筑波山の夕景(1)
今日も一日真夏の太陽が照りつけ暑かったですね。
昨日は少し雲があり幾分すずしかったのですが、夕方6時半頃の筑波山です。
雲が出て、夕日が雲に当たって不思議な輝きでした。

夏至が過ぎ、太陽も徐々に南側に沈む方向を移していきます。
しかし、まだ加波山寄りですね。

もう少ししたら、筑波山の真上方向に沈むことでしょう。
撮影場所は恋瀬川近くです。粟田橋と府中橋の近くです。
昨日、石岡を水の都に復活したいと書いたが、あまり水の都というイメージを持っていないようだ。
確かに、書物を読んだりしても出てこない。
私は、これは水の都でなかったのではなく、忘れてしまったのではないかという気がしている。
水に都というと多くの都市を思い浮かべる。
Wikipedia では、「水辺の多様性から切り離されたしっかりとした地割のなかに道路と水路が交錯し、水際や橋梁からの視点がまちの風景を規定する水辺都市」と定義され、国内では平泉・新潟・大阪・広島・松江・西条、徳島・柳川・熊本の都市をあげている。
仙台、倉敷、萩、佐原などは入っていない。少し定義が違うようだ。
石岡には「子ハ清水」という泉があった。酒が盛んな地域は水が良くなければならない。
また、恋瀬川はたくさんの物資を川を下って江戸にも運んだ。
万葉集に歌われた筑波嶺から流れる男女川がこの恋瀬川だという人もいる。
石岡の人は何故この恋瀬川をもっと大切にしないのだろうか?
もしかしたら「恋瀬川って万葉集で歌われた恋の川 みなのがわ だ」などといって、別な権威から違うと指摘されると「だれがいいだしたのだ・・・」となるのが怖いのかも。
これは石岡のまつりが「関東三大祭りだ」と言ってきたが、違うかもしれないと言われて、「言わないようにしようと申し合わせた」などとまったく同じ構図である。
龍神山が「くれふし山」という説も水戸の「朝房山」にとられている。
せめて「茨城」の地名発祥の地だけでも・・・
でもこれこそ一番怪しい。茨城郡の郡衙があったのは確かだと思うのだから、地名はその前にあったとしても何の問題もないはずだと思うのだが。
私はこれが本当だなどとは言えない。
こういう考えや説もあると知っていただき、それによって新しい発見が行なわれるということもあると思う。考えることが楽しいのである。
八郷地区も含め、水の流れやそれにまつわる話などもう少し見直すべきだろうと思う。
ふる里を忘れては街の復興は無いはずです。
このブログも1年までもう1カ月を切った。1年休まずにやれたら何か開けるものがあるかと勝手に考えて突っ走ってきた。
最近、読者も増えてきた手ごたえも少し感じているが、石岡を知っていただくにはどうしたら良いのか?
この石岡という都市を訪れて見たいと認識していただくには、あまりにもいろいろなことが不足している。
いろいろな分野で、いろいろなことが、頑張らなくてもはじけてくるようにならなければならない。
歴史などに何の興味もなく過ごしてきてしまった私も、5年程前にはまってしまった。
何かあるのは確かなのである。
もっともっと知らせてほしい。知ってほしいという声が聞こえるようなのである。不思議なものだ。
「千と千尋の世界」とも思ったが、この霞ケ浦周辺は縄文時代の遺跡の宝庫となっているようだ。
1万年の時が流れている都市はそんなにあるものではない。
それを、たった千年くらいの書かれたものなどで、本当か嘘かもわからず、これが本当だなどといってみても虚しく聞こえてくるから不思議だ。
こんな感覚にさせられたのも、この都市に住んでからである。
そうはいっても、たった4~5年位、片手間に調べているだけで何がわかるのかとおしかりを受けそうだ。
そう。こちらは何も専門家ではないので怖いものは無い。
この地を一人でも多くの人に知ってほしいだけである。
昨日は少し雲があり幾分すずしかったのですが、夕方6時半頃の筑波山です。
雲が出て、夕日が雲に当たって不思議な輝きでした。

