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霞ケ浦水運(3)-行徳船

 水運(2)では江戸川から隅田川までの船の流れを紹介しましたが、隅田川と小名木川の合流点近くに芭蕉の「芭蕉庵」がありました。現在は「芭蕉記念館、芭蕉稲荷神社」になっているところです。
芭蕉が奥の細道への旅立ちは元禄2年3月27日で、その前にこの芭蕉庵を引き払い、前回紹介した「清澄庭園」のすぐ南側(深川)の「採荼庵」へ越しており、ここからの出発となりました。

・草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家・・・芭蕉庵を引き払って子供のいる別な家庭がそこに見えますね。
  (雛まつりの3月3日にはすでに別な家庭が住んでいたのですね)

さて、3月27日に旅立ちますが、ルートはというと船で隅田川を千住まで行き、千住宿から日光街道を進みました。千住で詠んだ歌が

・行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

やはり、当時に風景が浮かんできますね。
この旅は8月に大垣で終わりますが、かなりの大行程を短期間で歩いたものですね。
しかし、芭蕉は霞ケ浦へのルートではなく千住から日光への道をとりました。

では、まだこちらの水運が発達していなかったのかというとそうではありません。
元禄2年にはすでに、小名木川から新川(船堀川)を通り、利根川へのルートは完成しており、その50年程前に、日本橋小網町から本行徳まで貨物(客)船「行徳船」が就航しており、当時はすでに50隻以上の船が往来していたといいます。想像するだけでも楽しいですね。

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行徳船を調べてみると、芭蕉の時代はどのような船かはわかりませんが、江戸後期には朝6時から夜6時まで江戸-行徳間を往復したといいます。
船頭1人に24人の客を乗せることができ、行徳の塩田の塩や野菜魚介類を江戸に運び、江戸からは日用品や成田などへの参拝客を運んでいたようです。
 
明治になりしばらくしてから蒸気船が東京-銚子間に就航します。これは内外通運会社の「通運丸」や「利根川丸」で1日2往復で18時間(1泊2日)かかったといいます。
内外通運会社は後の日本通運であり、民営化されたのは昭和25年でした。

鉄道が開通すると、18時間→2時間 となったため、船は急速にその役割を減らしてしまったのです。

さて、行徳(市川市)の塩田は江戸の初期には家康の保護もあり、江戸には無くてはならない塩の一大供給地域でした。しかし、中期以降には赤穂などの良質の塩が供給され始め、製法が天日干しによる比較的小さな業者が多かったこともあり、天候にも左右され一時の1/4以下に減ってしまったようです。

行徳の船着き場は本行徳村にあったようで、現在「常夜燈」がある辺りではないでしょうか。
この行徳から新川河岸が整備され、昔の面影を取り戻してくれたら行ってみたいですね。
 

霞ケ浦水運 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/03 14:03
コメント
No title
ROMAN様
常夜燈のあるオールド行徳は道幅といい、町並み(自社、それなりに残る昔の建物など)と言い石岡に似ているところも多々。神輿職人も現役で製作されていますし、徳川や宮本武蔵に縁のある寺もあったり、なのですが、こちらもそういう江戸以来の風情もあるのかないのか中途半端で、では昭和以来の下町の雰囲気というのも薄いは、東京近郊住宅街としてのおしゃれも見えない。
こちらはこちらで惜しい街です。便利で住みやすいですが。
妻の実家の墓が清澄庭園にあり、なんだか石岡やらご先祖方面に縁のあるところを点々としているようです。

Re: No title
行徳さま
調べているうちにそちらにたどり着いてしまいました。
古東海道などもたどるとすぐそばを通りますね。
関係が深いようです。
市川、行徳は河のデルタ地帯だったもでており、江戸時代に洪水の被害の報告もあるようです。
地震も備えあれば憂いなし。
今後もお互いに気をつけましょう。
新川なども整備しているようなのできっと良くなるでしょう。
石岡(高浜)-佐原-布佐-関宿-松戸-行徳などの町がつながります。

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