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霞ケ浦水運(7)-蒸気船

 さて、昨日霞ケ浦の高瀬舟のことを書いたのですが、その後調べてみるとかなり大きなものが多く就航していたようです。
「いしおか100物語」によると、その積載量の規模は
<高瀬船>
・霞ケ浦  900~1200俵 (利根川下流域まで:1船に船頭と水主5-6人。北浦も含む)
・中利根川 300~550俵
・鬼怒川  250~500俵
・那珂川  500~600俵
<平田船>  300~500俵
<茶船>   60~100俵
<川下小船> 25俵

また、明治期には外輪蒸気船が就航します。まさに人と荷物を運ぶ足として、霞ケ浦周辺の町を結ぶ航路として運行されていたのです。

この外輪蒸気船「通運丸」の画像(ポスター)がTeaCupにアップされていました。 →こちら
煙突から煙を吐きながら霞ケ浦を行ったり来たりしていた様子が目に浮かぶようです。

これは戦前まで運行されていたようですので、お年寄りの方は見ておられる人も多いと思います。

また、参考までにこの航路が今泉さんのブログに昨年12月乗っていました。→こちらです。

大変参考になりました。
さて、これによるとたくさんの船着き場があったようです。高浜・小川・羽生・玉造・柏崎・田伏・井上・五反田・今宿・麻生・牛堀・佐原・・・ いろいろなルートがあったようですね。

「霞ケ浦四十八津」という霞ケ浦の周りの漁師たちで作る自治組織のようなものが、江戸時代になる前からあったといいます。
江戸時代の初めに、下玉里村の大地主が自分が有している土地の前に広がる高浜入を水戸藩占有できる「御留川(おとめがわ)」の申し入れがなされ、これが認められてしまいました。

実は、この下玉里村の対岸は「井関」で、昔は水戸藩領だったのです。
従って、高浜の入り江の入口部分の漁業権が漁師になく、雇われた漁民が大網で大量に魚をとる事態になってしまいました。

これに反対していた「霞ケ浦四十八津」の漁師たちは、「御留川」以外での漁となりましたが、乱獲を防ぎ、自分たちの子孫にまで霞ケ浦の豊かな自然をまもるため、会議を毎年行ない、大量の捕獲法を認めず罰則も設けた八カ条を制定し、江戸末期まで続けてきたといいます。

 霞ケ浦の歴史も知らない事が多いですね。少しずつわかってくると見る楽しさもUPします。

それにしても、この高浜から霞ケ浦沿い東に行く道は鹿島鉄道が通っていた道ですね。
船がなく、鉄道がなくなり、お互いを有機的に結びつける強いきずながなくなってきています。
石岡の歴史を紐解いていますが、これも昔からの物や文化の流れがあってこそ成り立っています。

是非その流れを断ち切らないように、お互いがお互いの立場や歴史的な流れを知り、お互いの文化を大切にしていく交流が大切だと感じました。

kasi01.jpg

高浜に残る昔の河岸問屋の名残を残す建物。もうほとんど残っていませんね。
 
sannougawa.jpg

この場所は石岡市高浜と小美玉市高崎の市境となっているところで、龍神山から柏原池を通り石岡駅で一旦地下にもぐって流れてきている山王川が霞ケ浦に注ぐところです。
とても穏やかな流れです。
行政区分上は別々の市ですが、昔の生活の流れはつながっています。
明日は、この先の高崎地区を少しだけ紹介します。
 
  

霞ケ浦水運 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/06 18:52
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