茨城の県名(6)-小原神社

 前回、常陸風土記が書かれた時(西暦720年頃)には、現在の茨城郡にあるが、それはもっと昔には、今は那珂郡となっているどこかにあったが、ある時期に編入替えがあって、移ったと読み取れる文章が書かれているのです。(この解釈は、ちがって読む人もおられるので、解釈による違いもあるようです。)

この那珂郡の大昔に茨城郡の郡衙があったのではないかと思われている場所が、今日紹介する「小原神社(おばらじんじゃ)」の場所なのです。

何時かは一度訪れてみなければならないと思っていた神社です。

行って見て、知らなければ、いくら書物で読んでも理解ができないですからです。
でもあまり訪れる人はいないようです。神社の存在もほとんど知られていません。

この神社を訪れてすぐに紹介記事を書こうと思っていたのですが、1ヶ月以上経ってしまいました。

ここが「茨城」の地名発祥の地であるという最有力候補(私の頭の中では)なのです。

これから説明する小原神社のことなども少しは理解した方がいいと思います。

では小原神社(現笠間市、旧友部町)を見てみましょう。

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小原神社の入口です。

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境内は比較的広く、特に目立ったものはありませんが、ケヤキなどの古木はやはり目に映ります。

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 拝殿前の狛犬です。

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 拝殿です。建物そのものはそれほど豪華な造りではありません。

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小原神社の本殿です。しっかりと作られている感じです。

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道路縁にケヤキの古木が何本かあり、二号だの三号だのと名前がついているようです。
この古木のコブもすごいですね。

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裏の敷地にはケヤキのおそらく昔の御神木の根っこと思われる木が残されていました。

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こんな木が何本か聳えています。
この神社は特別なものがある訳ではありませんが、全体にこの辺りの中でこの一帯は何か古さを感じるものがあります。

さて、本題の茨城の名前の件ですが、この神社の詳しい創建や由来はわかりません。

それでも、この辺りが茨城の名前の発祥の地だと言われています。何故でしょうか?

常陸風土記では常陸国ができる前に6つの郡があったと書かれています。その一つが茨城郡です。

ですから茨城の言葉はすでに8世紀よりも前にあったことになります。

そして重要なことはこの茨城郡の郡衙(ぐんが=行政の中心地)の場所が、途中で那珂郡に編入されたために別な茨城郡の場所に移されたと書かれていることです。

「常陸風土記」の茨城郡条では、

「いわゆる茨城という地は、今は那珂郡に属してその西部にあるが、昔はそこに茨城郡の郡衙が置かれていたから、まさにそこは茨城郡の内で、土地の言いならわしに、水をいとおしむ茨城の国という」

となっているのです。この那珂郡に属している西部の地がこの小原周辺ではないかということです。
他に相当する地が見当たりません。

そして、この郡衙が移された先が現在の石岡市の貝地や茨城(バラキ)、小目代地区であると推定されるということです。

 多くの学者がいろいろの説を唱えており、この小原が茨城郡の元の郡衙で、この地が那珂郡に編入されたときに現在の石岡の地に茨城の郡衙が移ったというのも一つの解釈にすぎません。

私は学者でもないし、こんなことで論陣を張るつもりも全くありません。

でも常陸風土記も素直に読むと、そのように理解されると思うだけです。
そして、当時の大和朝廷が歴史を都合のよいように書き換えてしまっているのを見破ることもできない。

常陸風土記も西暦720年前後にまとめられたものと考えられていますので、この時点の茨城郡の郡衙(ぐんが)はここ石岡になっていたということは確かでしょう。

また、その時にはすでに常陸国が成立(大化の改新645年の直後から690年頃までの間?)しており、その常陸国の国衙が茨城郡の郡衙である石岡の地になったのでしょう。

石岡はこの事だけで十分価値があるのです。そしてそこに文化が花開いたはずなのです。

しかし、常陸国の国衙は国の史跡にやっと登録(昨年5月)され、「国府跡」という名前になりました。
場所はバラキのあたりではなく、こちらは石岡小学校(戦国時代まで、城があったところ)敷地内です。

いばら=ウバラ(ムバラ)=アイヌ語? どちらにしてもイバラはバラ(野バラ)ではないでしょう。

これは1500年以上前の地形がどのようになっていたかがもう少しわかれば想像がしやすくなりそうです。

涸沼なども含めた那珂川がもっと大きな領域を占め、一部は海となっていたような時代の話ですので、今の地形から考えても理解はし辛いでしょう。

これには諸説あり、解釈も分かれますので、石岡が茨城の県名発祥の地という意見も確かに存在します。
またこれを、堂々と言うのは構いませんが、他の意見を聞かないというのは感心しません。

これは「石岡のおまつり」のルーツについても同じだと思います。

常陸の語源も色々ありますね。
これも昔ある書物から「常陸も最初の頃は常道と書いていたという文献があり、真っ直ぐな道が続くひたみち(=直道)からヒタチとなった」と自分のHPに書いたことがありますが、各地の地名などを見てくると、あまり漢字にとらわれると発想が偏りそうに感じています。

これもアイヌ語の拓く(開拓した広い土地)意味だという方が何となく好きですね。

日本書紀に登場する蝦夷の国「日高見国」が最初に何処かにあって、大和朝廷の軍が遠征しながら、どのように北へ移動していったかを考えると自ずからわかってきそうです。

日高見国にしても辞書などは東北や北海道の日高地方の事を指すように書かれていますが、常陸風土記には黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなって日高見国に還るのですから、美浦村辺りだということになります。
時代で徐々に北へ移って行ったものですね。

全ての意見を聞いて自分はそれでもこう思うという意見を持つことが大変重要なことだと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

