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一茶の常陸の国・鹿島行脚(4)

文化14年(1817年)5月
十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨
廿 晴 白老と馬橋に入
廿一 晴 布川に入
廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 
      稲市村近江屋彌五右衛門泊
廿三 晴 高濱本間松江に入
 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋
 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有
    小川今出屋惣八泊
廿四 晴 本間に入
廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏神と云 帆津倉に泊
廿六 晴 川越ては八反田根木田札村普門寺と云あり
    武井鹿島詣大舟津より舟渡 六十四文
板久俵屋泊 百五十文
廿七 晴 卯上刻出船 二百六十四文
  未下刻銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有吉野屋に泊喜平次と云
  熊兎孔雀鵞其外品々有

この5月下旬の一茶の足取りをたどって見ましょう。

文化14年(1817年)5月 後半から一茶は房総から馬橋(現松戸市)に入り、常陸国への行脚は、利根川沿いの布川(現利根町)から北上する道を選びました。ここにはどちらも一茶の強力な支援者(大川斗囿(とゆう)、吉田月船)がおりましたので、こちらに厄介になったものと思われます。

布川や馬橋、流山などには房総地方の一茶の門人も多くいて、交流も深く、何度も足を運んでいますが、そこから北へはあまり訪れていません。
それでも各都市にはいいさの俳諧の仲間といえる人物はそれなりにいたようです。

一茶常陸国

先ず、布川 ~ 龍が崎 ~ 女化原 ~ 土浦 となっており、「稲市村近江屋彌五右衛門泊」と書かれていますが、場所がよくわかりません。
稲市村を探してみたのですが、わかりませんでした。
現在の稲敷市(江戸崎)、美浦村、阿見町あたりが考えられますが、もう少し先に行って「稲吉宿」あたりなのかもしれません。
ただ、ここから高浜(石岡市)へ行っていますので、陸路でも行けますし、舟に乗ることも出来そうです。

女化原(おなばけはら):龍ヶ崎市と牛久市の境にありり、女化神社も両市に分かれています。(女化神社は ⇒ こちら1こちら2

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この女化原を通る道は現在県道48号線で、別名「おなばけ通り」と呼ばれている。(記事⇒こちら

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旧水戸街道は女化原は通らず、もう少し佐貫駅に近い(牛久沼に近い)「若柴宿」などを通っていた。
県道48号線は龍が崎から女化原を通って牛久市岡見、阿見町の陸上自衛隊基地(土浦市の右籾に近い)を突き抜けて、国道125号線に出ます。

前にこの道も気になって探索したことがあります。(記事 ⇒ こちら
この街道の途中に「牛久助郷一揆」の碑と説明板あります(記事 ⇒ こちら
この一揆が起こったのは一茶が訪れる十三年前の文化元年(1804年)です。

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ここから現125号線を土浦市外に向かい、旧水戸街道を府中石岡方面に行ったのか、それとも船便も盛んに出ていたので小松あたりから船で高浜に出たのかは不明です。ただ、水戸街道を通らずに白鳥町あたりを通って歩いて行ったとも考えられそうです。

五月廿三 晴 高濱本間松江に入 とありますが、「本間松江」は板久(潮来)で芭蕉が滞在した医師本間道悦(号:松江)の子孫が常陸国小川にて医師をしていたため、この本間家の人物であろうと推察はつきます。
1817年なら、8代目の「本間玄有」の時だと思われます。高浜に迎えが来ていたのでしょうか?
本間玄有は水戸藩としては有名な医師「本間 棗軒(そうけん。玄調)の父で、棗軒は14,5才位だったようです。
廿三日は「小川今出屋惣八」泊となっていますので、小川の本間家以外の支援者宅に泊まったのでしょうか。
この人物はわかりません。

この高浜で西光寺の爪書き阿弥陀像を見学しているようです。
前に書いた記事 ⇒ こちら

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(爪書き阿弥陀像)

さて、翌日は小川の本間家に1泊して、翌日「四里馬にて送らる化蘇根稲荷社」とありますので、馬に乗ってこの神社まで送られています。

化蘇沼稲荷神社:行方市内宿
ここも以前に何度か訪れています。
 2015年1月 記事1 ⇒ こちら 、 記事2 ⇒ こちら
 2023年7月 記事 ⇒ こちら

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この2023年記事にあるように、一茶はここを訪れて、帆津倉に泊まっています。帆津倉は今は地名としてはありませんが、北浦湖畔の西側(行方市)の村でした。
ここでは、俳人であり、また醤油業に進出して財を成した「洞海舎河野涼谷」という人物の所に宿泊したようです。
このようにこのあたりにも江戸の俳諧での交流の人達がいたようです。
職業俳人ではなく、あくまでもいろいろな実業家が江戸の句会などに集まっていたのでしょう。

さて、翌廿六日は 「川越ては八反田根木田札村普門寺と云あり」とあります。この川は霞ケ浦の「北浦」のことで、帆津倉あたりから対岸に船で渡っています。
現在は近くに「鹿行大橋」が掛けられており、車でもすぐに渡れます。
この鹿行大橋を渡った先が「札村」で、普門寺という寺があります。
寺の方は民家のような建物ですが、立派な観音堂が残されています。

まえに訪れた記事 ⇒ こちら


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ここは芭蕉が鹿島紀行で訪ねた「仏頂和尚」が生まれた地区で、この寺の影響で仏頂は僧侶の道に入ったと云われています。
(芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (3) ⇒ こちら を参照ください)

この普門寺から次に行ったのが、武井鹿島と書かれています。
武井という地名は丁度、この普門寺と鹿島神宮の中間あたりの村で、ハマナス公園や海岸側には昔の塩釜の名残りで「武井釜」という地名もあります。

鹿島神宮を詣でた後、麓の「大舟津から舟渡 六十四」と書かれていますので、大船津からその対岸に船で渡ったのか、前川に入って潮来の宿の近くまで行ったのかは不明です。対岸に渡るだけの渡し船はかなり頻繁に定期的に出ていそうに思います。
まあそこから歩いても板久(潮来)の街もそれほど遠くはありません。

また「板久俵屋泊 百五十文」と宿の宿泊費が書かれていますが、文化年間の貨幣価値がどのくらいだったのかはよくわかりませんが、一文15円として、2250円程度だと思いますので、当時としては安宿なのではないかと思います。
また俵屋さんの情報は見つかりませんでした。

ここ板久(潮来)から銚子へは恐らく帆を張った船が使われていたようなので、出航の時間は正確ではなく、その日の風の具合を見て出たようです。潮来や隣の牛堀などは「風待ち港」などとも呼ばれていました。
銚子も今の銚子港辺りではなく、少し手前の「松岸」あたりまでではなかったかと思われます。
松岸には「遊郭」があり、夜も賑わっていたようです。

松岸にある「海上八幡宮」の入口に一茶の句碑が置かれています。
(現物は何が彫られているか判別できません)
(参考:前に書いた記事 2015年 ⇒ こちら

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 ◎ 「遊女めが見てケツカルぞ暑い舟」(七番日記)

 (ケツカルは俗語で見てケツカルは見ているといった程度の意味。
 また句が読まれたのは旧暦の6月というので今なら7月の梅雨明け時か?)
 一茶は舟から客に声をかける遊女の様子をこんな歌にしているのです。

銚子については次に書きましょう。









鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/25 13:03
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