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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(10)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は10回目です。最終回です。


<10> 4月6日大洗 ~ 4月7日 帰京

(現代語訳)
(四月)六日 曇り、多駄八と共に宿屋を出て今日は大洗に行こうとかねてよりの目論見であったので、舟に乗ろうと那珂川のほとりに下りようとしたとき、たちまち左足の裏の筋肉が痙攣(けいれん)を起して一歩も歩くことが出来なくなった。
多駄八と顔を見合せてまるで立ち往生の姿となり 正にこれ

    時不利兮騅不逝。多駄多駄奈レ汝何

かくては敵わないと項羽の勇を奮って十間程歩くとまた筋が攣(つ)ってしまい、泣く泣く蝙蝠傘(こうもりがさ)をたたいて歌って曰く

    行クニ無レ車。帰ルニ無レ家。蝙蝠若レ爾ヲ何

やっとのことで舟宿へ行き小舟を一艘買って那珂川を下った。
岸移り山行く あるいは藪の下を過ぎて竹の風に耳を洗い、あるいは家のほとりを漕ぎて人の話に耳を傾ける
この日は日も照らさず雨を催す筑波下ろしが寒いので興もさめてしまう心地がする、震え声を振り立てて船ばたを敲(たた)いて歌ふて曰く

野「蘭ノ槳兮桂ノ棹 そんなものはここにない。月落チ烏啼いて朝寒い」
多「なんだ、それは。船歌なら船頭の方がうまいよ」
野「これは「い」の字の韻をふんだ新体詩だよ、和漢を一丸に処に気が付れやせんか」

と威張っても風が寒いだけはおさまりがつかず、とうとう船の底に成るべく背を小さくして寝てみたがなお寒い。
少し働いたら寒さを忘れるだろうと船板をまくってボートを漕ぐように漕ごうとするが薄い板なのでヒョコヒョコとして力が入らず、船頭が「そこにある棹(さお)では如何ですか」と言う。
それならばやって見ようと棹を取り出して見るが、三間有余の大な木の棒であり、その重いことおびただしい。

これを横にして縄でもって船べりに確りとしばり、いざ漕ぎだそうと水に入れ引きあげようとするが、舷(げん:船べり)は低く、また棒は長いため棒の先の水が上がらず、却って舟の進みを止めてしまうので、これも止めようとなり止めた。
船頭に少し櫂(かい)を貸してくれ、漕いでみるからと言えば船頭は喜んで座を余に譲った。
余は臍(へそ)の緒を切ってから初めて日本船を漕ぐことであり、どうなるものかと心配しながら押したり引いたりすると思いの外うまく行った。
興に乗じて夢中になって漕いでいると、しばらくして気がついて船の位置を見ると真っすぐに来ていないで斜め斜めに進んでいる。
これはと思っているうちに向う岸に突き当たりそうになる。あわてて向きを曲げようとするが舟はますます直線に進み、わき目もふらず石に(舟の)頭が触れそうになり困り果てて「助け船、助け船」と呼べば 船頭は笑いながらやって来て、舟を転じてくれた。余の漕ぎ方は引く方が弱いとの船頭の忠告に成程とさとり、その理論であれば今度はうまくやれると鼻をぴこつかして漕ぎはじめたが、いつの間にかまた岸近くなってしまった。
かくては一船を支配せんこと覺束(おぼつか)なしと、ついに辞職した。もし余を人海に入れて世渡りすれば、なおこの舟のようになるであろう。

船のことは船頭に譲って、おのれは矢張り哲学者然として舟にいても舟を忘れ、水を見つめて逝者其如此夫(ゆくものはそれかくのごときかな)とすましこんでいるものから、今まで舟漕ぐ技(わざ)に紛れていた寒さがいよいよ強くなり、その上、船暈(ふなよい)の気味があり、口には言わねど腹では閉口しながら、何! 大丈夫だ これしきのことに………余は元来痩我慢(やせがまん)の男であって、身体の弱い方なのに不規則に過激な運動をすることがあるけれど、苦しきのみであり、何とも思はず、着物も着たら脱ぐのは大嫌いだから着ることはもっと嫌いであり、烈寒の時もさむがりの癖に、薄着で表へ出ることも多い。