この意見はあくまでも推論が多く確かではありませんので解釈や理解は各個人の責任でお願いします。

明日は、茨城郡が石岡の地になったといわれる証明ともなっている「茨城廃寺(いばらきはいじ)」について書いてみます。



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茨城の県名 | コメント(32) | トラックバック(0) | 2011/10/25 07:00
コメント
No title
おはようございます。あのけやきは三本とも市の天然記念物で、見分けるために一号とか名づけているんです。
あと言おうか悩んだんですけど小原神社そばに古墳群があり、その一つ山王塚古墳は常磐線建設時に一部が削られたらしいです。もし削られてなければ全長100メートル近い前方後円墳だったらしいと友部町史に書いてありました。茨城郡の有力者の墓だったらしいとも書いてあっりました。余計なことですが書いておきます。
No title
おはようおございます。

毎回 深く濃い内容で ただただ見入り 読み進み 感嘆するばかりです。

内容が学術的な方向にあるので 深く魅かれても
拝見するだけで一杯で コメントはなかなか致しかねますが 知れば知るほどに歴史の深さと 母国の素晴らしさを再認識させて頂いております。

こんな凄いことを 一日2回も続行できる
Roman様の バイタリティーと海馬への蓄積量の凄さ 博識ぶりを尊敬しております。

更新は毎回 大切に拝見して参ります。

どうぞお疲れのたまりませんように。

Re: No title
troyさん
こんにちは。

やっとここの紹介まで来ました。
この場所はtroyさんが紹介した方がよいかとも思いましたが、
石岡にも絡んだ場所ですので、石岡の人がこの話をしなければいけないとも思いました。

> 山王塚古墳は常磐線建設時に一部が削られたらしいです。もし削られてなければ全長100メートル近い前方後円墳だったらしいと友部町史に書いてありました。茨城郡の有力者の墓だったらしいとも書いてあっりました。余計なことですが書いておきます。

・・・教えていただき感謝です。HPなどを見てみました。
石岡の舟塚山古墳が190mくらい。
愛宕山古墳(6世紀後半)が100mくらいありますので、愛宕山(7世紀)と同じくらいの規模ですね。
いずれにしても、律令制の始まる前にこの辺りに豪族がいた証拠でしょうね。
古墳から何か出たのでしょうかね。
どうも戦国時代くらいにあちこち掘り返されたところが多いようです。
なにか出てくれば時代がわかって面白いのですが・・・
Re: No title
言の葉ISさま

こんにちは。
いつも読んでいただき感謝です。
実は長ったらしい文を書いていると、詠む人はきっと面倒くさいだろうなといつも思うのです。
でもこうしてケメントいただくと書いてよかったと思いなおすのです。
意外にブログも孤独な作業ですよね。仲間がつながってはじめてブログの価値が何倍にも増大します。

> 内容が学術的な方向にあるので 深く魅かれても拝見するだけで一杯で
> コメントはなかなか致しかねますが 知れば知るほどに歴史の深さと 母国の素晴らしさを再認識させて頂いております。

中身はそんなにないので恥ずかしいです。
書きながら脱線することも多いし、結論など何処かに飛んで行ったしまうこともあります。

> こんな凄いことを 一日2回も続行できる
> Roman様の バイタリティーと海馬への蓄積量の凄さ 博識ぶりを尊敬しております。

あまり持ち上げないでくださいね。
いつも人を気持ち良くさせる術をご存じの言の葉ISさんですが、正直者の私としては言葉通りに
受け取って喜んでいますよ。

> どうぞお疲れのたまりませんように。
適当に流しながら行きますのでご安心ください。
実はもうネタ切れ近いかも???(笑)

今日これからUPするのなど見たらそう思うと思いますよ。
これから歯医者へ出かけます。
(企業戦士の時にさんざんほったらかしにしていたので、あちこち手入れが必要になっています)

No title
こんにちは。小原周辺は以前歩いてブログに紹介しました。もし同じことを2回書いてもかまわないのならもう一度歩いて現在の状況をもう一度書いてみます。全回場所がわからなくて行かなかったところもありますので。
Re: No title
troyさま
何度でも書いてもいいんじゃない。
私など前に書いたことを忘れて同じようなものを出したこともあります。
少し時間が経つと、その時に考え方も変わっていることが良くあります。
troyさんは写真もかなりインパクトがありますので、単なる説明ではなく
写真にしゃべらせてください。見る人は感じます。
この事は強みですよ。(私は弱みかな。今勉強中ですね。)

こんばんは
歴史には 疎い私ですが 県内、身近な所の説明なので 読んでいて 興味津々です。でも 人物の名前が長くてややこしいので 読んだそばから忘れちゃいます(泣) その土地土地を訪れたりすれば 少しは 実になるのでしょうか("⌒∇⌒") でも 毎回楽しみですぅ~
Re: こんばんは
みーさん
こんばんは。

> 歴史には 疎い私ですが 県内、身近な所の説明なので 読んでいて 興味津々です。
・・・いえいえ、コメントよんでいても色々なところも行事も良く知っておられますね。

> 人物の名前が長くてややこしいので 読んだそばから忘れちゃいます(泣)
・・・これは全く同感です。昔の人は天皇や偉い人が神様になってまつられるので
人間の普通の名前は都合が悪いのでしょうね。まったく覚えられません。
こちらも、メモを見ながら、またこれも自分用の覚書でもあります。

> その土地土地を訪れたりすれば 少しは 実になるのでしょうか("⌒∇⌒")
・・・その場所で感じるものが少しだけ変わったり、あれ何処かで聞いたことがあるな?
なんて気に少しなってくれたらとてもうれしいのです。
読んでくれてありがたいです。
No title
面白く読まさせていただきました。
ushikunokappa 様
> 面白く読まさせていただきました。

お越しくださりありがとうございます。
もうだいぶ前に書いた記事ですが、私のいる石岡は自慢することが好きで
他人の意見を聞こうとしない人が多いです。
でも素直に解釈してもこの石岡の持つ魅力は薄れませんし、逆に輝きを
増すように思っています。
牛久あたりも面白いですね。
またお越しいただければ嬉しいです。

