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芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (2)

(解説)
 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。
しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀上野から桃印という甥と三人で暮らしていたのですが、寿貞と桃印が駆け落ちしてしまったのです。当時これは密通罪という大罪であり、二人に死罪もあるため、怪しまれることを恐れた芭蕉(桃青)は延宝八年(1680年)日本橋と云う繁華街から深川に移ったと云われています。

芭蕉庵02
芭蕉庵と臨川庵


さて、芭蕉が深川で暮らした「芭蕉庵」ですが、現在の墨田川と小名木川の合流地点のすぐ近くです。
上記の地図に示した「芭蕉稲荷神社」に芭蕉庵跡の碑が置かれています。また、すぐ近くの川を眺められるテラス公園(芭蕉庵史跡展望公園)に芭蕉の像が置かれています。芭蕉に関するいろいろな資料などは隅田川沿いのすぐ北側の「芭蕉記念館」にあります。

しかし日本橋から深川に移ったため、門下の人々の多くが来なくなり、かなり失意の気持ちが強かったと思われます。そんな時に知り合ったのが仏頂和尚です。
この仏頂和尚ですが、芭蕉庵から500m程の距離にあった「臨川庵」(現:臨川寺)にいました。
この臨川庵は、承応2年(1653)に鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだのが始まりとされます。
鹿島の根本寺住職は1674年に冷山和尚から仏頂和尚に引き継がれましたが、根本寺の寺領50石を鹿島神宮に取られそうになり、1675年頃から仏頂和尚は寺社奉行に訴えるために江戸臨川庵に逗留していました。この訴訟争いは7年ほどかかり勝訴がほぼ決まったのは天和2年(1682)だといいます。
またこの臨川庵は仏頂和尚が幕府に願い出て、正徳3年(1713)瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可され現在に至っています。
芭蕉はこの仏頂和尚から禅の心を会得し、精神的にもだいぶ変化があったようです。
そして仏頂和尚から鹿島の山の月見に誘われて、貞享四年(1687)8月15日の前の日に名月を見ようと曾良と宗波の2人の門下と鹿島詣に出掛けたのです。
さて、行きは小名木川から新川に入り行徳まで舟で進み、そこから布佐までは当時の木下(きおろし)街道を徒歩で進みました。
この小名木川と新川を通る舟の道は江戸時代の大きな舟運の大動脈でした。

少し歴史を見て見ましょう。
天正18年(1590)、江戸に入った徳川家康はまず行徳の塩田に目をつけました。この塩を江戸に安全に運ぶために、行徳を天領とし中川と隅田川を繋ぐ人工的な運河(水路)・小名木川を造り、また、文禄3年(1594)には利根川東遷事業という大工事を開始し、河川の改造をすすめています。
一方この小名木川は中川までつながりましたが、中川から行徳までは古川という自然の川を当初は使っていたのですが、東側がかなり蛇行して通行に支障をきたしていたために江戸幕府成立後の寛永6年(1629)に水路を直線化する工事が行われ、今の新川が出来ました。そして当初は行徳の塩の輸送が主な目的だったのですが、寛永9年(1632)には貨客船「行徳丸」が就航し、利根川を経由した船路が整備され、東北地方や関東地方と江戸を結ぶ水運が発達し、荷物の運搬や人の輸送にこの小名木川・新川のルートが水運の大動脈になったのです。

当時の様子を調べて見ましょう。
深川万年橋
富嶽三十六景 深川万年橋下 葛飾北斎(1760~1849)

芭蕉庵のすぐ近くの小名木川に架かかる萬年橋ですが、寛永年間(1624~ 1644)に木造の橋が最初に架けられたといいます。芭蕉が深川の芭蕉庵に住んでいた頃(1680~1694)から北斎の描いた時代までは100年以上離れていますので、芭蕉が歩いたと思われる萬年橋の姿とは少し違うかもしれません。
舟で荷物を運ぶためにアーチ形の橋になったと思われますが、最初はもう少し低い橋だったのかもしれません。徐々に船も大きくなり、橋下の高さも高くしたのかもしれません。
また橋が出来た当初はこの橋の近く(芭蕉庵近く)に江戸に運ばれてくる船荷などを見張るために、川船番所が置かれていました。しかし、船運の増加、江戸の町の拡大にともない、寛文元年(1661)6月に小名木川と(旧)中川との合流点に中川船番所が出来、番所の役目はそちらに移りました。したがって、芭蕉が住んでいた頃には中川船番所に移っていました。

