都々一坊扇歌(1)-扇歌堂
さて、今日から3回に分けて都々逸の始祖「都々一坊扇歌(せんか)」を紹介します。
JR常磐線の石岡駅ホームに置かれている石岡の名所案内に「都々一坊扇歌の墓」と載っています。
都々逸(どどいつ)の名前は多くの方がご存じだとは思いますが、その都々逸を生み出した「扇歌(せんか)の墓が石岡の国分寺境内にあります。
先日、横浜にいる娘が帰ってきたので「都々逸って知っている?」と聞いたのですが「知らない」との返事。
何時からわからなくなったのでしょうか?
そこで都々逸として有名な
「三千世界の鴉(カラス)を殺し、主(ぬし)と朝寝(添寝)がしてみたい♪」
と少し節をつけて吟じてみたけどまったくチンプンカンプンでした。
もっとも三味線も寄席などでは見る機会もめっきり減りましたので、無理もないかもしれません。
この三千世界の唄は幕末の「高杉晋作」がつくったとか、「木戸孝允」が作ったとか説は分かれますが、高杉晋作が好んで歌ったようです。
全世界(三千大世界)の鴉(恐らく太陽神を表すヤタガラスのことだと思いますが、これも解釈は分かれますね)を殺せば、朝がやってこないからお前と何時までも寝ていられる」といった遊廓(ゆうかく)あたりで唄われたのでしょうね。

常陸国分寺跡のあるお寺(国分寺)の境内に「扇歌堂」という六角形のお堂が建っています。
「都々一坊扇歌は1804年現常陸太田市磯部に生まれ、病により失明同様になったが、芸の道を志し二十歳で江戸へ行き、寄席芸人として修行を続け、1838年に、当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」を工夫して「都々逸節」をつくった。
扇歌は、高座で聴衆からのなぞかけを即座に解く頭の回転の速さで江戸庶民の評判となったが、当時の政治・社会を批判し江戸追放となった。
江戸を追放された扇歌は、姉の嫁ぎ先であるここ府中(石岡)に身を寄せていたが1852年48歳で没した。
この扇歌堂は昭和8年に町内有志の呼びかけによって建立されたものである。」
これが、現地の説明文にある内容です。

扇歌の都々逸(どどいつ)は名前の都々一坊と「逸」と「一」がちがっています。
これは扇歌が都で一番になるという意味をつけたものだということを後から知りました。
代表的な都々逸としては
○ 親がやぶならわたしもやぶよ やぶに鶯鳴くわいな
○ たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
○ 白鷺が 小首かしげて二の足踏んで やつれ姿の水鏡
○ 諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
○ 都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな (辞世の歌)
○ 上は金、下は杭なし吾妻橋(江戸追放のきっかけとなった歌)
などがあります。これを読んだだけでは理解が少し足りないのも都々逸です。
理解するためには当時の社会情勢や本人の置かれた状況などを加味しないと歌の味が出ないのです。
さて、普通ならこの説明くらいで終わるのですが、もう少しお話しておきたいことがありますので明日に続きます。
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JR常磐線の石岡駅ホームに置かれている石岡の名所案内に「都々一坊扇歌の墓」と載っています。
都々逸(どどいつ)の名前は多くの方がご存じだとは思いますが、その都々逸を生み出した「扇歌(せんか)の墓が石岡の国分寺境内にあります。
先日、横浜にいる娘が帰ってきたので「都々逸って知っている?」と聞いたのですが「知らない」との返事。
何時からわからなくなったのでしょうか?
そこで都々逸として有名な
「三千世界の鴉(カラス)を殺し、主(ぬし)と朝寝(添寝)がしてみたい♪」
と少し節をつけて吟じてみたけどまったくチンプンカンプンでした。
もっとも三味線も寄席などでは見る機会もめっきり減りましたので、無理もないかもしれません。
この三千世界の唄は幕末の「高杉晋作」がつくったとか、「木戸孝允」が作ったとか説は分かれますが、高杉晋作が好んで歌ったようです。
全世界(三千大世界)の鴉(恐らく太陽神を表すヤタガラスのことだと思いますが、これも解釈は分かれますね)を殺せば、朝がやってこないからお前と何時までも寝ていられる」といった遊廓(ゆうかく)あたりで唄われたのでしょうね。

常陸国分寺跡のあるお寺(国分寺)の境内に「扇歌堂」という六角形のお堂が建っています。
「都々一坊扇歌は1804年現常陸太田市磯部に生まれ、病により失明同様になったが、芸の道を志し二十歳で江戸へ行き、寄席芸人として修行を続け、1838年に、当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」を工夫して「都々逸節」をつくった。
扇歌は、高座で聴衆からのなぞかけを即座に解く頭の回転の速さで江戸庶民の評判となったが、当時の政治・社会を批判し江戸追放となった。
江戸を追放された扇歌は、姉の嫁ぎ先であるここ府中(石岡)に身を寄せていたが1852年48歳で没した。
この扇歌堂は昭和8年に町内有志の呼びかけによって建立されたものである。」
これが、現地の説明文にある内容です。

扇歌の都々逸(どどいつ)は名前の都々一坊と「逸」と「一」がちがっています。
これは扇歌が都で一番になるという意味をつけたものだということを後から知りました。
代表的な都々逸としては
○ 親がやぶならわたしもやぶよ やぶに鶯鳴くわいな
○ たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
○ 白鷺が 小首かしげて二の足踏んで やつれ姿の水鏡
○ 諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
○ 都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな (辞世の歌)
○ 上は金、下は杭なし吾妻橋(江戸追放のきっかけとなった歌)
などがあります。これを読んだだけでは理解が少し足りないのも都々逸です。
理解するためには当時の社会情勢や本人の置かれた状況などを加味しないと歌の味が出ないのです。
さて、普通ならこの説明くらいで終わるのですが、もう少しお話しておきたいことがありますので明日に続きます。


すきならすきとおっしゃいな、にもこの伝統が
無意識に織り込まれているのでしょうね。
石岡は「都々逸」の大会もやっていますね。
結構その影響もあるのかもしれませんね。
この前の記事で書いた「九尾の狐」で神楽の話をしたら
今日はNHKの家族に乾杯に安芸高田市が出ていました。
調べているとあちこち興味が出てきます。
いろんなことがつながってきそうです。
今日の旅 花か紅葉か 知らないけれど 風に吹かれて ゆくわいな
ボブディランそのものですね。
確か歌碑にあったもので昔から大好きです。
the answer is blowing in the wind,,,
こんばんは。
私も見てました。偶然とはいえ興味津々でした。
先日はキッチンが走るで霞ケ浦をやっていましたが、これは十五夜の夜に歩崎公園で見かけたものでした。
徐々にでも色々取り上げられてきていますね。
現地の碑にあったと思いますね。
いい唄ですよね。
このような芸が忘れられているのですね。
> ボブディランそのものですね。
> the answer is blowing in the wind,,,
石岡でも、これも取り上げていかねばなりませんね。
この場所に「扇歌六角堂」って看板を立てるべきですね。
良いネーミングだし、見て姿がいいです。
子供が絵に描くにはいい題材ですね。良くわかります。
子供の写生したのを駅などで飾ってほしいし、石岡の名所にしてもらいたいですね。