知らず早くも小幡に着きにける 

(注釈)
1)石岡宿(府中宿)

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 石岡の町はかつて常陸国(常州)の国府があった場所であり、国分寺跡や国分尼寺跡がある。
ただ江戸時代は水戸藩の支藩で松平播磨守2万石(他所と合算しているので実質は1万石)の領地であった。
鉄道は明治28年に水戸(友部)-土浦間が開通している。東京田端まで開通したのは翌明治29年12月であった。
子規が旅をした明治22年春はまだ霞ケ浦を利用した船旅が主流であった。

江戸末期から明治、大正、昭和初期まで酒・醤油の醸造業が盛んで、子規も町の印象を「石岡は醤油の名所なり」と書いている。当時この酒醸造所や醤油醸造所が多くあり、町の至るところに大きな煙突が聳えていた。また明治14年ごろから昭和初期まで製紙産業も盛んとなり商人たちも多く往来していた。
明治34年に書かれた石岡繁昌記(平野松太郎著)には当時の街内の店などの広告が載って居り、子規が泊まった萬屋も載っている。
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明治34年 石岡繁昌記(平野松太郎著)
旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」

同じ石岡繁昌記に明治34年当時の鉄道の時刻表が載せられていたので、参考までに載せておきます。
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明治34年当時の石岡駅の時刻表

この子規が泊まった萬屋は現在の石岡駅西口(旧市街)御幸通り(八間通り)の突き当りの「カギヤ楽器」の所(正確には左側の駐車場辺りまで含めたあたり?)にあり、カギヤさんも楽器屋の前には鍵屋玩具店(おもちゃ屋)をしており、柳生四郎氏が昭和24年に書かれた解説本にも近くの橋本旅館(現ホテル橋本楼)さんで聞いて、街中にあるおもちゃ屋さんの場所だと聞いたと書かれています。この鍵屋玩具店さんが2つに分かれて、元の場所に「カギヤ楽器店」と、少し東京よりに「ミノキオトーイ」(玩具店)に分かれたものです。
萬屋旅館からは経営者も変わっており、いつまで旅館が存在したかはよくわかりません。
しかし、明治34年には2か所(本店、停車場前支店)出していた宿も明治44年の石岡誌(松倉鶴雄著)には載って居りませんので、この間に旅館はやめられたのでしょうか。

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(正面左側が子規の宿泊した萬屋があった場所です)

「もてなしも厚き故藤代にくらぶれば数段上と覚えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす  ・・・・」と書かれていますので、この枕でも残されて居れば今ではお宝になっていたに違いありません。

しかし、時代が流れ、鉄道が運行されるとしだいに人や物の流れも代わり、汽船が廃れ、町の姿もだいぶ変わりました。
子規は石岡の宿を出発して気分よく、2つの句を残しました。
その一つ

・二日路は筑波にそふて日ぞ長き

の句碑が中町通りの金刀比羅神社境内にあります。

土浦などの句碑よりも遅かったのですが、これで水戸までつながってきました。
この碑の除幕式が平成26年10月10日に行われた時にその場に行きましたので、その時の様子を載せます。

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石岡市内にある金刀比羅神社で正岡子規の句碑の除幕式があった。
金刀比羅さんは霞ヶ浦の水運が盛んであった頃は笠間の稲荷と並ぶほどの参拝者があったという。水戸街道もこの神社の前を通っていたし、陸前浜街道とも呼ばれていた。

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本句碑は「石岡の歴史を愛する会」により建立されました。

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揮毫書家:川又南岳(水戸)

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写真の正面奥にうっすらと筑波山が見えます。天気が良ければくっきりと見えるでしょう。

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2)石岡の一里塚
昔(江戸時代)の水戸街道は石岡の中町通り(旧355号)から泉町の通りを通って現在の常磐線を越えて、杉並から行里川へ向かっていた。
この杉並の名前はここにかつて日光杉並木のような並木通りがあったことに由来する。
このような街道は一般に松並木が多いが、杉並木は珍しいことだといいます。
理由はここ石岡(府中藩)は水戸藩(松平家)の支藩であり許可されてとの事。

この杉並木の入り口に石岡の一里塚があります。
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これが平成14年の台風で1本が折れ、もう1本も危険だということで根元から伐採された。その後一里塚には2世目の榎(えのき)とその横に桜の木が植えられました。

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桜の木の成長は早く毎年春にきれいな花を咲かせてくれます。