中川合流01

現在は荒川放水路が出来、この中川と小名木川、新川の合流点の様子はわかりにくくなっていますが、上地図の赤丸が「中川船番所」があった場所で、現在再現され当時の資料なども展示されています。
また新川の破線で書いた水路が放水路で大きく削り取られています。
旧中川はこの上流側の東から蛇行して流れてきていましたが、荒川放水路で分断され、この場所では川の東側が中川(新)で西側が荒川です。この下流で中川は荒川に合流します。

中川口
歌川広重『名所江戸百景 』中川口

江戸百景の中川口は手前が小名木川で左側に船番所があった。向う奥が新川でその間が中川(旧)。

芭蕉たちは小名木川・新川と舟で進み、旧江戸川に入り、少し北上した「行徳」で船を降ります。
行徳からは馬にも乗らず徒歩で甲斐の国からある人が送ってくれた檜でつくった笠を三人がそれぞれかぶって、八幡(千葉県市川市八幡)という里を過ぎ、釜ケ谷(かまがい:現鎌ケ谷)の広い原を通って布佐まで行ったとありますので、これは木下(きおろし)街道を通ったと思われます。
木下街道は江戸と下利根方面を繋ぐ物流の最短ルートとして整備され、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿場が設けられていました。
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木下(きおろし)街道 (行徳 ~ 木下)

この鹿島紀行では釜ケ谷(鎌ヶ谷)の広い原に野馬が放牧されていた様子が筑波山の景色と共に表現されています。また、木下街道という名前は当時あまり使われておらず、いろいろな呼び名で呼ばれていたようです。木下(きおろし)も利根川の水運で近隣の木材を川に下したことから名づけられたとも云われています。銚子などでとれた魚を江戸に運ぶ道としても利用されましたが、布佐と松戸を繋ぐ鮮魚街道(なま街道)が発達し、松戸から川を下って行徳まで運ぶ方が時間も短いのでそちらが生魚の輸送に使われ江戸の人口増加に貢献したのです。

この布佐~松戸の「なま街道」については昔記事にしたことが有ります。 ⇒ こちら(なま(鮮魚)街道)(2011年1月)

さて、芭蕉たちは布佐で漁師(鮭漁)の家で休んで、翌朝船で鹿島に向かう予定?でしたが、魚の臭いが生臭く寝ていられないので、月の明りがあるのを頼りに夜船で鹿島を目指しました。
布佐はこの木下の利根川すぐ上流にあります。利根川がこの付近が一番狭くなっており、海から川を昇る魚がいったんここに留まるため、魚を捕獲する網代場が設けられていました。
鮭漁は現在利根川では行われていませんが、赤松宗旦の『利根川図誌』(安政2年(1855))によると、
「利根川にてレン魚(さけ)を漁するは、毎年七月下旬より十月下旬までなり。利根川のレン魚(さけ)は布川(ふがわ)を以て最(さい)とす。これを布川鮭といふ。魚肥え脂つき、肉紅(くれない)にして臙脂(えんし)の如く、味亦冠たり。これを漁するは大網(おおあみ)、待網(まちあみ)、打切(うちきり)、歩掛(かじがけ)、無相(むそう)、流し、イクリ、バカッピキ、これ等は網なり。又ヤスにてつきてとるをヤスツキといふ。」と書かれており、利根川でも布佐と対岸の布川間で鮭漁(網代)がおこなわれていたようです。

                   (続く)

鹿島紀行を巡る最初から読むには ⇒ こちらから


鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/01 06:58
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