梶無川と白鳥
行方(なめがた)市の山百合まつりを見学ついでに通った国道355線が行方市「浜地区」で横切る川を「梶無川」という。
この名前のいわれはこれまた「ヤマトタケルがこの少し上流の現原の丘から、この川を小舟に乗って上るとき船の棹梶が折れてしまったため、梶無川というようになった」というのだが、恐らくこの話も違っているのだろう。
何処を見てもまともに書いてあるのだが・・・・
行方(なめがた)などという名前のいわれも解釈がたくさんある。行と書いて「なめ」と読むのは並ぶから来ているという説明もあった。石岡にも「行里川(なめりがわ)」という地名がある。
かなり昔からある地名であり、風土記などの書かれるよりだいぶ前からあるのだと思う。
やはりアイヌ語か? 常陸風土記の説明はあまり信用でききそうにない。

さて、興味があったので川を覗いてみた。
驚いたことに7月だというのに白鳥の親子3羽が悠々と泳いでいたのだ。

どうも、白鳥(こぶ白鳥)が霞ケ浦に住みついているらしいのだ。土浦の方にもたくさんいるとの記事も見つけた。

3月頃にはいなくなるものと思っていたのだが。
人を恐れる様子もありませんね。

さて、石岡から鉾田まで走っていた鹿島鉄道が廃止となってしまったが、もともと「鹿島参宮鉄道」という名前で大正末期に始まったものだが、当初この「浜」から鉾田方面と鹿島方面にわかれて線を引く計画もあったという。しかし、船便との関係で、鹿島へ行くのは「浜」地区から船に乗り換える計画に変更し、この梶無川近くに船着き場も計画されたという。
この鹿島鉄道が廃止となったのは残念でならない。電気がなくジーゼル機関車キハ系車両が使われ、マニアにはたまらないらしい。今は売却されて一部展示されているという。
船がなく、鉄道がなく、バスしか頼るものがない。病院などの施設もこの沿線に結構できたのだが、年配者や学生にとって電車という足がないのは困ったことである。
ところでこの梶無川の少し上流の現原(アラハラ)地区は新撰組の芹沢鴨の出身地でもある。
この地区にあるこの川に架かる橋の名前を「手奪橋(てうばいばし)」といい、河童の手を切った芹沢家の先祖が、河童に手を返したため、恩返しに魚を毎日届けたという話が残されています。
この名前のいわれはこれまた「ヤマトタケルがこの少し上流の現原の丘から、この川を小舟に乗って上るとき船の棹梶が折れてしまったため、梶無川というようになった」というのだが、恐らくこの話も違っているのだろう。
何処を見てもまともに書いてあるのだが・・・・
行方(なめがた)などという名前のいわれも解釈がたくさんある。行と書いて「なめ」と読むのは並ぶから来ているという説明もあった。石岡にも「行里川(なめりがわ)」という地名がある。
かなり昔からある地名であり、風土記などの書かれるよりだいぶ前からあるのだと思う。
やはりアイヌ語か? 常陸風土記の説明はあまり信用でききそうにない。