はじめまして
小原神社についてのブログ、そして山王塚古墳に関するコメント、大変興味深く読ませていただきました。
「常陸風土記」の那珂郡の項に、「茨城の里。ここから北方に高い山がある。名を哺時臥の山という。」とあります。哺時臥の山は、現在は朝房山で、神の住まう山、「神奈備」として、古来より信仰の対象となっていた。朝房山は、山王塚古墳のほぼ真北に位置します。そして、涸沼川の源流は朝房山。涸沼川を下流に下って行くと笠間稲荷を通り涸沼に至り、大洗町の日下ヶ塚 (常陸鏡塚)古墳,大洗磯前神社の脇を通り、那珂川河口となります。
常総の歴史 第38号 古墳の編年史の中の舟塚山古墳群の項「第2表 茂木雅博による編年(茂木1985より)」によれば、日下ヶ塚古墳は、奈良県箸塚古墳と墳形の類似が指摘されている常陸太田市にある梵天山古墳より古い時代の古墳である。
山王塚古墳は、常磐線建設時に一部が削られていて、もし削られてなければ全長100メートル近い前方後円墳であった。とのことですが、哺時臥の山(朝房山)が古来より信仰の対象となって神奈備山となったのは、山王塚古墳があったからだと思います。そして、小原神社が創建されたことも。古墳の名称からは、そう遠くない時代までは、古墳がいかにして造られたかの正しい伝承はあったのでしょうね。
では、なぜ山王塚古墳の歴史が「常陸風土記」に書かれていないのは、だふん、以下の理由によるものと思います。
「歴史読本」に、京都府宮津市大垣の丹後一宮籠神社がある。この神社には、国宝指定の「祝部 海部直等氏系図」があると聞いている。これを訪れた関西大学の横田教授に、海部宮司は次のように言ったという。「わが家の系図・古伝承が公表されたら、これまでの記紀のもとづく皇室中心の古代史はひっくりかえってしまうじゃろう。それほど重大なことが書いてある大切なものだ。あんたは、どこの大学の出たか。あんたの師匠の京大教授西田直二博士でさえ、モーニングを着て、白手袋はめて、床の間に置かれた系図を謹んで拝見した。あんたは上衣姿じゃ。これでは見せてあげるわけにはいかん。服装を改めて出直して来なさい。」と書かれていました。
茨城町にある涸沼を、「ひぬま」と読める人はいないと思います。素直に読めば、「かぬま」ですよね。茨城県には鹿島神宮があるのだから、「かぬま」と読ませるなら、鹿沼ですかね。涸とは、「水が涸れる」に使われていて、私には「湖の呼称に使うとは?」と思います。
涸沼の名は、丹後国にある比沼麻奈爲(ヒヌマナイ)神社(往古は比治麻奈為神社で伝説が多くある)の「ひぬま」からきているのだと思います。この神社(京丹後市峰山町久次宮の谷)と藤社神社(京丹後市峰山町鱒留大光田)は、永年伊勢外宮の古地論争を繰り返してきた。とのことです。
常陸風土記の那珂郡の項に、それでこの(哺時臥の)峰にとどまった。その蛇の子を入れた瓫甕(みか)は、今なお片岡の村に存っている。その子孫たちは、社を建てて、祭をし、代々続いて今日まで絶やさず祭っている。注として片岡の村とは、朝房山西麓の笠間市大橋付近という。「社を建てて」の社とは、式内社の藤神社というが定かでない。と書かれている。
茨城県・千葉県には、京都府宮津市大垣の丹後一宮籠神社の海部宮司の話しをひも解くカギが結構残されているようです。
弓張月さま
こんばんは。
コメントありがとうございます。

> 小原神社についてのブログ、そして山王塚古墳に関するコメント、大変興味深く読ませていただきました。

この記事は丁度3年前の記事ですね。
小原はウバラから来たものでしょうかね。ここにいた小原氏は房総の里美氏と関係ありそうですね。
歴史は良く分からないですが面白いです。
山王塚古墳はブロ友から教えてもらったもので良く分かりません。

詳しく色々書いていただき感謝です。
こちらももう少し勉強しますね。

ところで片岡は本当におっしゃる場所かは知りません。
本には書いてありますね。石岡にも片岡地名があり、風土記の内容と全く同じ蛇の子供を産む話が残されています。
こちらでは哺時臥山は石岡にある竜神山(昔は村上山)です。
また涸沼については昔の「阿多可奈湖(あかたなのみなと?)」という内海が広がっていたはずですので、
これが干上がって沼になってからついた名前だと考えています。
あまり確証はありませんが・・・・。

参考となる資料色々ありがとうございました。今後もまたご教授下さい。
石岡の片岡が本物かも?
こんばんわ
石岡にある竜神山は、厳島神社(鉾田市子生),筑波山,そして、弘法山古墳(長野県松本)へとほぼ真西へと進む線上ですよね。
鉾田市子生の「子生」は、茨城ではコナジと読み、若狭の高浜町ではコビと読みそうで、高浜町には、「子生」の由来について、「大蛇の腹から子を救う・・子孫に伝える物語」がある。と関西電力のホームページで見ました。
また、弘法山古墳の麓から山頂への東側のルートの上り口付近には、母龍に跨る〝泉小太郎〟の像が設置されている。その昔、湖であった松本・安曇の地。今の中山和泉で白龍王(大日如来の化身である父)と犀竜(諏訪大明神神武御名方の神の化身である母)の子として生まれた小太郎は長ずるに従い、人々が豊かに暮らせるためにこの湖を干拓して陸地にしてはどうかと考えるようになる。そこで、母(犀竜)の背に跨り、山清路の巨岩を突き破り、水を長野から越後の海へ流し、現在の広々とした盆地をつくったといわれている。とのことであります。
この東西線は、龍神に係わる線のようで、弘法山古墳(長野県松本)から太平洋に向かって南に行く(天竜川を下る)と、天神に係わる神社となります。
それと、Romanさんがブログに書かれている鹿島神宮と諏訪神社の東西線と、茨城には、あと2本あります。
この件も、どうも京都府宮津市大垣の丹後一宮籠神社の海部宮司の「わが家の系図・古伝承が公表されたら、これまでの記紀のもとづく皇室中心の古代史はひっくりかえってしまうじゃろう。」と関係があるようです。
Re: 石岡の片岡が本物かも?
弓張月 さま