そうであるから今回の旅も綿入一枚に白金巾のシヤツ一枚ばかりにて、着替えも持っていないのでひた震えに震えて、それはただ寒いのみなりと達摩(だるま)の如く悟りこんでいて、これが為に悪いとか良いとかいう考は無いばかりでなく、こんな目にあって櫛風沐雨(しっぷうもくう:風雨にさらされながら、苦労して働く)の稽古をすればこそ、体も丈夫になり心も練磨するのであると思い知るこそ、うたて(いやな)の技である。
この船の中の震慄(しんりつ)が一ケ月の後に余に子規の名を与えようとは神ならぬ身の知るよしもないけれど、今より当時の有様を回顧すれば覚えず粟粒(ぞくりゅう:粟粒のように小さい)をして肌膚(きふ:はだ)を満たすのに足りる、ああ天地は無窮大(むぐうだい:無限大)の走馬燈である。 
今日の人は昨日の人にあらず 今年の花は来年の花にあらず 甲去り乙来り 権兵衛死して八兵衛生る 
百万年の百万倍も無窮(むげん)に比べれば奇零(きれい:単位以下の数)の一にも足らず、まして百年生きのびるも三十にして終るも天地の一瞬の一億万分の一なるべし、されば一寸の蟲(むし)に五分の魂あり 生きとし生ける者いづれか生命を惜しまざらん ただ止むを得ずあきらめるのみ 
西行は浮世のままならぬを悟りて髪を落し、(熊谷)直実は若木の桜を切りて蓮生(よりつな)となる 
提婆(だいば)が悪も仏果を得、遠藤の恋は文覚(もんがく)となる、煩悩も菩提なり 病気豈(あに)悟りの種とならざらんや、かへらぬことをくりかへすは愚痴(ぐち)のかぎりなるべし

舟は川口に着いた。祝町の大門を出て松原を行くこと半里余、砂の中を歩む数町にして又一ツの林に出た 樹々の間に見える甍(いらか)はこれなん大洗い神社である 

石階を下りて海浜に出れば料理屋四五軒あり 今新築にかかれるたかどのは結構壮麗目を驚かす許りなればこれも料理屋であるかと問へばそうであった。 
鉄道が水戸に通じてそれから紳士がくることも多いのでこの夏の備えに設けるものであるという。 
このすぐ下は海であり、そのまま太平洋に連なっており、沖に島もなく山もなく、遠くで空は海に浸り、海は空に続いている。
行き来る白帆(船)もなければ飛びかう小鳥もない。

この浜辺四五町の間は、小石のかたまったように見える丸い岩が、いくつも連なって東から打ち寄せる波がこの岩にあたって白雪を数丈の高さに飛ばし、勢いの余るものは岩の上を越えて、つぎの岩にあたって砕け散る。
砕けた波しぶきは空に白く躍り、超える波は岩の上を真っ白にする。

この景色が長く続くのを見ていると、ここに消え、かしこに興り、左に退いて右に進む。
一目で遠くを見渡せば、白い岩と黒い岩とがあって、さながら碁石のように変幻の妙筆に尽くしがたい。

    ア メ リ カ の 波 打 ち よ す る 霞 か な

茂林陰暗路迂回 大洗祠頭眼界開 牛踞虎蹲百岩石 雉飛翬集幾樓臺
  狂風高自雲端落 怒浪遠從天末來 嶋影無痕帆影沒 乾坤一望絶纖埃

ここの美肴(びこう)にて昼飯をしようとの発議もあったが表議がまとまらず止めとなった。それよりは車を雇って帰れば今日の午後の汽車に間に合うだろうと磯浜(地名)を歩き回ったが、車がなく、志をはたさなかった。
それならば飯を喰おうとあと戻りして、飲食店を探すが、これと思う処が一間も見あたらず、仕方なく大そう古びた汚い家に入った。
二階へ上ったが、乞兒(こじき)小屋に壁をつけた位なもので、飯もきっとそのように期待できないだろうと思ってはいたが、やはり運んできた膳に向って茶碗を取り飯を一箸頰張ってみると、初めの日に板額(はんがく)の御馳走になったのにも増して石を食ふてもこんなことはあるまいと腹が立ったが、吐き出すことも出来ず一杯をようやく食い終って早々にここも逃げ出した。

磯浜の出口に来ると、車夫が群がるほどいて、しきりに乗せようというが、これも足元を見るものであろう。この時は多駄八も余も、弱りに弱りて蹌々踉々(そうそうろうろう)といふ風情であった。
これは酒を飲んだような徴候であり、遠路に草臥(くたび)れたものである論理を知らぬ車屋にも、すぐさま見ぬかれたけれど最早かくなる上は車には乗るまいと意地になり、

野「なんだと 車に乗れと、おれさま達を誰だと思ふんだ はばかりながら神田ツ子のその隣の本郷ツ子だよ、車をすすめるなら足元見ていやアがれ、一日に東海道を行きもどりしたとて、くたびれる樣なお兄イさんじやないよ」

