石岡のおまつり(15)-年番制度
石岡のおまつりは、現在の形となったのは明治35年に始まった年番制度に合わせてです。
総社宮の奉仕を1年ごとに旧町内の持ち回りで行なうものです。
お祭りから次の祭りまでの間、その町内が担当します。

さて、この祭りは比較的に新しいと思われますが、中町に昔あった「天王社」の祇園まつりがもとになっていると思われます。
明和年間の1760年代から毎年6月14日に行なわれていたというおまつりで、現在と同じような旧町内で行列の順番が決まっていたようです。
一番(富田のささら)、二番(中町の屋台おどり)、三番(香丸の子供おどり)、四番(守木の子供おどり)、五番(木之地のみろく)、六番(泉町ふし)、七番(幸町田打おどり)、八番(青木ほうさい)、九番(若松町かたかた)、十番(中之内ほろ)、十一番(金丸の人ささら)が町なかを練り歩いたそうです。
この天王社は現在の中町の矢口本陣の隣りにあり、府中陣屋(現在の市民会館、石岡小学校)から中町に出る正面にあったのです。
現在の祭りが始まった時の年番町は守木・大小路・土橋・金丸・守横・富田・仲之内・宮下・青木・幸・国分・中町・若松・泉・香丸・木之地の十六町でありましたが、人数の少ない町もあり、祭りをささえる人も少なくなり苦労しているようです。
そのため、木之地町は昭和27年に辞退して現在十五の町で交代で続けられています。
今年の年番は「土橋町(つちばしちょう)」です。
土橋町は中町通りから石岡市民会館に向かう通りの入り口の右側です。
石岡のおまつりでは、土橋の幌獅子は、県の無形民俗文化財に指定され、仲之内町の幌獅子は市の民俗文化財にしてされており、神輿の露払役を行ないます。

石岡の市内にはこのように昔の町名を表記した石の表示柱を設置しています。
こんなのを探して歩くのも面白いかもしれません。

石岡駅を降りて右側に観光案内所と交番がありますが、その少し先の広場に旧町名の説明板があります。
ここに載せたものは全部の旧町名は入っていませんが、市街地にある町名はわかります。
また、年番制度に参加していなくてもお祭りには参加している所もたくさんありますので、参加の町の数は三十以上あります。
東光台・星の宮・鹿の子・貝地・茨城・水久保・北ノ谷・兵崎・ばらき台・六軒・山王台・六軒東・元真地・小川道・東町・若松東・山し山・大和・大砂・正上内・南台などで、東光台は山車で他は幌獅子で参加しているようです。
皆、町の名前を書いてありますので、見てくださいね。
総社宮の奉仕を1年ごとに旧町内の持ち回りで行なうものです。
お祭りから次の祭りまでの間、その町内が担当します。

さて、この祭りは比較的に新しいと思われますが、中町に昔あった「天王社」の祇園まつりがもとになっていると思われます。
明和年間の1760年代から毎年6月14日に行なわれていたというおまつりで、現在と同じような旧町内で行列の順番が決まっていたようです。
一番(富田のささら)、二番(中町の屋台おどり)、三番(香丸の子供おどり)、四番(守木の子供おどり)、五番(木之地のみろく)、六番(泉町ふし)、七番(幸町田打おどり)、八番(青木ほうさい)、九番(若松町かたかた)、十番(中之内ほろ)、十一番(金丸の人ささら)が町なかを練り歩いたそうです。
この天王社は現在の中町の矢口本陣の隣りにあり、府中陣屋(現在の市民会館、石岡小学校)から中町に出る正面にあったのです。
現在の祭りが始まった時の年番町は守木・大小路・土橋・金丸・守横・富田・仲之内・宮下・青木・幸・国分・中町・若松・泉・香丸・木之地の十六町でありましたが、人数の少ない町もあり、祭りをささえる人も少なくなり苦労しているようです。
そのため、木之地町は昭和27年に辞退して現在十五の町で交代で続けられています。
今年の年番は「土橋町(つちばしちょう)」です。
土橋町は中町通りから石岡市民会館に向かう通りの入り口の右側です。
石岡のおまつりでは、土橋の幌獅子は、県の無形民俗文化財に指定され、仲之内町の幌獅子は市の民俗文化財にしてされており、神輿の露払役を行ないます。


