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芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (6) 最終回

 松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。
この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。

芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。
場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。
芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。

一方本間道悦は、近江大垣藩の武士の家に三男として生まれますが、15歳の時に島原の乱(1637年)に出陣し、足を負傷してびっこになってしまったため武士をあきらめ、医に志ざし、大垣藩(戸田家)の藩医となりました。
その後、医術の研究を志して、江戸の日本橋青物町に居を構えました。
医術は評判となり、松尾芭蕉の日本橋小田原町とはすぐ近くであり、芭蕉もこの道悦とは親交を深めていたようです。
道悦は芭蕉から俳諧を習い「松江」という俳号を得ており、芭蕉は道悦から医術、薬草知識などを教えてもらっていたようです。

芭蕉が日本橋を離れ、深川に移ったのは1680年であり、その2年後の延宝10年(1682)に道悦は江戸から常州常陸国の潮来天王河岸近くに移り住み、「自準亭」という診療所を開きました。

また道悦は、ここで、診療所だけではなく「読み書き・そろばん」を中心に「礼儀作法」などを教える寺子屋の機能もあり、庶民教育にも力を入れていたようです。

芭蕉たちが、鹿島の月見の後にの自準亭を訪れ、数日間滞在したと云われています。
潮来の方の記述では10日間~15日間ほど滞在し、ここでこの「鹿島紀行」の内容を書いて残し、その本間家に伝わっていた芭蕉の真蹟を宝暦2年(1752)に『鹿島詣(まいり)』として出版したのが、広く世に知られるところとなったと書かれています。

残された記録では芭蕉が書いたとされる本文は8月25日と書かれており、月見は8月15日ですので10日ほど間隔があいています。
これをこの自準亭で書いたとすれば自準亭で10日から15日程度滞在していても辻褄は合います。
ただ、滞在していた時の内容がわかりませんので、江戸に戻ってから鹿島紀行を書いたなどとも多くの書物でも書かれており、潮来で書いたことを疑問視する見方もあるようです。

私としては潮来で書いたという説の方がより真実味をもっているように感じます。

これは現在「鹿島紀行」というタイトルで出版されたのは寛政2年(1790)刊行といわれていますので、1752年に刊行した鹿島詣の方が先であり、本間家に残されていた芭蕉の真筆とされるものから、潮来の古刹長勝寺に石碑がつくられています。

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長勝寺に残されている芭蕉たちの句碑(芭蕉の真筆から採ったと言われている)

では芭蕉たちはこの潮来の地で何をしていたのでしょうか?
伝わっている話としては芭蕉は道悦から医術を学び、免状を得たとも云われており、ここで医術の知識を学んでいたのだと思われます。
それを考える上で、この自準亭の様子を考えるのでふさわしい家が、本間家がその後移り住んだ小川町(現小美玉市)に残されています。

初代道悦から4代後の本間家5代玄琢(げんたく)の生家が保存されているのです。
この玄琢は水戸藩の小川に「稽医館(けいいかん)」という水戸藩で最初の郷校(医学専門校を建てるのに尽力しています。

玄琢生家

以前書いた記事:玄琢の生家 ⇒ こちら

道悦はこの潮来の地で、元禄10年(1697年)に79歳の生涯を終えたが、その後、2代目・道因、3代目・道仙はここ潮来で医業を継ぎ、道仙が潮来から小川に移り、医者の家業を継いでいきます。

潮来と小川は同じ水戸藩であり、霞ケ浦を経由した船運の要所地でもありました。
4代道意5代玄琢以降は歴代水戸藩医として活躍しました。

中でも8代の玄調(棗軒)は水戸藩主徳川斉昭に仕え、西洋医学を修め麻酔を使った外科手術(わが国最初の脱疽下肢切断術施行者)や種痘をしたりと、近代医学の基を築いたとされる人物で、水戸三の丸に銅像となっています。

また芭蕉から100年以上後の文化14年(1817)に、小林一茶がこの小川の本間家を訪れています。
一茶は小川の本間家で1泊し、そこから化蘇沼稲荷神社(現行方市内宿町)まで4里を馬で送ってもらったという。
そして、この近くの北浦湖畔の帆津倉に住む俳人洞海舎河野涼谷(本名:河野新之右衛門)宅に1泊し、そこから北浦を渡って、鹿島神宮の方に行っています。
(詳細は ⇒ こちらに記事としています)

そのため、小川に移ってからも江戸などの俳人との交流もあったようです。
潮来前川の水運の歴史を見ていくと、江戸時代初期は東北地方などから江戸へ船で運ぶ荷物は、銚子沖を越えることが難しく、水戸付近の涸沼へ入り、その先、北浦や小川付近の霞ケ浦に流れ込む川なども使いながら陸と川を経由して「潮来」「小川」(共に水戸藩)で荷物を詰めかえ、江戸まで利根川経由で運んでいました。
しかし江戸中期以降になると船も大型化し、銚子沖の潮流を越えられるようになり、銚子から利根川を経由するか、そのまま江戸湾から江戸に船で運ぶようになりました。

潮来の前川沿いの仙台藩屋敷・河岸などの役目も徐々に衰退し、銚子の河岸や屋敷の方が中心となっていきました。

丁度それに呼応して、この本間家も潮来から小川に移り、水戸藩の医療の発展に寄与していったのです。


               芭蕉の「鹿島紀行」を巡って  ~ 終り ~


鹿島紀行を巡る最初から読むには ⇒ こちらから

鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/15 09:55
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