興味深い話をご教授多謝です。

> 石岡にある竜神山は、厳島神社(鉾田市子生),筑波山,そして、弘法山古墳(長野県松本)へとほぼ真西へと進む線上ですよね。

子生弁天のところで「筑波山の真東にある」と記事に書いたのですがこんな位置関係なのですね。
もっとも最近はあまりレイラインも頭から離れつつありますが・・・・
石岡の話としては子生は国分寺の鐘がここから運ばれてきたとの話がありますので
昔の人が考えたのかもしれませんね。

この鹿島灘はかなり古くから塩作りが行われ、常陸国府(石岡)にも運搬ルートがいくつもあったようです。

大蛇の話は三輪山伝説が伝わったのでしょう。
片岡の村が茨城郡衙の移転後にこちらに移ったのか、それともここで生まれた話なのかはよく分かりません。
でもここで生まれたと考えるのも結構面白そうです。
すぐ隣が「林」という単純そうな名前の村なのですが、ここの村の名前は出雲風土記に出てくるようです。

蛇が時と場所を変え龍になるのは唐の影響なのかもしれません。
龍に跨って内陸の湖水を海に流した伝説も大変興味深いですね。

水辺には竜神もかなり祀られていますね。
子生厳島神社の龍の彫り物は素晴らしいものでした。

天皇家がこのたび出雲大社の禰宜さんと御結婚されたのですが、本来は出雲大社の方が格上なのですよね。
明治以降はこの丹後一宮籠神社の系図には天皇家の出身がわかるものなのでしょうかね。

今では朝鮮半島から渡ってきたと考えるのが素直です。
蛇の子供を産む話が二か所ある理由は、
蛇の子供を産む話が二か所ある理由は、
「弥生の王国(鳥越憲三郎著)」の物部氏の本拠地の項に、「現在の大阪府八尾市恩智中町に鎮座する恩智神社について、「河内国では牧岡神社と恩智神社だけが最高位におかれている。牧岡神社は、政権と神祇権を独占した藤原氏と中臣氏の氏神である。そのため牧岡神社の方が河内国の一の宮とされたが、両社の関係で注目すべきことが「大阪府全志」に見える。かつて、旧六月二十七日の大祓には恩智神社の神輿が
和泉国の堺の浜まで渡御した。その間の留守を牧岡神社の神主が来て守ったという。また、明治維新までは、藤原氏が奈良の都に牧岡神社の神を勧誘して創建した春日神社の恩智神社の猿楽座が出向かないと行われなかった。そして、猿楽座に・・中略・・いうのである。牧岡神社が河内国の一の宮とされたのは藤原・中臣両氏の権力によるものであった。常識では考えられないことである。そのことは往古に恩智神社の方が牧岡神社より社格が高かっただと言えるだろう。」と書いてます。
たぶん、ここからきているのではないかと思います。
それと、地図上で南北東西を調べるには、「山の資料室」 アドレスはhttp://yamadon.net/yama1010.php?m=dx18000&s=65 を利用すると便利ですよ。
弓張月 様
コメントありがとうございます。