とさんざんに威張ったが、足といふ正直者はとかく我等を裏切ってなかなか先にすたすたと歩くことが出来ず、折から道の辺にてよもぎ(ヨモギ)といふ草を摘む老女(おうな)あり、この草は我ふるさとでは餅などに混ぜて搗(つ)くから、そのようなのかと尋ねると、否この草は何とかいふ病に効き目があるという。思いがけない答えに驚いて、そのようなこともあるのかとそこを通り過ぎた。

三里ばかり歩いて下町に着くと、大そう寂しく衰えたる様であった。
店に重箱木地鉢のたぐいの塗物を売る処が多くあったので、このあたりの名産であろう。

仙波湖に沿って上町に来て停車場の近くの家に宿をとった。
明日の一番汽車に乗るつもりであるから、良い頃に起こしてくださいと頼んで一夜の夢に日頃のくたびれを休めた。

翌(四月)七日朝早く起てだして、見ると大雨が盆を傾けたくらいに振り、汽車に乗れば屈託もしないと、ここから停車場まで五町はあるといふのには閉口したり、また人力車は一寸無く、朝飯は間にあわないと言って弁当をこしらえてくれたけれど、この雨では弁当の折りが雨にぬれてしまうと心配すれば、この家の老女が、破れた絹の切れ端し破れ草履二足とを持ってやって来て、折り二ツを絹のきれに包んで、またその草履ではとても歩けないであろうからこの破れ草履をはいて停車場まで行き、そこで履き替えるなさいと言う。

大層なさけ深い老女(おうな)であると拝むばかりに礼を述べてここをたち出で停車場へ来るまでに着物は大方絞るばかりに濡れてしまった。

一番汽車に乗り込めば最早(もはや)しめたものである。火もふれ鑓(やり)もふれと思うが、雨の勢いはあいにくに減ってきた。ピューと一声、汽車は仙波沼に沿って動き始めたが、偕楽園(好文亭のある公園の名)の麓に数十の穴が同じ間隔に並んでいるのが見えた。

あやしく思ったが、穴居の遺跡ではないのか、それならば足がくたびれていたとしても見ておくべきものであったと殘念であった。
しかし雑誌では見たこともないので穴居ではないだろうかと半信半疑のうちに汽車はためらいもせずに進んで走り去った。

間もなく正午になった頃に上野停車場へ帰った。あまりの早さで、旅で歩いたことがおかしく思われた。

旅費の殘りがあればと多駄八がだだをこねるので、仕方なく西洋料理に出かけ、帰りに菊池仙湖の寓を訪ねて、今回の水戸行の委細を語れば

「君がこようとは夢にも思わなかった。それは殘念だった。はがきは曾て(かつて)屆かず、これは不思議なことあって、君と同日だと思うが僕の弟が出した手紙も届かなかった」

と言っている。思い出して偕楽園の下の穴の理由を訪ねてみたが、あれは土を掘るためであって何でもないと答えるので、余はこの答を聞いて失望せずに逆に安心した。

後は野となれ山となれ、日頃志す膝栗毛がここにようやく終りを告げて
                         めでたしめでたし 
[自筆稿 明治22]


(注釈)
1) 那珂川の船乗り場:子規たちが水戸から大洗に行こうと舟を頼んだ場所は、国道349号線(旧太田街道、棚倉街道:水戸~常陸太田~)の那珂川に架かる橋「万代橋(よろずよばし)あたりではないかといいます。この橋が最初に架かったのは大正8年だそうで、それまでは「青柳の渡し」という渡し場があったようです。現在川のふもとに石碑が置かれているが、江戸時代は夜の渡船は禁止され、明治以降は人が溜まると舟を出すという感じであったらしい。子規もこのあたりにたむろしている舟を頼んだのだろう(定期便ではなく)。子規も自ら舟を漕いだりしたと書かれている。この舟に乗ったときに寒さと無理がたたって1か月後に喀血して子規を号するようになったとここに書かれている。
2) 時不利兮騅不逝。多駄多駄奈レ汝何。  (史記「四面楚歌」より)
(時利あらずして騅(すい)逝(ゆ)かず:時勢は(吾に)不利であり、(愛馬の)騅は進もうとしない)
(多駄多駄奈レ汝何:ただただ奈れ汝(なんじ)をいかんせん)
項羽の勇:三国志に出てくる勇者
3) 那珂川の舟下りの間の様子がここには書かれていますが、話の内容に古代中国(三国志など)に関係した言葉がいくつか出てきます。
・「蘭ノ槳兮桂ノ棹」:中国の詩人・蘇軾の著わした「赤壁の賦」の中に酒を飲んで舷(ふなばた)をたたいて歌ったとき、「桂櫂兮蘭槳 撃空明兮泝流光 渺渺兮予懷」
(「桂の櫂(さお)蘭(らん)の槳(かい) 空明(くうめい)を撃(さおさ)して流光に泝(さかのぼ)る。 渺渺(びょうびょう)たり予(わ)が懷(おも)ひ
美人を天の一方に望む」)とあります。
・月落チ烏啼いて朝寒い:唐の詩人・張継が詠んだ七言絶句に「月落烏啼霜滿天」(月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ)あたりから来ているのだろうと思われます。
4) 粟粒をして肌膚を満たす:これは結核を患った子規の思いが込められているようです。「肌に粟を生じる=寒さのために肌に粟粒のようなつぶつぶができる。」「粟粒結核=結核菌が血管の中に進入して、肺だけでなく様々な臓器で感染した状態」
子規はこのようなことをも心配しながら暗示しているのかもしれません。
5)「直実は若木の桜を切りて蓮生となる」源平合戦で活躍し、平敦盛を討った熊谷次郎直実(なおざね)は思うところがあって、法然と会ったのち出家して蓮生(れんせい)となり法然の弟子となりました。
6)大洗にて
  祝町:那珂川の河口部ですが、ここは水戸光圀が開いた江戸時代の遊郭があり、花街として栄えました。ここで船を降りた子規たちはここから南に海岸沿いに下ったようです。

