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一茶の常陸の国・鹿島行脚(5) 最終

文化14年(1817年)五月
廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文
廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文
未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云
熊兎孔雀鵞其外品々有
廿八 晴 桂丸に入
廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友
観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云
太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿
    千人塚 いかい根に有 外川昔此所三千軒家ありしと云 今礎所々有
    清水通り不動に詣下に清水瀧有 新生町長崎石切邊田八景畫観音堂にあり

晴 廿四
雨 五

六月
一 晴南風 邊田浄国寺登望西臺(台)桂丸李峰同 ・・・・桂丸、李峰は一茶の俳友
二 晴 小南に入 雨乞 ・・・東庄町小南
三 晴 萬歳に入 南風小雷雨 ・・・旭市萬歳 椿の海干拓干潟の東部
四 晴南風
五 晴 飯田に入 送り寺子七人 ・・・千葉県成田市飯田町?
六 晴大南風 田川に入 夜小雨 ・・・田川(茨城県稲敷郡河内村大字田川)
七 晴 布川 夜小雨 ・・・布川(茨城県北相馬郡利根町布川)、古田月船
   ・・・布川の 応順寺 に月船句碑がある。天保8年(1837年)1月20日、月船没。
     俳人 一茶 を支援し、一茶の月船亭泊りは前後四十数回、二百八十余日に及んだ。
     この時は4泊している
八 晴
九 晴
十 晴
十一 晴 馬橋に入 ・・・大川斗囿?


小林一茶は馬橋(松戸)を文化十四年五月廿日に出発して、
 馬橋⇒布川⇒龍が崎⇒女化⇒土浦⇒高浜(石岡)⇒小川(小美玉)⇒化蘇沼稲荷⇒帆津倉(北浦)
 ⇒札村普門寺⇒高倉⇒鹿島⇒大舟津⇒潮来⇒銚子(飯沼観音、千人塚、和田山不動、浄国寺)
 ⇒小南(東庄町)⇒萬歳(旭市)⇒飯田(成田)⇒田川(旧河内村)⇒布川(利根町)⇒馬橋(松戸)
馬橋に戻ったのは 六月十一日 です。

馬橋も布川も一茶にとっては強力な支援者がいて、何度も訪れています。
そのため、この時の旅(俳諧)もこの馬橋・布川が起点となりました。

今回の旅も、俳諧の門人たちの所を泊まり歩いており、はっきり宿屋と分かるのは潮来(板久)の俵屋だけです。
今回(最後)は、この潮来から銚子へ、そして銚子散策、又帰りのルートを探っていきます。

銚子地図2


まず、潮来(板久)から早朝(5~6時頃)船に乗り、銚子についたのは午後の2~3時頃です。
途中船もどこかの湊(津)に立ち寄っていると思いますが、現在の潮来から霞ケ浦の常陸利根川を下ったのか、または牛堀の方に少し上って横利根川から利根川に出たのかはわかりません。

潮来(板久)の記憶から後に詠んだ句が8番日記にあります。

「三味線で 鴫(しぎ)を立たせる 潮来かな」 
itako001.jpg
(潮来市内の西円寺に石碑がある)

これは小林一茶の句を夏目漱石が書を書いて、そこに小川芋銭がしゃれた絵を描いた「三愚集」にあるものだ。
(三愚集記事は ⇒ こちら

潮来から早朝に船に乗り、銚子に午後2時~3時頃に到着しています。
ただ当時の銚子の入口は今の銚子港付近ではなく、松岸あたりだったのかもしれません。後に訪れた吉田松陰は松岸に降りています。
ここには昔公設の遊郭がありました。(前に調べた記事 ⇒ こちら1こちら2

そして、この松岸にある「海上八幡宮」には芭蕉の句碑とともに、小林一茶の句碑もある。(記事⇒こちら
一茶の句碑に採用されている句は

「「遊女めが見てケツカルぞ暑い舟」である。
これは7番日記にある句であり、この時の潮来から銚子へ行った時の様子を詠んだ句だと思われる。

遊女たちが舟でやってきた旅人などに顔見せなどしている様子をコミカルに詠んでいるものと思われる。
旧暦の五月末であるので、今なら7月頃になるのだろうか?
午後2時過ぎともなれば暑苦しい時間帯なのだろう。面白い句である。