なかなか複雑で歴史に隠された壮大なウソが・・・・。

ご説明いただいたことも半分も理解できませんが少しずつ紐解けたら良いと思っています。

この蛇の伝説も理解するのが難しいところですが、どこかに何かが隠されているのでしょうね。

歴史の表舞台から消えた物部氏と関係があるのでしょうか?
逆に藤原氏でなければ人でないとまで言われていたのとも関係しているのでしょうね。

私はどちらかというとあまり深く考えずに、現地で流れる風の音を聞くのが好きです。

方向を得るサイト紹介ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
鍵コメ様
ご連絡感謝します。
私にはすぐに理解するのは困難ですので、
じっくりと読ませていただきます。
続きです
こんばんわ
ブログいろいろ読ませて頂きました。本当によく調べていますね。Romanさんも取り上げている「常陸出雲大社」ですが、日が沈み休まる国「日隅宮」と称される島根県・出雲大社から、大国主大神の第2御子神である建御名方大神が鎮まる長野県諏訪大社を通り、日が生まれる国・常陸国へと直線上で結ばれている。
常世(私は、聖地と考えてます)の国常陸と古墳を考えるとき、日下ヶ塚 (常陸鏡塚)古墳の後に築造された常陸太田市の久慈川と山田川沿いにある、「梵天山古墳(160m),星神社古墳(100m)」がなぜつくられたか?
常総の歴史 38号 前方後円墳の波及と埴輪祭祀 -常陸北部久慈川中流の梵天山古墳群をめぐって- によれば、「古墳に樹立された埴輪による祭祀・儀礼の始まりは、特殊器台形埴輪と壺形埴輪との二者あり、それぞれ弥生時代の古墳で使われていた特殊台形土器(特殊壺形土器を伴う)と有段口縁壺形土器に起源する。特殊器台形・特殊壺形土器は、吉備地方の弥生時代古墳で生成.発展した伝統的な祭祀・儀礼の道具と考えられる。この二種の埴輪が畿内大和から地方へと波及するその歴史的意義を考える際、まずは、列島最古の巨大前方後円墳と考えられる奈良県桜井市箸墓古墳におけるこの種の埴輪の共存が注目される。」とあり、
また、歴史読本 2013年12月号 巨大古墳ネットワークにみる首長連合の実態の項に「さらに留意すべきは、前代にはなんら階層化の兆しのないところに大型前方後円墳が築造されるケースである。たとえば、茨城県久慈川の下流域には、バチ形の前方部をそなえた梵天山古墳と、特殊器台形埴輪を模した円形型土器をもった星神社古墳の初期大型前方後円墳が2基、築造されているが、この地域では弥生時代後期後半に首長墓はないし、社会の階層化を表す表徴はまったくない。」と書かれています。
常陸北部は、藤原政権から源平の時代へと代わる平安末期に物部佐竹氏が領主となり、誉田村大字馬場の地に氏神さまである馬場八幡宮を築造します。
この馬場八幡宮を中心とした南北東西のレイラインがとっても面白いです。
馬場八幡宮から北へは、熊野神社(馬場八幡宮の地は、元は熊野神社であって、八幡宮の創建に伴って移設されました)、そして国見山となります。
馬場八幡宮から南へは、太田稲荷神社,太田城(舞鶴城),若宮八幡宮,高房神社,天白白羽神社,岩船神社(初め八幡宮を奉祀、元禄中藩主徳川光圀公命で改む。), 甲斐源氏武田氏発祥の地、ひたちなか市武田,鋒田市当間(行方郡当麻の郷),香取神宮となります。馬場八幡宮と香取神宮の参道は、真南に対し20度東に傾いています。(シリウス信仰)
次に、馬場八幡宮から東へは、真弓神社,大久保鹿島神社,天満宮,須賀神社(日立市河原子町),津神社,そして太平洋となります。
馬場八幡宮から西へは、極楽寺跡(徳川光圀公による社寺整理で廃寺に),埴科古墳群(森将軍塚古墳,有明山将軍塚,倉科将軍塚古墳,土口将軍塚古墳の4基)と川柳将軍塚古墳,姫塚古墳(長野県)となります。
長野県の埴科古墳群から見れば、梵天山古墳,星神社古墳も真東です。そして、静神社(那珂市)の北側の権現塚古墳と梵天山古墳,星神社古墳は東西線上にあります。
私は、埴科古墳群(長野県)4基と川柳将軍塚古墳が「倭の五王の墓」ではないか? そこに至った考察は、後日とします。
埴科古墳群(長野県)4基と川柳将軍塚古墳の南北線上には、北から妙高山(別名は、須弥山で、須弥山は古代インドの世界観の中心にそびえる聖なる山とのこと),埴科古墳群,諏訪大社,静岡県御前崎(岬の先端に、山ノ神,大山神社,御嶽神社,駒形神社がある)
となります。
真弓神社は、弓月君と関係があるのではと思い調べた結果、半月の月(弓張月)に面白いことがあることがわかりました。韓国には、半月城もあります。
詳しくは、http://yakamihakuto.seesaa.net/article/388409981.htmlのこの記事へのコメント欄を見てください。
常陸五山のうち真弓山は水戸から見て北東の鬼門であったことから徳川家の領地であったとのこと。徳川光圀公の社寺整理を考えると、他にもわけがあったのでは?と考えたりするから、歴史は面白いですよね。
弓張月さま
> ブログいろいろ読ませて頂きました。本当によく調べていますね。

レイラインも調べ出したら興味深いのですが、今はあまり深く考えないようにしています。
これはまだまだ知らないことが多くてまずは色々見てから・・・・。

この「常陸出雲大社」はレイラインとして成り立つようにこの場所に建てたのでしょう。
また東国三社の直角三角形も後から息栖神社を動かしていますね。

しかし弓張月さまのおっしゃるように古墳をつなぐのにこのような意味があったのかと感じ入っております。
たくさんの事をお教えいただき感謝申し上げます。

いまは少し時間もなく素通りですが、少しずつ再読させていただきながら考えていきたいと思います。
トライアングルほか
こんばんは
日本の古代史は謎が多く、なぞ解きをするのは面白いですよね。
「東国三社の直角三角形も後から息栖神社を動かしていますね。」から、トライアングルについて、私も再度調べてみました。
直角三角形は、他には先日コメントに涸沼の件で書かせて戴いた丹後国にある比沼麻奈爲神社(往古は比治麻奈為神社)と藤社神社で、「元伊勢を名乗る比沼麻奈為神社、藤社神社と、保食神(豊受神)の降臨地であるといわれる真名井嶽の3ヶ所を図上で結ぶと丁度正三角形が描ける。」とあります。
また、那珂市の静神社、ひたちなか市の酒列磯前神社、東海村の大神宮を線で結ぶと三角形になるようですね。
Romanさんの神之池(神栖)のブログにある神之池の神栖町教育委員会の説明看板で、「常陸風土記に寒田(さむた)として・・・」とありますが、「さむた」とは面白いですね。
また、息栖神社遷座のブログにある記念碑の内容「息栖神社は今から1200年以上前の西暦806年にもう少し東の日川(海辺の湊)からこの場所に移された。」も面白いです。
そして、三光の光のブログに書かれておられる「石岡も日天宮、月天宮、星之宮という三光の宮なるものがある。歴史は1300年程前からあるともいわれ、古そうであるが、あまり紹介されることは少ない。特に、星之宮は現在なく、総社宮に合祀されている。元あった場所は、石岡二高のすぐ手前(国分寺の裏手)であり、小さな公園がある。この三つのお宮が三角形に結ばれトライアングルを形成していた。昔にこのお宮をこの位置に配置したことは、何か意味を持たせていたはずで今では考察もされていない。」は、興味深いです。
日天宮、月天宮、星之宮のトライアングルですが、
記紀には左の目から天照大神、右の目から月読命です。
生天目,生田目は、「なまため」で同じ、よって、天=田であって、天(田)は目から生まれる。また、鼻を濯いだ時に産まれたのは素戔嗚尊で、日天宮、月天宮、星之宮は左右の目と鼻で三角形を示します。また、漢字の「罰・罪・罠」など、目を横にして使っているのは意味が有るのでしょうね。
八幡宮の総本宮である宇佐神宮の本殿の建築様式:八幡造で見ても面白いです。
八幡造の特徴は屋根と扉の位置にある。側面からみると、内院と外院が3殿ともに前後に軒を接している。檜皮葺きのふたつの屋根がつなぎ合わされるとこに雨樋があり、内院・外院を明確に区分している。であり、
外院には椅子が置かれ、昼間、神が腰掛けられるところで、夜は内院で休まれる。
ここから、外院=日神,内院=月神,樋=素戔嗚尊と考えられますよね。