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そうして、一つの緑の杜を抜けて2つ目の杜の中に見つけたのが「大洗磯前神社」です。

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そしてこの石段を下りて下の海岸に出ました。

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そこの岩に波が打ち付ける様子を興味深く眺めながら、この海の向こうがアメリカにつながっているという感覚に襲われました。

    ア メ リ カ の 波 打 ち よ す る 霞 か な
茂林陰暗路迂回 大洗祠頭眼界開 牛踞虎蹲百岩石 雉飛翬集幾樓臺
  狂風高自雲端落 怒浪遠從天末來 嶋影無痕帆影沒 乾坤一望絶纖埃

この俳句の後にうたわれている漢詩(七言律詩)は大洗で得た印象をそのまま表した律詩です。漢字の持つ意味をつなぎ合わせれば意味は通じます。細かな解釈は読まれた方におまかせします。

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大洗港のサンフラワー号(北海道までのフェリー)

町から少し離れてしまい仕方なく入った店は旅の最初に食べた店と同じくらいひどかったようだ。初日の店は小金宿を過ぎた今の柏辺りで鮫を食した店のことで、そこの女が大女であったと書いている。ここでは「板額」と書かれている。
・板額(はんがく)は板額御前(平安時代末期から鎌倉時代初期の女武将)の伝説から、体格がたくましく背の高い、容貌の醜い女をあざけっていう語だという。
・ヨモギの効能:子規はヨモギ餅のことは知っていたが、薬になるのは知らなかったようだ。ヨモギには抗炎症作用、皮膚炎の改善や血行を良くする作用もあることが知られていますね。

子規たちは3里(12km)も歩いて水戸の下市に戻ってきた。余り繁華街ではなく寂れた印象だったようだ。ここには「重箱木地鉢のたぐいの塗物」が沢山売られていたと書かれています。下市は水戸の町人・職人などが集まって町が作られた経緯があります。そしてその晩は駅の近くの宿に泊まった。
藝文によれば当時の水戸駅は「柵町(さくまち)停車場」と言っていたという。当時の駅は「停車場」とみな呼ばれていたようだが、柵町というのは何だろう。
今でも水戸駅南口の東側に狭いエリアだが「柵町」という地名は残されている。
今昔水戸の地名(堀口雄一著)によると柵町は江戸時代に二の丸城の南側に柵があり、この柵門より西が西柵町、東が東柵町であり、ここが上町(上市)と下町(下市)との分界であったそうだ。

7)翌四月七日 朝から大雨だったが、朝早い時間に水戸線に乗り正午頃に上野駅に着いた。
・横穴:列車で偕楽園脇を走っているときに子規は崖にいくつも横穴があいているのを発見します。そして帰京してから菊池謙二郎に確認したが、あれは何でもないといわれ、まあ期待したのにがっかりではなく、むしろ安心したと書かれています。
実はこの横穴には「水戸城の抜け穴」ではないかという伝承があるようです。
ただ、これは「江戸時代に 「神崎岩」 と呼ばれた石を笠原水道という昔の巨大な地下水道の岩樋 (いわひ : 岩をくりぬいて作られる川の取水口) などに使うため採掘した跡」というのが今の見解のようですが、総てがそうであるかはよくわかっていないようでもあります。内部調査をしたところノミで掘った跡などから人口のものであることは判明しましたが、岩を取るためとは思えない複雑な構造をしており未だ謎が残されているようです。(茨城大学地質情報活用プロジェクトHPより)



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/10 08:38
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