fc2ブログ

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(8)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は8回目です。

<8> 水戸散策(1)弘道館・水戸城跡まわり

(現代語訳)
多駄八と共にくたびれ足をひきずりながら城の方へと向った
このほとりの町々(上町)は一昨年の正月の火事に大方は焼かれて、家居は新しいけれど、なおまばらである 学校や、県庁であるだろう西洋風の建て物二三軒を過ぎると、二三百坪の広い平らな場所があり、その回りに梅が植えられている。

左に曲れば大きな門があり、何とも分らないが寺か宮の類と思って、玄関に至って縦覧(見学)を願ったら、たやすく許されたので、上って見れば、これこそかねてから聞いていた弘道館であった。
烈公の書像を拝して、その高尚なる風采に尊敬の心を起した。 床にかけてあった一軸は烈公が書いた種梅の記の石摺(いしすずり:石に刻まれた文字などを紙に掏り取ったもの)である。 

今は大半頽(くず)れているものの中に講堂と思われるほどの広い間は見受けられず、この家の半分は幼稚園となっていた。 裏へまわると梅の樹がたくさんあり、梅の碑もその中にある。
咲き残る梅の中に一つの堂らしき小さな物があり、何か知らないがのぞき見たが、面白いものもなかった。
その少し横に又小さな家作りがある。これもまたつまらぬ者よと通り過ぎて、帰京後に聞いて見たらば、これぞ名高き大なる寒水石の碑であった。
弘道館の向いはすぐに旧城阯であった。
さあ(城)興亡の跡を見ようと、堀を渡って内に入ってみると、師範学校と思われる立派な家居があり、それに沿って行くと、古木が茂っていてほの暗い処に出た。
行きどまりになった処は絶壁であり、谷の深さは二三十間もあるだろう。 
下を望むと工夫が四五十人群がって鉄軌(レイル)をしき煉瓦(レンガ)を運んだりしていた。
その理由はわからないが、谷を隔てたところに残された櫓(やぐら)が一ッ二ッ立っている。 
この城は上市とは同じ高さの土地であるが城の東南にある下市から見ると遥かに数十丈の空(上)にある。
ただし上市は東京の山の手に当たり、下市は下町の類である。 
この谷に沿って左に行けば、那珂川が山の下に帯のように蛇が横に這っているように曲折している。

それを出て新たに堀り割りした道を通り、石階段を登れば常盤木のおい茂れる中に一つの廟があった。
家康公を祭りしもののようだ。
ここから路を変えて水戸公園常盤(ときわ)神社に至り、そこから左にいくと数百坪の平坦な芝生の原が毛氈(もうせん)のように広がっており、左は十間許りの崖があり、この崖の下は直ぐに仙波沼である。
この沼に限らずこの近辺には沼が多い。
沼の水は深くはないが、一面にみなぎっており、これは灌漑用に供するために、今から水門を閉じて蓄えておくもので、違う時期には水は乾(か)れていると。

かの芝生の上にて七八人の小供が歳は十(歳)ばかりであるがうちむれて遊んでいた。何をしているかと近づいてみると、ベース・ボールのまねであった。
ピッチャアありキャッチャアありベース、メンあり 
ストライカーは竹を取りて毬(女の持て遊ぶまりではない)を打つ 
規則は十分にととのっていないがファヲル、アウト位の事は知っている。

この地方にこの遊戯があるのは体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ)の卒業生などが小学校において広めたのだろうと思われる。

(注釈)

● 水戸の火事:
明治5年(1872)に水戸城は三階櫓を除いて焼失し、本丸の跡地に水戸一校が建てられた。
17年には下町,19年には上町の大火によって,城下町水戸は近代都市へと転換していく。この19年の火事は12月30日ですからこの子規の書いた一昨年の正月の火災のことになります。(明治17年に下市の大火という火事があり、七軒町から出火し、本町、竹隈町からさらに焼け広がったそうです。これにより下市は整備がなされ、近代的な商業都市になっていきました。)

● 弘道館:
水戸弘道館は水戸藩の藩校で、三の丸付近にあった藩校を二の丸付近に新たに建設移転して天保12年(1841)に完成(仮開館)したものです。ただ当時鹿島神宮からの分祀や孔子廟の完成などを経て安政4年(1857)に本開館となりました。(弘道館HP)
明治になると役割を終えた弘道館は茨城県庁舎(明治5年~明治15年)や幼稚園(明治22年1月~大正10年?)、小学校や高等女学校の仮校舎として使用されたようです。正岡子規が訪れた時に「幼稚園」であると書かれていますが、ここには「私立の弘道館幼稚園(水戸幼稚園)」があったようです。当時はこの幼稚園園舎(私立)が出来たばかりの頃で、大正10年に水戸市に移管され、大正14年に三の丸の小学校校内に園舎を建設して三の丸に移転され「水戸市三の丸幼稚園」として継続されています。