それと、寒田と日川の「さむ」又は「ひ」を涸沼の「涸(ひ)」を考えたように、
「ひ」には、埼玉県さいたま市の氷川神社(御祭神:須佐之男命,奇稲田姫,大己貴命),「さむ」には、神奈川県寒川町の寒川神社(御祭神:寒川大明神)また、ウィキペデアの寒川神社には、「鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載 があり、相模国の一宮とされたことがわかる。」と書かれている。やはり、日と氷・寒・樋は天照大神と素戔嗚尊として対称軸にあるようですね。常陸風土記に書かれている筑波山と富士山の関係のようですね。
また、素戔嗚尊が星之宮と関係かあるなら、聖徳太子はシリウス信仰と関係しているようで、素戔嗚尊と聖徳太子の関係、星之宮と星神社古墳の関係などもわかったら面白そうですね。
石岡市田島に山ノ神神社があるようですね。田島は、タジマモリの多遅麻と考えています。また、山ノ神神社は静岡県御前崎の岬にもありましたよね。邪馬台国(やまたいこく)の邪馬(やま)=山=矢魔と、また、埴科古墳群の南北のレイラインから、矢=太陽=王とも考えています。
弓張月 様
今晩は。

かなり興味深いが難しいことが多いようです。
この位置関係は考えられたのか、後の人が憶測で考えただけなのか・・・・。

「藤社神社」はよく知りませんが、藤は蛇の事ではないかというのを詠んだことがあります。
那珂川も蛇川ではないのかと。朝房山近くに藤井川ダムがある。この辺りも何かありますね。
色々に考えるのもまた楽しいことですのでこれをヒントにまた考えてみます。

涸沼と「比沼麻」ですか。このどちらも当て字なのでしょうね。
縄文語、アイヌ語、南朝鮮の古語?
考えなければいけないことが多いですね。
答えは幾通りもありそうです。
応神天皇=宇摩志麻遅命の続きです。
こんばんは
丹後一宮籠神社の海部宮司の「わが家の系図・古伝承が公表されたら、これまでの記紀のもとづく皇室中心の古代史はひっくりかえってしまうじゃろう。」の続きです。

前回の考察の結果、応神天皇=宇摩志麻遅命となりました。
天皇制について、文部省は本当の歴史を知っているのか、現在の教科書に書かれている最初の天皇は応神天皇から始まっています。また、多くの研究者は、「欠史八代」があること、神武天皇は神話的存在として、実在天皇は崇神天皇からとしている。
古事記は、語り部がしばしば「時間的に述褄が合わない」と語っている。そして、このような伝承の解釈は、もともとは独立したかたちで伝えられた伝承をつなぎ合わせたために生じた齟齬として処理されている。このためか古事記は、偽書としてみている人も多いですよね。
でも、古事記が「時間的に述褄が合わない」のか、応神天皇=宇摩志麻遅命であるとして「先代旧事本紀」の物部氏系図をよく調べたところ、面白いことがわかりました。

旧事本紀の物部氏系図は、初代 饒速日命で,1世は宇摩志麻遅命(神武・大夫)で,17世が石上麻呂(天武・朝臣)と書かれています。
また、学校の教科書の天皇系図で1世を応神天皇とすると、継体天皇は6世で、聖徳太子は9世,山背大兄王は10世となります。
旧事本紀の10世に大別連(仁徳侍臣)(矢田部連改姓)がいます。また、天皇系図では山背大兄王です。
まず、秦氏についてですが、建内宿禰系譜の先頭は「波多八代宿禰」、又は「波多矢代宿禰」がいます。波多宿禰とすれば良いのに、わざわざ波多八代宿禰としたのには意味があるのでは?
馬場八幡宮を中心とし、レイラインを調べたときの月と太陽の関係は、矢=王家,月=弓月君となりました。ここから推測すると、「波多矢代宿禰」とは、「矢(物部王家)の代わりは波多」と考えます。つまり、臣籍降下です。
「秦氏の研究」(大和岩雄著)の本に、「「姓氏禄」には、八多真人(左京皇別)が載るが、「古事記」の羽多氏、「日本書紀」の羽田公が天武13年の賜姓で「真人」になったのである。この八多真人は、応神天皇の皇子若野毛二俣王を祖とし、近江国栗本群羽田庄(滋賀県東近江市羽田)にいたため、波多を名乗った皇別氏族だから、前述の波多氏族と一緒にはできない。」と書かれています。しかし、応神天皇=宇摩志麻遅命(物部氏)の子孫が臣籍降下したのが八多氏であるから「姓氏禄」に問題ない。つまり、古代の歴史にはアンマッチがあることがわかる。
前回のメールの「邪馬台国(やまたいこく)の邪馬(やま)=山=矢魔と、また、埴科古墳群の南北のレイラインから、矢=太陽=王と考えています。」です。
「秦氏とカモ氏」中村修也著に、「弓矢というのは東アジアの神話世界において統治権と結び付いている。たとえばアマテラスとスサノヲの契約対決の際に、アマテラスの武装の中心は弓矢であったとし、オオクニヌシが治める葦原中国に高天原から遣わされたアメワカヒコがアマテラスとタカミムスビから賜ったのが、天鹿児弓と天羽羽矢であった。」と書かれている。
山背大兄王(山背は、山代で、矢魔(または矢真)の代わり)=波多矢代宿禰=大別連(仁徳侍臣)(矢田部連改姓)となります。また、後での説明となりますが、=ヤマトタケルです。また、多遅麻連(景行・大連)=目連(欽明・大連)は=田嶋連で景行天皇=聖徳太子と考えます。

