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霞ケ浦水運(2)-江戸川から江戸へ

 江戸時代に高浜に近隣から多くの荷が集められました。
江戸時代の初めにすでに府中領の年貢米を江戸に船で運んでいた記録があるといいます。
そして江戸中期以降になると河岸問屋の数も増えてきました。
大きな問屋としては「笹目八郎兵衛」「今泉吉兵衛」などがいたといいます。
取り扱いの荷物は
 ・年貢米:府中松平藩、笠間藩牧野家や旗本など
 ・穀類、薪炭(主に恋瀬川の流域から)
また、荷揚されたものは
 ・赤穂塩(醤油の原料)
 ・九十九里の干鰯(イワシ)
 ・江戸からの衣類、日常品
などであったようです。時代によってもいろいろ違っていたのでしょうね。

高浜入り江では、高浜以外にも石川河岸、高崎河岸(玉里)に問屋があり、にぎわったといいます。
もちろんこのほか、土浦や鉾田の方にもいろいろな水運が発達しています。

さて、先日水運(1)で利根川から関宿(せきやど)まで川を登って、江戸川に入り江戸へ運んでいたことを書きましたが、今日はこの江戸川から江戸の中心部への流れを少し書いてみたいと思います。

konakigawa.jpg

この地図を見てください。 旧江戸川が千葉県の行徳の先から現在の新川へ入ります。そして船堀で中川に合流し、そこから小名木川を通って江戸の中心部を流れている隅田川へ物資を運んでいたのです。

新川は江戸時代には三代将軍家光の時代にはかなり整備され、掘削が進められた人口の水路で、もともとは船堀川があったものを拡張、新たに船運のために掘削したものです。
そのため、江戸時代は船堀川とか行徳川と呼ばれ、江戸水運の大動脈になったそうです。

これは行徳の塩田でとれる塩を江戸に運ぶためでもあり、この新川沿いにさまざまな問屋などができて賑やかであったといいます。
このため、現在川沿いに桜の木を1000本植えたり、木橋や石の護岸整備などをして昔の風情を取り戻す整備が行なわれているといいます。

参考:歌川広重「江戸百景:中川口」

 さて、この小名木川は江戸の今の箱崎あたりまで続いていますが、ここに「清澄庭園(東側)、清澄公園(西側)」があります。この場所はかって豪商「紀伊國屋文左衛門」の屋敷があったところといわれ、明治になって三菱の創始者「岩崎弥太郎」がここを買い取り庭園として整備したといいます。
その後、関東大震災で避難所として活躍したため、東側の庭園部分を東京都に寄贈し、昭和48年になって残りの西半分を都が買い取って公園にしたそうです。

何にも知らなかったのに、いろいろなことがつながってくるのでおもしろいですね。
もう少し先を調べてみたいと思います。
 

霞ケ浦水運 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/03 08:04
コメント
No title
今泉吉兵衛は私の先祖です。
市史によれば「高浜長者」呼ばれた河岸問屋でした。
爪書き阿弥陀堂の階段を上ると、高台に墓所があり、往事の栄華を偲ぶことができます。
絶景の場所で、霞ヶ浦が一望できます。
また、水運のことですが、八郷町民文化史「ゆう」の2号に拙著「恋瀬川水運物語」があり、いささか参考になるかなと思います。
Re: No title
> 今泉吉兵衛は私の先祖です。
やはりそうでしたか。
> 爪書き阿弥陀堂の階段を上ると、高台に墓所があり、往事の栄華を偲ぶことができます。
> 絶景の場所で、霞ヶ浦が一望できます。
この爪書き阿弥陀堂の階段を上ったことがあります。正に絶景ですね。
私のホームページ(爪書き阿弥陀)の方に写真はUPしています。
またその時、高台の左手に今泉家のお墓も確認しています。本当にいいところですね。
> 八郷町民文化史「ゆう」の2号に拙著「恋瀬川水運物語」があり
是非今度参考にさせていただきます。
前に、スワラジ学園の合田さんに雑誌を見せていただいたことがあります。
このような文化誌が発行されてきたことに驚いたことを思い出しました。
今後もよろしくお願いいたします。
地元をよく知らないため、時々音痴なことを書くとも思いますが、たくさん発信する
ことも必要だと思っています。
些細なことは目をつむっていただき、今後も暖かい目で見ていただければ幸甚です。
 
No title
深川あたりは、時代小説が好きな方にはなじみのあるエリアですね。史跡も多く、古地図と照らし合わせて、散策する人もいるそうです。
 多くの堀は東京オリンピックの前に、埋められてしまったようですが、昔はベニスのように水路を使って舟で移動したとか。
 20年近くこのエリアで暮らしていたので、芭蕉庵や清澄庭園は懐かしいです。
 清澄庭園の南西は佐賀町。伊東甲子太郎の道場があったとされる場所付近です。
Re: No title
べあべあ様
時代劇には確かに良く出てくる深川界隈ですが、ほとんど縁がなく何も知りませんでした。
でもこのようにつながってくると興味がわいてきます。
オリンピックで高速道路を作るには堀や川の上しか作れなかったので、仕方がなかったかも
しれませんが、日本橋もわからなくなってしまいました。
昔の景色が消えてしまっていますが、東京は積極的に通りの名前を大切にし始めています。
とても良いことだと思います。
石岡も是非そうしたいです。
時代劇の小説も好きでよく読むのですが、現実の場所とすぐに一致しません。

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