また、銚子の街の様子が当時がどのようであったのかが不明だが、銚子は高崎藩の飛び地(領地)であり、坂東三十三観音の二十七番目札所である「飯沼観音(円福寺)」を中心とした街並みでした。

前に書いた記事:銚子のかんのん様(2014/1)
          円福寺(飯沼観音)(2014/10)

銚子の観音

銚子は漁業でよく知られていますが、この漁業が始まったのは、現在の銚子漁港ではなく、紀州の漁師たちが、外川(とかわ)に港を造ったのが最初です。今から350年以上前の江戸時代1658年のことです。

外川漁港近くの大杉神社に発祥の地の石碑が建てられています。(記事⇒こちら

外川港石碑

この銚子では何か所か見物して廻ったようです。

・千人塚 (江戸時代初期の大きな海難事故の慰霊) (2014/10に書いた記事 ⇒ こちら

・清水通り不動・・・恐らく「和田山不動尊」であろうと思う。この入口には昔滝があった。
  和田山不動尊、波切不動 ⇒ こちら(2023/8)

銚子地図1

銚子港は最初に外川地区が開発され、外川1000軒などと江戸時代には言われていたようです。
また、この一茶の7番日記にも「いかい根」という地名表現が出ていますが、今ではあまり使われなくなったようです。
外川に対して、利根川の河口付近の岩礁のある浜辺などの周辺地域をそのように呼んでいたようです。
漢字では「飯貝根」と書いています。
方言とも云われますが、全国に同じ名前の呼び名の地域があり、どこかで古語として共通するものがあるのかもわかりません。

一茶の7番日記には いかい根:1000軒、外川:3000家 などとの表現が見られます。
恐らくこの時代以降に現在の銚子港(利根川河口から少し上流側)が開けてきたのでしょう。

徳川家康の利根川の東遷事業で、江戸湾に注いでいた川を銚子川に流れるように変更したことにより、銚子の街は現在の利根川になり、周りに土砂が堆積して今の低地の港地帯が出来たと考えられます。

また地名ではこの一茶の訪れた「邊田浄国寺」(浄土真宗)の邊田(辺田)は「へた」と読み、今も地名で残されていますが、恐らく房総台地の突端部で今の駅の方の低地から少し台地に上ったあたりです。

一茶は6月一日に俳諧仲間の「桂丸、李峰」とともに、この寺の奥にあった「登望西臺(台)」に集まり句会を開いたようです。
ここには日観亭という庵があり、俳句の仲間が集まっていた場所のようです。
 邊田浄国寺を訪れた時の記事は ⇒ こちらを参照ください。

浄国寺一茶碑
(浄国寺の 望西台にある一茶碑)

一茶は銚子ではこの庵に何度か足を運んでいたのかもしれません。
一緒に行ったとされる「桂丸、李峰」は共に俳優仲間でもありましたが、廻船問屋をしていたようです。
「桂丸」は大里庄治郎といい、行方出身の東北諸藩廻米問屋「行方屋(なめがたや)」をやっていた人物だそうです。
また、この二人は一茶と同じ「夏目成美一門」であったようです。

6月2日は東庄町へ行き、そして昔椿の海があった開拓平野にある「萬歳(まんざい」に6/3行き、成田経由で布川、馬橋に戻っています。
この椿の海の干拓も「鉄牛禅師」の努力で完成したのは1671年ですから、一茶が訪れた頃は周りは一面の田んぼ(八万石と言われた)だったと思います。(椿の海干拓は ⇒ こちら 記事参照)
またこの萬歳村は天保水滸伝で最後まで抵抗して山に籠って自害した「勢力富五郎」の出身地です。

その後江戸に戻り、歌舞伎(桐座)を見たりして、6月27日に江戸を立って、中山道、北国街道を通って、柏原の家に戻っていきました。

このように調べても分る場所もありますが、よくわからない場所もあります。
ただ、意外に私が訪れたことがある場所が多く出て来て驚きました。

地元の人以外になかなかわからない地名などもありますが、何かの参考になれば幸いです。

(終わり)



鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/27 13:38
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