旧事本紀の物部氏系図で、残りの11世から17世は、なにを意味するか?
天皇系図で天武天皇は11世であるから、旧事本紀の17世の石上麻呂(天武・朝臣)は11世に置き抱えると、旧事本紀の11世は5世となります。
旧事本紀の11世に布都久留連(雄略・大連)がいます。
香取神宮の御祭神は経津主神(布都御霊の剣を神格化したとする説あり)です。
有名な「ヤマタノオロチ退治」で、オロチの尾から草薙剣が出てくる。雄略天皇の雄の読みに「お」があります。お=尾とすると、「尾を略(おさめる)」となります。
眉弱王(別名:目弱王)は、雄略天皇によって殺害された。(目弱王の「目」と、記紀にある左の目から天照大神、右の目から月読命、旧事本紀の系図にも、目が出てきます。暗号でしょう。)
旧事本紀の氏名と仕えた天皇と役職で、物部の氏名と仕えた天皇名は天皇系図とリンクしている。として、教科書によく出ている物部氏系図の5世から8世を示すと


 4世     5世          6世         7世        
     -布都久留連(雄略天皇)-木蓮子連(仁賢天皇)-麻佐良連(武烈    |       8世
      天皇)-麁鹿火連(安閑天皇)
伊呂弗-|
     -目大連(清寧天皇)  -荒山連(宣化天皇) -尾輿連(欽明天            8世
      皇)-守屋大連(用明天皇)
                            
となります。旧事本紀の11世から17世は、天皇系図で応神天皇を1世とした時の、5世から10世の本当の姿を現しているものと考える。
安閑天皇は、安=静まる,閑=ひま,で終わりを意味し、荒山連(宣化天皇)の荒は、=あら=新矢魔で、宣化天皇は、=せん=山=が化ける。尾輿連は、尾張を輿に、しかし、八世の守屋大連は、もののべの守(かみ):矢となり、乱世となる。
これが、海部宮司が言われた「わが家の系図・古伝承が公表されたら、これまでの記紀のもとづく皇室中心の古代史はひっくりかえってしまうじゃろう。」のあらすじではないかと考えます。
古事記の語り部がしばしば「時間的に述褄が合わない」と語っていることは、日本書記側の都合に合わせないとならなかったためで、物部氏は、=秦氏でしょうから、ダビンチコードならぬハタコードを使って、後世(あらずじは)解読できるようしていたのではないか?と考えます。歴史読本には、「中世の武家の時代は出雲大社の御祭神はスサノヲであって、寛文七年(1667年)以降、祭神はスサノヲから、オオナムヂに改められ、江戸時代後期にオオクニヌシへと「復帰」した。」と書かれていた。日川(アマテラス)対氷川(スサノヲ)の対立があったからでしょうね。「片岡」が茨城に何か所かあるのも、こんな訳ではないでしょうか?

山背大兄王(大別連(仁徳侍臣)(矢田部連改姓))の兄は旧事本紀に「印葉連」なっています。印葉は因幡(いなば)との繋がりを考えてしまいますが、読みは「いんば」で、印葉連は、Romanさんが今ブログに書かれている千葉県の印旛沼周辺と関係があるのでは?と考えます。常陸風土記には景行天皇(=聖徳太子)とヤマトタケル(=山背大兄王)に係わることが多く書かれていますしね。また、印葉連の父は多遅麻連で、印波国造の伊都許利命は、神武天皇皇子神八井耳命の子孫でその系統は多氏(オオシ)と呼ばれる氏族である。最も古い皇別氏族で伊都許利命の子孫が多姓を賜る。印旛国造の他にも大分、伊予国造など多くの国造が輩出し太安麻呂は記紀の撰者として有名とのことで、そして、伊予連は印葉連の弟になっていて、すべて「多」氏で繋がってしまいますから。
弓張月さま
こんばんは。
長文のコメントありがとうございます。

ただ私には理解できる部分が少なく、かつ
この関係を追及するのは私の興味の外です。

いや実を言うと私には知識がなく分からないと言ったところです。
今は少しずつ同じような地域に眠る事柄などを掘り起こしていきます。
弓張月さまの探究の成果が実を結ばれることをお祈りしております。