さて、興味があったので川を覗いてみた。
驚いたことに7月だというのに白鳥の親子3羽が悠々と泳いでいたのだ。

どうも、白鳥(こぶ白鳥)が霞ケ浦に住みついているらしいのだ。土浦の方にもたくさんいるとの記事も見つけた。

3月頃にはいなくなるものと思っていたのだが。
人を恐れる様子もありませんね。

さて、石岡から鉾田まで走っていた鹿島鉄道が廃止となってしまったが、もともと「鹿島参宮鉄道」という名前で大正末期に始まったものだが、当初この「浜」から鉾田方面と鹿島方面にわかれて線を引く計画もあったという。しかし、船便との関係で、鹿島へ行くのは「浜」地区から船に乗り換える計画に変更し、この梶無川近くに船着き場も計画されたという。
この鹿島鉄道が廃止となったのは残念でならない。電気がなくジーゼル機関車キハ系車両が使われ、マニアにはたまらないらしい。今は売却されて一部展示されているという。
船がなく、鉄道がなく、バスしか頼るものがない。病院などの施設もこの沿線に結構できたのだが、年配者や学生にとって電車という足がないのは困ったことである。
ところでこの梶無川の少し上流の現原(アラハラ)地区は新撰組の芹沢鴨の出身地でもある。
この地区にあるこの川に架かる橋の名前を「手奪橋(てうばいばし)」といい、河童の手を切った芹沢家の先祖が、河童に手を返したため、恩返しに魚を毎日届けたという話が残されています。
こちらの記事では、知らずにいた産まれ故郷の多くの事を楽しませていただいています。ありがとうございます。
なめりがわという地名ですが、鎌倉にもあります。
滑川と書くのですが、由来はな何なのか気になります。
鹿嶋鉄道の車両は、小美玉市の南病院の敷地に保存されていていつでも見る事ができます。車内には入れませんが。
鹿嶋鉄道は、私も子ども時代から廃線寸前まで利用していました。
なくなって本当に寂しいし、不便です。
お久しぶりです。震災情報の時に立ち寄っておられた方ですね。
まだこのような情報にも興味を持っていただき感謝です。
さて「なめかた」「なめりがわ」とても不思議ですね。
このようなことに興味を持つとこの地の魅力にはまってしまうのです。
縄文語(アイヌ語)の研究をしている鈴木健さんとおっしゃる方が石岡に住んでいます。
この人の書いた「常陸国風土記と古代地名」という本があり、ここにこの行方について書かれています。
それによりと、昨日の記事で紹介した「玉清井」が関係しており、
な:冷たい
め:泉、湧きつぼ
か:・・・の上、・・・のほとり
た:そこにある
ということで、「泉に上」「井上」のことであるとしています。
そういえば、山百合の里の土地名は「井上」です。
これから考えると「なめり川」は縄文時代に冷たい湧水が近くにあったのかもしれません。
鎌倉もこんな解釈などで考えても面白いですね。
> 鹿嶋鉄道の車両は、小美玉市の南病院の敷地に保存されていていつでも見る事ができます。
・・・Wikipediaに詳しく載っていますね。これだけ興味を持つ方が多いのでしょう。
「廃線後に保存されている車両は全部で6輌ある。「鉾田駅保存会」が購入したキハ601とKR505がのちに鉾田市に寄付されてほっとパーク鉾田で動態保存されている。「鹿島鉄道保存会」が購入したキハ714・キハ431・KR501が小美玉市の「鹿島鉄道記念館」で静態保存されている(期日指定公開であり、ふだんは非公開)。また、キハ432は小美玉市の小川南病院「はるるの郷」の利用者用施設として保存されている。」
情報ありがとうございました。すごいですね。
「なぜ鴨と称したかというと、玉造にある地名説話によったものと推測される。日本武尊が梶無川から陸に上がったさいに、飛び立った鴨を弓で射落としたため、その地が鴨野と名付けられたという。これが現在の加茂であり、ここには鴨の宮という神社もある。芹沢村の鴨にとって、鴨という名前はごく身近なものだったのだ。」
(浅田次郎 新撰組読本より)
新撰組は好きでしたか。
私は良く知らないので、こういう話もほとんど知りませんでした。