夏至が過ぎ、太陽も徐々に南側に沈む方向を移していきます。
しかし、まだ加波山寄りですね。

もう少ししたら、筑波山の真上方向に沈むことでしょう。
撮影場所は恋瀬川近くです。粟田橋と府中橋の近くです。
昨日、石岡を水の都に復活したいと書いたが、あまり水の都というイメージを持っていないようだ。
確かに、書物を読んだりしても出てこない。
私は、これは水の都でなかったのではなく、忘れてしまったのではないかという気がしている。
水に都というと多くの都市を思い浮かべる。
Wikipedia では、「水辺の多様性から切り離されたしっかりとした地割のなかに道路と水路が交錯し、水際や橋梁からの視点がまちの風景を規定する水辺都市」と定義され、国内では平泉・新潟・大阪・広島・松江・西条、徳島・柳川・熊本の都市をあげている。
仙台、倉敷、萩、佐原などは入っていない。少し定義が違うようだ。
石岡には「子ハ清水」という泉があった。酒が盛んな地域は水が良くなければならない。
また、恋瀬川はたくさんの物資を川を下って江戸にも運んだ。
万葉集に歌われた筑波嶺から流れる男女川がこの恋瀬川だという人もいる。
石岡の人は何故この恋瀬川をもっと大切にしないのだろうか?
もしかしたら「恋瀬川って万葉集で歌われた恋の川 みなのがわ だ」などといって、別な権威から違うと指摘されると「だれがいいだしたのだ・・・」となるのが怖いのかも。
これは石岡のまつりが「関東三大祭りだ」と言ってきたが、違うかもしれないと言われて、「言わないようにしようと申し合わせた」などとまったく同じ構図である。
龍神山が「くれふし山」という説も水戸の「朝房山」にとられている。
せめて「茨城」の地名発祥の地だけでも・・・
でもこれこそ一番怪しい。茨城郡の郡衙があったのは確かだと思うのだから、地名はその前にあったとしても何の問題もないはずだと思うのだが。
私はこれが本当だなどとは言えない。
こういう考えや説もあると知っていただき、それによって新しい発見が行なわれるということもあると思う。考えることが楽しいのである。
八郷地区も含め、水の流れやそれにまつわる話などもう少し見直すべきだろうと思う。
ふる里を忘れては街の復興は無いはずです。
このブログも1年までもう1カ月を切った。1年休まずにやれたら何か開けるものがあるかと勝手に考えて突っ走ってきた。
最近、読者も増えてきた手ごたえも少し感じているが、石岡を知っていただくにはどうしたら良いのか?
この石岡という都市を訪れて見たいと認識していただくには、あまりにもいろいろなことが不足している。
いろいろな分野で、いろいろなことが、頑張らなくてもはじけてくるようにならなければならない。
歴史などに何の興味もなく過ごしてきてしまった私も、5年程前にはまってしまった。
何かあるのは確かなのである。
もっともっと知らせてほしい。知ってほしいという声が聞こえるようなのである。不思議なものだ。
「千と千尋の世界」とも思ったが、この霞ケ浦周辺は縄文時代の遺跡の宝庫となっているようだ。
1万年の時が流れている都市はそんなにあるものではない。
それを、たった千年くらいの書かれたものなどで、本当か嘘かもわからず、これが本当だなどといってみても虚しく聞こえてくるから不思議だ。
こんな感覚にさせられたのも、この都市に住んでからである。
そうはいっても、たった4~5年位、片手間に調べているだけで何がわかるのかとおしかりを受けそうだ。
そう。こちらは何も専門家ではないので怖いものは無い。
この地を一人でも多くの人に知ってほしいだけである。
ゲートボールですか。
やはりこうやって使われ、守れたり壊されたり。
県や市の人を批判しても段々と虚しさが増えるだけという気もします。
まあ、こうして大切さも伝わることもありそうなので、情報は消えないでしょうからどんどん発信しておきます。
ところで「小原」は茨城発祥の地ですよね。
茨城郡が最初にできたところ。それが分かれたので石岡に移った。
このため、笠間方面と石岡近辺は似た話が多い。
片岡の地の龍の話。佐志能神社。くれふし山・・・・
とても似ています。