三浦杉(2)-悪狐(九尾の狐)
さて、「三浦杉」の話の続きです。
この三浦杉の名前の由来となった「三浦大介基安」の退治した那須の悪狐の話だが、調べてみるととても面白い。
悪狐と書いて「あっこ」と読むというのだが、これは日本最強、いや東洋最強の妖怪「九尾の狐(きゅうびのきつね)」(尾っぽが九本ある)の事を指すらしい。那須の殺生石の由来の伝説に登場する妖怪であった。
この妖怪狐は中国から始まり、インド、日本、韓国にまで広く伝説として伝わっているという。
韓国では「クミホ」と呼び今年TBSで放送された「僕の彼女は九尾狐(クミホ)」という韓流ドラマにもなった。
皆絶世の美女に姿を変え、国の帝の寵愛を受けその国をのっとって魔界をつくらんとしたものばかりだ。
では雑学として簡単に調べた内容を紹介しましょう。
1)中国の殷国の時代最後(紀元前11世紀頃)にこの九尾の狐が絶世の美女「妲己(だっき)」に化け、国王の寵愛を受けるが、国王は妲己の気を引くために欲望の限りや残虐な見せしめなどを行うようになってしまいます。
この欲望の限りは後に「酒池肉林」などの語源として伝わっていきます。
しかし、この悪徳政治は武王の反乱で終わりを告げ、捕らえられた妲己は打ち首となるのですが、斬首の執行人はあまりの妖気に刑を執行できないでいました。
そこで登場するのが釣りでおなじみの「太公望」です。太公望は周の武王を補佐していた軍師で、妖怪と見破った太公望が「照魔鏡」をかざすと九尾の狐の姿を現し、雷雲が天をかけめぐり、飛び去ろうとしました。
逃さじとばかり、太公望が投げた宝剣が体に当たり、体は3つに割れて死んだといいます。
2)しかしこれで、この妖怪は滅びていなかったのです。次は天竺(インド)です。
中国の九尾の狐が滅んだ700年後に隣のインドに再び現れたのです。
今度はの耶竭陀(まがだ)国の華陽という美女として登場します。やはりここでも九尾の狐に操られた王子が100人もの人民を惨殺してしまいます。
これを救ったのは名医の耆婆(きば)で、正体を見破り霊験あらたかな杖を使って体を打つと、正体をあらわして北の空へ飛んで逃げていったのです。
3)次は再び中国です。
周の武王が国を治めて12代目の幽王の婦人となった「褒似(ほうじ)」がこの九尾の狐といわれています。褒似が笑わないので、笑わそうと唯一笑ったという「敵が侵入してきたときに上げる狼煙」を何度も打ち上げます。
狼少年と同じく、誰も信用されなくなり、本当に敵が攻めてきた時に見方が集まらずに滅びたといいます。この褒似もここで死にます。
4)日本にやってきたのは聖武天皇の頃に、若藻という名前の美少女がひそかに遣唐使の帰国船にまぎれこんで博多にやってきて姿をくらまします。
それから350年後、捨て子と姿を変えたこの狐は北面武士に拾われて「藻(もくず)」と名づけられ、成長していきました。
そして18歳になった時に宮中に仕えると、たちまちその美貌で鳥羽天皇をとりこにしてしまいます。
そして「玉藻前(たまものまえ)」と呼ばれます。
しかし、天皇は病に罹り、この寵愛が深まるにつれ、天皇の病は重くなっていきました。
そこで登場するのが陰陽師安倍泰成(晴明の子孫)で、この玉藻前が妖怪であると見破ります。
見破られた九尾の狐は姿を現し辰巳の方角に姿をくらましてしまいました。
都から逃れた九尾の狐は下野国那須野でか弱い娘に姿を変え、十念寺の和尚をたぶらかして食べてしまいます。
ここでの悪さを知った那須野領主の要請で、鳥羽上皇は陰陽師安部泰成を軍師として三浦介義明と上総介広常を将軍に8万の軍勢が那須野に悪狐(九尾の狐)退治に派遣されました。
しかし、九尾の狐の術に翻弄された軍勢は多くの戦力を失ってしまいました。
はて、やっとここでこの「三浦杉」の出番です。でも一般の説明には出てこないので、勝手な想像も加わっています。
まあ妖怪退治でもあり、色々な読み物などとなっていくうちにストーリーは変化しているでしょうからこれもありでしょう。