私が住んでいた近くで、東京の三鷹(調布寄り)に近藤勇の墓があったのですが、昔はあまり訪れる人もいなかったように思います。今は結構行くようになったとか・・・。
ヤマトタケルのこの地のことが常陸風土記に書かれているのですが、曖昧な部分が多いようです。
「鴨」と「加茂」などの地名なども考えて行くと面白そうですが・・・。
この鴨の話も河童の話も理解できない言葉(主に地名)が先にあり、話は後からできるものかもしれません。
貴重な情報ありがとうございました。考えるヒントになりそうです。
常陸風土記には日本武尊が現原の丘で(旧玉造町現原)この周辺の四方を遠く望むと山と海とが交わり、物の色は美しく国の形は素晴らしいので、この地を行細(なめくわし)の国と呼ぶと述べていて、この時「行細し(なめくわし)」という表現をしたことが始まりといわれています。
私自身、常陸風土記そのものが天皇に権威をつけるための創作物語のように思っていますが
行方のような、地名の由来そのものには脚色は少ないかも知れませんね。
芹澤鴨ですが
鴨宮ですが明治以前は玉造郷校の至近にありましたが、鹿島参宮鉄道の敷き設により遷宮されましたので
若年期に水戸学を学び、後に神官となった芹澤鴨にとっては思い入れのあるお宮だったのでしょうし
江戸時代に多く食されていた鴨鍋には当時はネギではなくセリを使っていたようです。
鴨と言う名前は思い入れとウィットにとんだ絶妙な命名だった鴨しれません。
一般的には風土記に書かれているというだけで鵜呑みにすることはできません。
美浦村の黒坂命古墳と幡垂(はたしで)の国から信太国の話などが証明されればおもしろいとは思いますが、常陸国や茨城などの説明もそのままは信用できません。
でも、丘の上(今はゴルフ場?)から見渡して、素晴らしい国に見えたというのは事実なのでしょう。
> 鴨宮ですが明治以前は玉造郷校の至近にありましたが・・・
そうですか。地図にのっていないのでどこかわかりませんでした。情報ありがとうございます。
> 江戸時代に多く食されていた鴨鍋には当時はネギではなくセリを使っていたようです。
> 鴨と言う名前は思い入れとウィットにとんだ絶妙な命名だった鴨しれません。
すばらしい。
貴重な情報ありがとうございます。ますます行方をもっと調べなければいけませんね。
「鴨の宮」が最初に移転したのは、昭和2年頃だと思います。鉄道が敷かれるというので、境内の一部に移転しました。その後昭和50年に、現在の場所に移転しました。
元々は、敷地の大部分が玉造村にあったと思います。新しい「鴨の宮」は、今現在、江戸時代に石神村と呼ばれた所にあります。そこの「加茂」という字名が、「鴨の宮」の「鴨」と同じ発音なので、今では、元からそこにあったと思われがちです。新選組研究家の多くは、勘違いされているようです。
しかし、今でもこの古い鴨の宮の跡地を代々管理されている方は、「遷宮」ではなく「分祀」だと理解しておられます。いつの間にか、新しい所にできていたそうです。「常陸風土記」の頃からあったと言われる、由緒ある「鴨の宮」が、昭和になって違う場所に移されるというのもどうかと思うのですが…。小生は当時大学生で、地元を離れていましたので、地元に戻ってから知りました。
旧鴨の宮跡は、玉造郷校跡から直線距離にして、約250メートル、新鴨の宮は、約1キロメートルの所にあります。芹沢鴨がもし下村嗣(継)次で、玉造郷校にいたのだとすると、朝の散歩には丁度良い場所に「旧鴨の宮」がありました。
今でもその跡地があり、『常陸国風土記遺称地「鴨之宮」跡』という石碑が立っています。どことなく古代の息吹が感じられます。行方市では、殆ど宣伝していない穴場です。パワースポット鴨…。
コメントありがとうございます。
行方はお詳しいですね。
私に記事には「鴨の宮」については書いていないのですが、皆さんが書かれていて興味深い場所のようですね。
芹沢鴨の名前が影響しているのでしょうね。
申し訳ありませんが、芹沢鴨については全くよくわかりません。
でも鉄道工事で移転したり、興味がわきました。
今度時間があったら今の神社を訪問したいと思います。
その時に参考にさせていただきます。もちろん「鴨の宮跡」も・・・。
ありがとうございました。