石岡の市内にはこのように昔の町名を表記した石の表示柱を設置しています。
こんなのを探して歩くのも面白いかもしれません。

石岡駅を降りて右側に観光案内所と交番がありますが、その少し先の広場に旧町名の説明板があります。
ここに載せたものは全部の旧町名は入っていませんが、市街地にある町名はわかります。
また、年番制度に参加していなくてもお祭りには参加している所もたくさんありますので、参加の町の数は三十以上あります。
東光台・星の宮・鹿の子・貝地・茨城・水久保・北ノ谷・兵崎・ばらき台・六軒・山王台・六軒東・元真地・小川道・東町・若松東・山し山・大和・大砂・正上内・南台などで、東光台は山車で他は幌獅子で参加しているようです。
皆、町の名前を書いてありますので、見てくださいね。
御親切にありがとうございます。
これも2年程前に書いていましたが、もう少し勉強します。
> 中町は泰輔はやしやってた人が教えました…
泰輔囃子が一番古く獅子連を結成したようですね。
何で「泰輔」と言うんでしょう?
三村、染谷や成井など 江戸囃子の系統なのでしょうね。
こんなところもきちんと検証して石岡市でも観光客もいつでもわかるようにしてほしいですね。
徳島の阿波踊りなども年中見学できるところもありますね。
石岡囃子は全くわかっていなくて済みません。
今では各山車での演技も見事になってきましたね。
受け継ぐ人たちが育ってきているようですね。
中町の曳き手とお祭り中に揉めて…泰輔を断り。泰輔をやってた人が中町に教えました…これが事実です
今年、お祭り広場で石岡ばやしの披露をしていましたね。
それぞれの保存会や連? 頑張って残してほしいです。
コメントありがとうございました。
石岡ではきっと山車会館などを作っても盛り上がらないし、協力姿勢が感じられないのでうまくいかないと思います。
佐原の山車会館は弟子が2-3台を常時展示。空調設備、電灯などの維持費がかなりコストがかかりそうでした。
ただ謂れや歴史などの根幹がはっきりしないまま、年3日だけの祭りで終わるのはどこかさびしいです。
富田の「棒ささら」なども秋田や東北方面などにもどのように流れていっているかとても興味深いのですが・・・
説明されて展示などあると嬉しいと思っています。
昔、明治にこの祭りが考案されて年番で始めたけど、囃子が街には残っていないので染谷や三村からお囃子のできる人を呼んできて祭りをやったと聞いたことがあります。
そのため、このお囃子の人達の都合に合わせるのが大変だったなどという笑い話がありました。
石岡は獅子が名物と言いますが、これも昔石岡に流れて宿を借りていた人が教えていったものだとも・・・
独自のものではないようです。
これはこれで何の問題もないことです。
問題なのはそれがあたかも昔から石岡独自で歴史があるすごいものだと思いこんでしまい、事実を拒絶する姿勢に問題があるのです。
今では明治後半からだと言ってもこれだけ熱心に行なう人がいて、人も集まるのですから、この祭りもどんどん進化して発展していけばよいと思います。
資金はうまく工夫していくことは必要です。
御まつり会館などなくても良いが、説明展示は何処かに欲しいですね。
近清書店さんの跡での写真展はたしか市長のお父さんの撮られた「石岡昭和の肖像」の写真だったと思います。
この本は手元にありますが、お祭りも昔のことがよく書かれています。
あまりお囃子のことは少ないのですが、お囃子の人達を連れてく来たり謝礼をすることなど時間調整も苦労したようです。
わたしは「いしおかのおまつり」にはそれほど興味がありません。
歴史や街中風景の一部ですので熱心にはなれません。
これはよそから来たため、子ども時代に参加して楽しんだことがないからかもしれません。
そのため、あまり内容が理解できていませんので話題について行けません。あしからず・・・・。
なるほど。「築地の獅子御輿」など知らないことばかりです。
また勉強させてもらいました。多謝。