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水道道路

前のブログで横浜の本牧で育ったと書いた。ここはアメリカ軍の施設と、昔からの浜っ子と呼ばれる人たちが入り乱れ、そこに横浜というモダンな港町とが不思議にミックスした町であった。
しかし横浜にいたのも小学1年生までで、その後東京都東村山市の萩山というところへ越した。
東村山は志村けんさんの「東村山音頭」で名前は後で有名になったが、東京のはずれの片田舎という雰囲気であった。
今で思えば、アニメ「トトロの森」に出てくるような場所であった。
所沢や村山というところに比べ、一般には「ああ村山ですか?」などと言われたが、あまり村山に近いという印象もなく、小平や国分寺に近い場所である。
萩山はその名前の通り萩の花がたくさん咲き乱れていた林や原を切り開いてできた町であった。
東村山市の中では一番都心寄りで、国分寺や多摩湖への連絡接続駅で小じんまりした町でもあった。
このため歴史的なものはあまりなく、団塊の世代で育った私のような子供たちが一杯いた。
越したばかりは、近くに学校はなく、一駅先の八坂にある小学校に通った。
一駅と言っても1~1.5kmくらいだから意外に近く、子供時代は遊びながら歩くにはちょうど良いくらいの距離だった。
この西武多摩湖線は線路沿いに「水道道路」と呼ばれる道が走っており、道路の下を大きな水道管(村山貯水池、狭山湖、多摩湖~東京都心)が埋設されていて、車の侵入は出来ず、しかもひたすら真っ直ぐに続く道で、歩くにはもってこいであった。
土手の脇には土筆やはこべ、よもぎ、野バラ、ボケ、スミレなど四季折々で楽しめた。
最近気になってホームページで検索してみると「サイクリングロード」として紹介されていた。
そういえば昔(昭和30年代)は自動車は言うに及ばず自転車も少なかったので自転車の道という思い出はない。
多摩湖は東京では桜の花の名所で花見によく訪れる場所として西武園遊園地と共に人気があった。
また中学や高校の頃には、学校で、この多摩湖一周(約7~10km)のマラソン大会に毎年参加した。
 さて、小学校の話に戻ると、なにせ団塊世代で子供の数が多く、それも急に2倍近くにも膨れ上がったので、学校建設も必要になり、小学5年になる時に萩山に小学校が建設され、こちらに移ることとなったが、まだ小学6年はなく、分校としてスタートした。
翌年こちらが6年生になる時に正式に小学校として開校された。
そのため、5年・6年と全校での最高学年を2回やった。
そして私たちの学年が記念すべき萩山小学校の第1回卒業生となったのである。
その小学校が開校50周年を迎えている。早いものである。
私は私立中学を受験して、中高一貫校のため、6年間国立(くにたち)に通った。
国立は中央線の国分寺と立川の中間に出来たためにこの名前となったが、その後武蔵野線が開通して西国分寺の駅も出来た。
団塊の世代で受験も大変であったが、学校もクラス数が一挙に増え、対応にてんやわんやであった。
確か1学年5クラスが8クラス位になったように思うが、今から考えると先生方もさぞ大変だったろうと思う。また1クラスは今のように30人などではなく40~50人くらいいたと思う。
大学受験なども団塊世代の前年度の人(2年前)は後ろが大勢いるから皆現役で入学しなければといってあせっていたが、団塊世代の真中の私たちはもうどうにもならなかったのであった。
今から思えば、勉強も競争も、懐かしい思い出である。
その団塊世代がこうして定年を迎え、「やれ年寄りが増えて大変だ」とか騒がれて邪魔者扱いはいくらなんでもないよね。
意外にこれからも日本の救世主になるやもしれませんよ。
皆、まだまだこれからだと思っているのです。
私だって新しいことにもチャレンジ中です。

子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/06 21:36
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