3) 石岡の杉並木
 また昭和30年までは石岡の一里塚から先2kmにわたって、立派な日光のような杉並木がありました。遠くからでもよく見えたそうです。こちらも鬱蒼として暗くなり危険だということで伐採されました。

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今は杉並木はありませんが、「杉並」という地名は残されています。
写真の先の方に行くと「茶屋場住宅前」という信号がある。
ここは水戸藩の殿様などが来たときに接待した「茶屋場」があった場所である。
「石岡100物語」(茨石商事刊行)によると、住宅地の開発された昭和30年以前には、高さ1mくらいの土手で三方を囲われた200坪ぐらいの茶屋場跡が山林の中に残されていたそうです。また江戸時代には、この茶屋場にみごとな松の木(延齢の松)があったという。

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この看板は常磐線の上を跨ぐ旧水戸街道の橋のガードにとりつけられています。
また一里塚と杉並木の昭和30年頃の写真が写真集「いしおか昭和の肖像」(1994年発行宇)に残されています。

4) 行里川(なめりがわ)
杉並の先に行里川(なめりがわ)の信号がありますが、旧水戸街道はここを直進し、関鉄グリーンバス(株)の先を県道は少し右にカーブしていますが、旧水戸街道はそのまま左の道をまっすぐ進みます。ここが行里川(なめりがわ)地区であり、昔の面影のある長屋門のある建物があります。

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行里川(なめりがわ)の街道沿いに残る立派な長屋門。
そしてこの先旧水戸街道は、園部川沿いに大きく右に廻って6号国道へ出て、そこを突っ切って6号国道の東側を通る道になります。


5)竹原宿
竹原宿は本陣・脇本陣の無い比較的小さな宿場でした。また旧水戸街道は、現在の6号国道と重なっており、昔の宿場や街道の面影を探すことは難しく、静かな街並みが旧竹原宿をイメージするだけとなっています。
旧水戸街道は石岡の一里塚から杉並から行里川(なめりがわ)を経由してからしばらくして旧道を通りながら東に向かい現在の6号国道と交差するあたりが竹原宿で、ここから次の片倉宿の手前までは現在の6号国道と合致します。

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この竹原の交差点手前の少し高くなった台地の上に竹原神社があります。
この神社には「アワアワ祇園」という祭りが継承されています。
説明では:
正保二年(1645)に園部川上流の旧大谷村を中心に伝染病が流行し、その原因が「大谷村の牛頭天王が人を食うからだ」、との噂が広まった為、大谷村の人々は怒って牛頭天王の御神体である金幣を園部川に流してしまいました。そのご神体が流れ着いた竹原村では、神の怒りを恐れ、水中から金幣を引き上げた後に、洗い清め、焚火で温めて、乾かしてから祠を建ててお祀りしました。
そのご神体が「アワアワ」と寒さでふるえていたとの言い伝えから「アワアワ祇園」と名づけられました。と書かれています。
アワアワ祇園祭は7月の第3土・日に行われています。
また石岡の木之地町のみろく人形も今では残っているものが少なく、ここ竹原に残されていたみろく人形をもとに復元されています。

6)片倉宿
 6号国道は、この片倉宿から小幡宿を少し避けるように迂回するルートがとられましたので、片倉宿には昔の宿場の名残が少し残されています。

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旧水戸街道は現在の国道6号の水戸に向かって左側を走っています。
この小美玉市役所の側に片倉宿がありました。
今は住所表記では「堅倉」となっていますが、昔は片倉でした。
本陣はなく、脇本陣が1軒と宿屋が10軒ほどあったといいます。

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街道の曲がり角に「角屋」という旅館がありました。この旅館「角屋」も江戸の中期ころには創業していたようですが、詳しくはわかりません。
この宿はその後「旅館かと屋」と名前を変えて残っています。
上の写真の建物ですが、改装で立て直されたようですが、設計に問題があり内部は完成できずに住むことができないそうで、現在の「旅館かと屋」は100mくらい離れた国道沿いに移転して営業をしていました。「堅倉」の信号のすぐ横です。

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旅館「かと家」

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曲がった先にあった「平本米穀店」さん
6号国道の「堅倉」交差点近くに「貴布禰神社」があります。


この先水戸、更に大洗までもう少し調べておかなければならないことが多すぎます。
この先の記事は調査が終わってからに先延ばしです。
水戸近辺は常陽藝文 2007年3月号の「正岡子規の「水戸紀行を歩く」が詳しいです。
これを頼りに時間の或る時に散策してみたいと思います。
(続きは またその時までお待ちください)







水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/03 14:15
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