昔の天皇系図についてはまだ何も理解していません。
あまり興味がわかないのです。
ただ多氏などももう少し勉強したいと思います。

これからもよろしくお願いします。
多氏について
こんにちは
前回は、ちょっと行き過ぎていたようですね。常陸国は古代から常世の国であったために、「片岡」と言う地名が何か所も存在してしまった。その訳は、とても難解であったと言うことですかね。
前回の内容で、私は研究をしている訳では無く、私の先祖は謎が多く、出雲風土記に「土着した古い実力のある豪族がいた。最も古いのは樋氏で樋郷(ひのさと)(氏の名を郷名とした。のち斐伊郷と改める)の開拓者で、その祖をまつる樋社(ひのやしろ)(今の斐伊神社)があり、その氏寺も建立していた。この豪族の勢力は郡内を流れる出雲大川をも樋川(のち斐伊川と改める)と呼ばしめるほどであった。」と書かれている樋氏の末裔のようで、現在はコンピューターが発達しいろいろ簡単に検索できること、丹後一宮籠神社の海部宮司が話していること、文藝春秋2013年11月号の大型企画「歴史の常識を疑え」として、歴史の専門家4名の対談の内容を見て、知に対する遊びでやっていたら、一つの結果が出てしまいました。
ここ数年、茨城県は魅力度最低でありますが、御縁があって茨城に住んでいる人たちが、何でもいいから楽しめる話題のひとつになったらな?と思ってコメントさせていただきました。
多氏については、氷川神社(御祭神:スサノヲほか)の神官に「大部」氏がいるようですね。そして、「名字由来net」(リンクフリー)で「大部」を調べると、大部首、大部宿禰などの子孫。後世は現茨城県である常陸国那珂郡飯富村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)などにもみられる。茨城県に多い。また、「大生」は、現茨城県である常陸国行方郡大生村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)大掾氏族。大野藩にみられる。近年、宮崎県に多数みられる。 岡山県にも少数だが、おおしょうの読みで数軒あり。とあります。
神奈川県伊勢崎市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)と一緒に考えると面白いかもしれません?(大山阿夫利神社=大山阿部里神社(多の弥摩のあべのさとしんじゃ))
黒坂命と関係のある竪破山(日立市十王町)から里川沿いに中里(東河内)がありますが、ここに、大部姓の方が住んでおられます。話を聞くと、歴史を遡れるようです。中里は、「なか」里で、河内(かわち)と言う地名は、読み方を変えてたくさんあります。邪馬台国は、邪馬(やま)は=山=せん=河=川=仙=千=船と、台=だい=内となり、これらの組み合わせにより、地名が生まれたかなと考えています。宮城県の「仙台」は、伊達正宗で有名です。正宗公は、長髄彦(ながすねひこ)(『古事記』では那賀須泥毘古と表記されている)の子孫であると言われていますよね。長髄彦の「なが」=「なか」であり、また御船祭など、言葉的に面白いですよね。
私は、常陸風土記にある黒坂命は、いつの時代か解からないようであり、実は律令制が出来てからの人物では?と思っています。
歴史は知れば知るほど謎で面白いですよね。衆議院が解散しましたが、解散は7条の条文(尾輿)で、平和憲法は9条で聖徳太子は9世、関ヶ原は、菅ヶ原,霞が関は、霞が菅,永田町は、那珂天朝など、創った人は遊び心があったのかと?思ってしまいます。
Re: 多氏について
弓張月さま

こんばんは。
ここ1週間気管支炎からぜんそく気味となり、夜も半分しか睡眠できず頭は働きませんでした。
ブログも何とか今までに少し貯めこんだ写真や記事でつないでやりくりしておりました。
いただいたコメントも読むだけで理解することもできず失礼いたしました。

どうにか今は通常に戻りつつありますのでご安心ください。

今回の多氏という最も古い皇室の氏族だと聞いている程度でどうもよく理解ができておりません。

ただ、日本の氏族の名前も人の名前ということには変わりなく、元々はどこかの場所を表す言葉であったのであろうと推察するのみです。

日本の皇室氏族がどこからやってきたのか? 
これはあまり考えない方が良いのでしょうが朝鮮半島を渡ってきた民族がそのルーツではないかと想像しています。

今回も色々奥深い面白いお話がいっぱいですね。
先日常陸太田の北の里川をさかのぼった中里に行きました。
言った場所は御岩神社と玉簾寺です。
初めてでしたが歴史の古さを感じました。
No title
これはシモ小原神社ですね。
小原神社は大原小学校のある丘にあるカミ小原神社と
その学校の丘の下にあるシモ小原神社の2か所あるんですよ。
確かお祭りでも両方の神社を神輿が行き来してたはず…。
情報ありがとうございます。
> 小原神社は大原小学校のある丘にあるカミ小原神社とその学校の丘の下にあるシモ小原神社の2か所あるんですよ。

貴重な情報多謝です。
今度カミ小原神社も行ってみますね。
No title
こんばんわ。
カミ小原神社のコメントを書いた者です。

小原神社の祭神が御霊分けされた神社があります。
カミ小原神社(旧・香取神社)は祭神はスサノオとフツヌシで
シモ小原神社(旧・八龍神社)はタカオカミ・クラオカミの姉妹神と同じくスサノオ。
このスサノオ神を御霊分けした神社が友部駅の駅南の
八雲神社です。創建は明治39年。祇園祭の際には駅前が賑わいます。

あと別件ですが、
城里には葦原平定の痕跡がみられる神社があります。
城里町役場の北部にある風隼(かざはや)神社はタケミカヅチの葦原平定の際の陣屋だったと聞きます。
またその丘の下に草懸(くさかけ)神社という神社があります。
この神社はタケミカヅチが敗れて敗走する際に助けられた場所だと云われています。
そこから少し遠くに静神社があり(この神社も平定に関係する神社です)、
静駅の北西にある踏切からずっと一直線に参道が伸びる
瀧神社は現地の人曰く、もとはアイヌの神社だったと云っていました。
一度赴いてみてはいかがでしょうか?
Re: 左と右

> 小原神社の祭神が御霊分けされた神社があります。

小原神社がどのようにできてどう移っていったのか・・・・
なかなか興味深いのですが、理解するのは難しそうですね。
最近少しブログ記事も続かなくなって少し怠慢になっていますが、また難題を与えられたような気にもなりますね。

友部の方は出雲系神社が多い気がしていますが、ここかでまじりあっているのでしょうね。
星のカカセオの一族などもいたのでしょうか?
今は気力も少しなく、手を広げすぎの気もしているので、少し落ち着いて時間があるときにまた探して行ってみます。
情報多謝します。
No title
初めまして
 小原村の歴史を調べていて、ここに着きました。
カミ  小原香取神社 久寿2年(伝) 1155年創建 千葉県の香取神社の分社

シモ  小原鹿嶋神社 永徳元年 1381年創建
茨城県の鹿嶋神社の分社と聞いています。
2社とも小原神社で皆様混同している様ですね。
当社の宮司も茨城の祖はウバラ節です。

小原村の歴史を調べているのですが、明治22年に小原村と3市原村が合併して大原村となり、地番等も変更となりました。旧小原村の地番等の資料を探しております。
小原(香取)神社氏子 様
こんにちは。

 小原神社は私も先日教えていただくまで片方しか知らずにいました。
 貴重な情報ありがとうございました。

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