さて、この悪狐退治に登場する「三浦介義明」は横須賀に城を持っていた三浦半島を領地とする豪族です。
この三浦杉に伝わる話は「那須野の悪狐(あっこ)退治に苦戦していた三浦大介基安が供のもの4人を従えて、この神社(八幡神社)にお参りし、悪狐退治の武運を祈願したとあります。名前は少し違いますが三浦介は三浦大介とも称していたので同じ人物でしょう。
この人物の紹介は少し後に譲って、この話の続きですが、三浦介と上総介はその後、犬の尾を狐の尾と見立てて訓練をして、三浦介の射た2本の矢で九尾の狐を射止めます。
(さて、この犬での稽古が、後の鎌倉時代の武家社会で行われた「犬追物(いぬおうもの)」などのはじまりといわれるので、現在の全国の愛犬家たちには考えられない残酷なことですね。)
三浦大介は那須で悪狐を退治して、半年後にこの八幡神社に勝利の報告をして、子孫がこの地に住み着いたとも言われています。
さて、話が長くなってしまいました。 また明日に続きます。

この神社への上り階段は、今は上から枝などが落ちてくると危険ということで、平成13年から通行止めとなっています。参拝客用に、この階段の下で遙拝所が設けられています。
しかし、最初はこの拝殿まで登ることができないと思っていましたが、階段を使わずに、遠回りをして登れます。
通行止めになっていない時は、地区の小学生の遠足などにきて、子どもたちが手を繋いで木の幹の大きさを確かめたと地元の方が話してくれました。
石岡にも樹齢1300年の「佐久の大杉」という県指定天然記念物がありますので、大切に保護したいですね。
この佐久の杉は大分樹勢が衰えていますが、こちらの杉は途中にコブもなく見事に真っ直ぐに天に向かってのびています。本当に見事な杉です。
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この三浦杉の名前の由来となった「三浦大介基安」の退治した那須の悪狐の話だが、調べてみるととても面白い。
悪狐と書いて「あっこ」と読むというのだが、これは日本最強、いや東洋最強の妖怪「九尾の狐(きゅうびのきつね)」(尾っぽが九本ある)の事を指すらしい。那須の殺生石の由来の伝説に登場する妖怪であった。
この妖怪狐は中国から始まり、インド、日本、韓国にまで広く伝説として伝わっているという。
韓国では「クミホ」と呼び今年TBSで放送された「僕の彼女は九尾狐(クミホ)」という韓流ドラマにもなった。
皆絶世の美女に姿を変え、国の帝の寵愛を受けその国をのっとって魔界をつくらんとしたものばかりだ。
では雑学として簡単に調べた内容を紹介しましょう。
1)中国の殷国の時代最後(紀元前11世紀頃)にこの九尾の狐が絶世の美女「妲己(だっき)」に化け、国王の寵愛を受けるが、国王は妲己の気を引くために欲望の限りや残虐な見せしめなどを行うようになってしまいます。
この欲望の限りは後に「酒池肉林」などの語源として伝わっていきます。
しかし、この悪徳政治は武王の反乱で終わりを告げ、捕らえられた妲己は打ち首となるのですが、斬首の執行人はあまりの妖気に刑を執行できないでいました。
そこで登場するのが釣りでおなじみの「太公望」です。太公望は周の武王を補佐していた軍師で、妖怪と見破った太公望が「照魔鏡」をかざすと九尾の狐の姿を現し、雷雲が天をかけめぐり、飛び去ろうとしました。
逃さじとばかり、太公望が投げた宝剣が体に当たり、体は3つに割れて死んだといいます。
2)しかしこれで、この妖怪は滅びていなかったのです。次は天竺(インド)です。
中国の九尾の狐が滅んだ700年後に隣のインドに再び現れたのです。
今度はの耶竭陀(まがだ)国の華陽という美女として登場します。やはりここでも九尾の狐に操られた王子が100人もの人民を惨殺してしまいます。
これを救ったのは名医の耆婆(きば)で、正体を見破り霊験あらたかな杖を使って体を打つと、正体をあらわして北の空へ飛んで逃げていったのです。