801.jpg

802.jpg
(写真:弘道館HPより)

● 弘道館記碑(寒水石の碑):現在の常陸太田市の真弓山から切り出された寒水石(大理石)に「弘道館記」が斉昭の書および篆額で刻まれています。石碑の大きさは、高さ318㎝、幅191㎝、厚さ55㎝です。
「弘道館記」は、弘道館建学の精神を象徴するものです。天保8年(1837年)に藤田東湖によって草案が作られ、多くの学者らによって検討が繰り返され、天保9年3月に斉昭の名で公表されました。弘道館という校名は、「弘道館記」の冒頭「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。」からつけられました

803.jpg

(弘道館HPより)

弘道館の向かいの旧城跡:これは城の二の丸付近で、この一帯には現在付属小と水戸三校のある辺りには「茨城師範学校」がありました。茨城師範学校は小学校の教員養成のため、明治7年に別な場所に設立されましたが、子規の訪れた前年の明治21年にこの城跡に新しく建設され移転しました。現在は茨城大の付属小学校となっていますが、近くに「茨城師範学校跡」の碑が建てられています。

● 鉄道工事:
二の丸の先が崖になっていて下で鉄道工事が行われていたとありますが、これは現在の水郡線の通っている場所で、この線路の向こう側の高いところは三の丸、本丸があった場所です。この鉄道工事の詳細は常陽藝文2007年3月号によれば、水戸駅と那珂川駅とを結ぶ貨物線の建設だそうだ。那珂川の水運と鉄道の駅とを結ぶ貨物輸送用の鉄道で、また工夫達がレンガを運んでいたのは、アーチ形のトンネル橋に使うためだったという。
その後このレンガの橋は、三の丸にできた水戸中(現水戸一高)の生徒の通り道となった。(このレンガの橋は昭和四年に鉄製の橋(本城橋)となり、平成14年には新しい橋に付け替えられています。)

● 三の丸(本丸):
子規は水戸の城址は二の丸の師範学校の辺りだけだと思っていたようで、この場所にある師範学校(できたばかり)などを見て、その先の崖から谷間の線路工事などを確認して、その先高台に2~3の櫓の立っているのを見たという。この場所が旧水戸城の三の丸、本丸のあった場所で、現在は水戸一高があります。昔の上市(うわいち)は城から見て西側の高台であり、下市(しもいち)は東南の低い場所でした。

● 新たに堀り割りした道:
子規が書いているこの道は「旧銀杏坂(いちょうざか、別名ぎんなんざか)」と呼ばれる坂道で、子規の来た前の年の正月の火事(正確には明治19年12月)の後に、明治20年に切通しに掘り込んでできた坂だという。それまではうっそうとした森だったそうだ。JR水戸駅北口駅前から国道50号線で一つ先の信号が「銀杏坂」となっており、ここを右に曲がって水戸京成ホテル前を通り三の丸小学校へ行く道が「旧銀杏坂」です。駅方面から曲がる手前に大きな銀杏の木があります。ここから三の丸方面は登坂です。子規たちは三の丸側から駅方面に下った。

● 徳川家康の廟:現在の水戸東照宮(水戸市宮町2-5-13)

805.png
(Wikipediaより)

804.png
(子規の水戸市内見物:旧水戸城周辺)

旧弘道館(幼稚園含む)⇒茨城師範学校(二の丸)⇒貨物線工事中⇒その向こうに櫓(本丸、三の丸)を眺め⇒切通(旧銀杏坂)⇒水戸東照宮⇒常盤神社・偕楽園
(午後の短い時間によくこれだけ歩いたものと感心する)

● 偕楽園の芝生広場:少年たちの野球(ベース・ボール)
当時の偕楽園の芝生広場がどのようになっていたかは知らないが、野球は当時まだ日本ではあまり知られていないスポーツであった。子規の野球好きは有名であるが、この水戸の地にベースボールが伝わっていて喜んだのだろう。水戸での野球チームが誕生したのは水戸中(現在の水戸一高)の野球部で明治24年(1891)だという。札幌農学校出の河村九淵教諭が原書から野球のルールを翻訳して生徒に教えたという。(当時の校長渡瀬寅次郎も英国帰りの人物でスポーツに熱心だったそうだ)

● 体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ 旧字:體操傳習所)は、1878年(明治11年)10月、東京府神田区(現在の東京都千代田区)に設立された文部省直轄の体育教員・指導者の養成機関


水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/08 09:58
コメント

管理者のみに表示