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石岡の醤油産業は何故廃れたのか?(4)

 今日は石岡のお祭りの大祭です。
今日も午後から各町内の山車や幌馬車が街中を練り歩き、石岡囃子の披露と共に若者がパフォーマンスのような踊りも見せてくれるのでしょう。
小さな子どもたちは幌馬車の中に乗って活躍しますので、最後はぐったり。
夜には駅前の八間道路に集合し、夜に浮かぶ明かりと山車は壮大な見世物となります。
今年の年番は「大小路町」です。
場所は駅前から郵便局の方に行ったあたりと、郵便局脇の八間道路の裏通りのあたりです。
江戸時代の書物にはこの町の名前はでてこないようですから、比較的新しいのでしょう。
常磐線が明治28年に土浦から北の駅が開通し、翌29年に東京田端まで開通しました。
石岡駅は山王川の低地に作られました。それに合わせて道路が整備されたのです。
この時の大小路の地名がおこったのではないかと推測しています。あくまで推測ですが。
 さて、昨日土浦の醤油産業を少し紹介しましたが、石岡の醤油は何時ごろから造られていたのでしょうか?
これは土浦より20~50年位遅く始まったようです。
千葉の銚子や野田への大豆や小麦などの産地は霞ケ浦周辺であったといわれ、これを土浦や府中(石岡)、玉造、高浜などに集め、船で運んでいたといわれています。
そして、そのうちにこの船問屋や米穀問屋などが、自分たちでも作りたいと思い始めたのです。
高浜はまだ府中に組み込まれていませんが、享保年間に今泉新吉さんがこの地方では最初のようです。
それまでは高浜で回船問屋をやっていたといわれます。その後府中(石岡)においても多くの業者がはじめるようになりました。
しかし江戸で発行された「関東醤油屋番附」には府中の業者の名前が出てこないといいます。
当時の醤油の消費は何と言っても江戸が大部分であったにもかかわらず、府中は松平藩でもあり、その消費先は水戸が中心になっていたといいます。
しかし、水戸でも藩命により文政12年(1829)に醤油製造がはじめられました。
しかし、水戸藩も他の商品の搬入には制限を設けていたのに、醤油は特別扱いで自由に競争ができたといいます。このため、水戸の醤油は発展せず、府中(石岡)の醤油が広く使われていたといいます。
 明治42年の「茨城県統計書」に掲載された郡別の醤油生産高をみてみると
新治郡: 製造所数 49 、生産高 17,458 石 (茨城県全体の20%)
 (新治郡の内訳)
  ・土浦 製造所数  9、生産高 1,728 石
  ・石岡 製造所数 16、生産高 7,639 石(高浜を含む)
と圧倒的に石岡の方が多いのです。
正岡子規が石岡は醤油の名処といっているのも理解できますね。
酒造所と合わせ、何本もの煙突が立ち並んでいたようですからその光景が想像できますか?
多くはレンガ造りの塀を持っていたと思われますので、その塀だけでも残していたらなどと感慨深いものがあります。
しかし、日本の全国で大豆や小麦は、海外産のものに変わり、お米などの生産奨励でほとんどその姿を消していくのです。

さて、醤油の話はここまでにして、
もうひとつ昨日街中の祭りを見物して気がついたことがあります。
お祭りの山車はそれぞれ「菅原道真」「八幡太郎」だのの大きな人形を載せて街を練り歩きます。
その時、人形の脇に人が乗っていて、
信号などにぶつかりそうになるとハンドルを回して人形を下に押し下げます。
最初は「成程な」などと見ていたのですが、
石岡の街中は電線を地中化しています。
私も、この町に最初に来た時に何かスッキリした通りだと感じたのですが、
これは歴史の街として雰囲気を盛り上げるために、
このような人口のものを止めたと思っていました。
しかし、祭りの山車の動きを見ていて、
「もし電線があったらこの祭りは大変だろうな」と思って、ハッとしたのです。
そうなのかと・・・・。
お祭りをメインに考えられたのだと・・・。

醤油産業 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/19 12:46
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