3)次は再び中国です。
周の武王が国を治めて12代目の幽王の婦人となった「褒似(ほうじ)」がこの九尾の狐といわれています。褒似が笑わないので、笑わそうと唯一笑ったという「敵が侵入してきたときに上げる狼煙」を何度も打ち上げます。
狼少年と同じく、誰も信用されなくなり、本当に敵が攻めてきた時に見方が集まらずに滅びたといいます。この褒似もここで死にます。
4)日本にやってきたのは聖武天皇の頃に、若藻という名前の美少女がひそかに遣唐使の帰国船にまぎれこんで博多にやってきて姿をくらまします。
それから350年後、捨て子と姿を変えたこの狐は北面武士に拾われて「藻(もくず)」と名づけられ、成長していきました。
そして18歳になった時に宮中に仕えると、たちまちその美貌で鳥羽天皇をとりこにしてしまいます。
そして「玉藻前(たまものまえ)」と呼ばれます。
しかし、天皇は病に罹り、この寵愛が深まるにつれ、天皇の病は重くなっていきました。
そこで登場するのが陰陽師安倍泰成(晴明の子孫)で、この玉藻前が妖怪であると見破ります。
見破られた九尾の狐は姿を現し辰巳の方角に姿をくらましてしまいました。
都から逃れた九尾の狐は下野国那須野でか弱い娘に姿を変え、十念寺の和尚をたぶらかして食べてしまいます。
ここでの悪さを知った那須野領主の要請で、鳥羽上皇は陰陽師安部泰成を軍師として三浦介義明と上総介広常を将軍に8万の軍勢が那須野に悪狐(九尾の狐)退治に派遣されました。
しかし、九尾の狐の術に翻弄された軍勢は多くの戦力を失ってしまいました。
はて、やっとここでこの「三浦杉」の出番です。でも一般の説明には出てこないので、勝手な想像も加わっています。
まあ妖怪退治でもあり、色々な読み物などとなっていくうちにストーリーは変化しているでしょうからこれもありでしょう。
さて、この悪狐退治に登場する「三浦介義明」は横須賀に城を持っていた三浦半島を領地とする豪族です。
この三浦杉に伝わる話は「那須野の悪狐(あっこ)退治に苦戦していた三浦大介基安が供のもの4人を従えて、この神社(八幡神社)にお参りし、悪狐退治の武運を祈願したとあります。名前は少し違いますが三浦介は三浦大介とも称していたので同じ人物でしょう。
この人物の紹介は少し後に譲って、この話の続きですが、三浦介と上総介はその後、犬の尾を狐の尾と見立てて訓練をして、三浦介の射た2本の矢で九尾の狐を射止めます。
(さて、この犬での稽古が、後の鎌倉時代の武家社会で行われた「犬追物(いぬおうもの)」などのはじまりといわれるので、現在の全国の愛犬家たちには考えられない残酷なことですね。)
三浦大介は那須で悪狐を退治して、半年後にこの八幡神社に勝利の報告をして、子孫がこの地に住み着いたとも言われています。
さて、話が長くなってしまいました。 また明日に続きます。

この神社への上り階段は、今は上から枝などが落ちてくると危険ということで、平成13年から通行止めとなっています。参拝客用に、この階段の下で遙拝所が設けられています。
しかし、最初はこの拝殿まで登ることができないと思っていましたが、階段を使わずに、遠回りをして登れます。
通行止めになっていない時は、地区の小学生の遠足などにきて、子どもたちが手を繋いで木の幹の大きさを確かめたと地元の方が話してくれました。
石岡にも樹齢1300年の「佐久の大杉」という県指定天然記念物がありますので、大切に保護したいですね。
この佐久の杉は大分樹勢が衰えていますが、こちらの杉は途中にコブもなく見事に真っ直ぐに天に向かってのびています。本当に見事な杉です。


こんばんは。
この狐は数百年に一度大暴れするみたいです。
女狐って政界にもいますよね。
いつの時代もこわ~い女性はいますね(失礼、失礼)
でも世の男性はこんな美女なら騙されてもいいなんてほんのチョッピリでも思うものですよ。
私には寄ってきませんね。お金もないし、権力もないのでね。残念ですが・・・。