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天狗が祈った神社-鈴宮稲荷神社

 祭りの記事もまだ終わっていませんが、本日2本目の記事です。今回もまた、石岡市内の想い出の1ページを開きたいと思います。

鈴の宮稲荷神社です。

石岡駅からも近く、行ってみても特別変わったところもない普通のお稲荷さんに思えます。
しかし、この神社もその歴史を見るとこの町の歴史が奥底に埋まっています。

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神社の鳥居と赤い旗。赤い奉納旗は祭礼時期などですので、普通の時はありません。
でも赤い旗は目立って如何にも神社らしいです。

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拝殿の前にはちょこんと構えている2匹の狐が、この神社が稲荷神社だと教えてくれます。

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さて神社の隣りは駐車場です。この駐車場は単なる神社の駐車場ではありません。
むかしこの地は新地八軒(紀州屋、金枡屋など)といわれた遊郭があったのです。
ここに江戸末期、水戸藩の尊王攘夷論が台頭して、急進派の藤田小四郎(藤田東湖の四男)や竹内百太郎たちはこの遊郭を定宿として同士を集めていました。

元治元年(1864年)この鈴の宮神社に集結し、そのまま筑波山にむかい、62人の同志たちと共に挙兵(天狗党)したのです。藤田小四郎は23歳の若者でした。

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筑波山神社の拝殿の階段を上る手前の左側の少し高くなっている広場に天に向かって右手を高くさし上げている小四朗の像が建っています。

天狗党の最後はあまりにも悲惨で、書物もあまり読んでいません。
しかし、挙兵した当時は、彼らは理想を求めていたはずです。

その後、石岡も2つに割れ、お互いが家を壊したり、火をつけたりして大きな痛手をこうむりました。
明治政府ができても、そこで登用され活躍できる人材が皆いなくなってしまいました。

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この写真は筑波山神社の拝殿です。
年間たくさんの人が訪れます。
鈴の宮で天狗党の決起を誓い、そして、石岡(府中)から府中(筑波)街道を通って、小幡-十三塚から風返り峠へこの府中の街を見下ろしながら真っ直ぐに登って行ったはずです。
どんな思いだったのでしょうか。
また、この筑波山神社境内に集まって気勢を上げた時はどんな思いだったのか。
この鈴の宮神社でも、筑波山神社の前に立っても、どこかやりきれない思いがしてくるのです。

そんな思いとは裏腹に、この石岡の鈴の宮神社は街中にあって比較的カラッとしています。
神社の奥に大イチョウがあって、昔はたくさんの葉を茂られていたそうです。(今は根元の幹の部分だけ)
この鈴の宮に立ち寄られたら、意外にカラッと昔の思いを語ってくれそうですよ。

<鈴の宮について>

さて、鈴の宮神社は江戸中期に建てられたものではないかと思われますが、鈴の宮の名前の由来は、この神社の場所が、律令制時代に各国府を結んでいた官道の(府中)駅家(うまや)(16kmごとに置かれていた)があったところではないかと思われており、そのことに関係しているようです。

旧律令制時代の古代官道は、現在では各地でわからなくなってしまっており、発掘調査でこの道路の跡が見つかって段々と、わかってきているようです。
もっと解明されればとてもおもしろいと思います。

各駅には馬を数頭置いておくことが義務づけられており、富田町は江戸時代の宝永年間までは「馬之地」と呼ばれていました。

この駅家が古代律令制のころからそのまま江戸時代まで、この地で受け継がれてきたとも思われませんが、官人が往来する時に駅使が鈴をならす風習があったようです。
この鈴が使われ無くなった時に神社に奉納されてものだと言われています。


  

石岡市内 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/08 16:56
コメント
天狗党の墓
こんばんは。
私も天狗党については、何も知らないのですが、かつて、天狗党の墓があったという話を聞いたことがあります。昭和10年の地図には、その場所が載っていました。
今はその場所に、何の痕跡もありませんが・・。
Re: 天狗党の墓
べあべあ様
連絡ありがとうございます。
駅の反対側の「勤王志士殉死の跡」というのがそうでしょうか?
この話はこの地では意外にデリケートなので、さらっと流しておきましょう。
掘り起こすのは止めておきます。
処刑された場所もたくさんあったようです。

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