都々一坊扇歌(2)-父は変わった医者
都々一坊扇歌のお話の2回目です。
今日は扇歌の父親の話と、何故目が見えなくなったかのお話です。
あまり知られていないと思いましたので書物からの紹介だけしておきます。
都々一坊扇歌は、江戸時代後期の文化元年(1804年)、久慈郡佐竹村(現常陸太田市)磯部の医師、岡玄作(策)の次男として生まれました。
上には姉が二人おり、4人兄弟の末っ子で子之松(生まれた文化元年が子年であったため)といいました。
父の玄作は一風変った医者として数々の所業が伝わっています。
父の玄作は下野国(しもつけのくに)那須郡大内村の酒屋の次男として生まれ、若い頃から医者になる志をたて、当時、名医の誉れが高かった水戸藩医、南陽・原玄瑞の弟子になって、医術の修行を積みます。
南陽は和漢、オランダの医学に通じた名医であり、この南陽の弟子となった玄作は生まれつき才能も富んでおり、修行にも人一倍はげんだため、先輩を尻目に早くから頭角を現していきました。
修業中の7年間で300人もいた門弟の中の筆頭に記されるまでになったそうです。
あるとき、江戸の本屋に珍しい医学書が入ったと聞いて、南陽は玄作に四十両を持たせて、その書を買い求めに江戸へ行かせました。
江戸に出た玄作は、日本橋の近くに宿をとり、好きな歌舞伎を見て、すっかり本場の歌舞伎にはまってしまいます。
玄作は当時、江戸の三座といわれる市村座(堺町)、中村座(葺屋町)、森田座(木挽町)をすべて見物し、芝居見物の後は茶屋で酒を呑み、そのうち吉原通いまではじめたため、とうとう預かった四十両もほとんど使い果たしてしまいます。
そうしているうちに、南陽からは早く帰れの催促まで来て、困った玄作は本屋に頼み込んで、七巻もあるその医学書を読ませてもらい七日間で全ておぼえてしまったのです。
そして水戸を出てから35日目にようやく戻った玄作は、江戸でのことをありのままに報告し、医学書の内容をすらすらと口述したので、南陽は呆れるやら、驚くやらで、玄作の口述を聞き終わった後、「七日の間に、それを残らず書いて提出しろ」と命じました。
すると、玄作は、「金を注ぎ込んだ吉原学問の方はどうしますか。やはり、書いて出しましょうか」といったので、南陽は苦笑するしかなかったそうです。
南陽は玄作の高い能力には驚いたようですが、他の門弟の手前もあり、弟子として置いておくわけにはいかなくなり、南陽の紹介で佐竹村(常陸太田市)磯部で村医者として開業することを許されます。
玄作は名医との評判もあり、村や近隣から多くの患者が訪れてきていましたが、手遅れと思われた患者には手当てもせず、念仏を唱えるし、長くないと思われた患者の家族には葬式の準備をした方が良いという始末で、段々と患者も少なくなり、決して裕福ではなかったといいます。
玄作の妻は水戸藩桜井与六郎の娘で、二人の間には二男二女があり、子之松(扇歌)は玄作が磯部に来てから生まれた子で末っ子でした。
また、子之松が四才の時、母が亡くなり、子之松が七才の時、十三才の兄陽太郎と共に疱瘡(ほうそう:天然痘)に罹ってしまいます。
玄作は疱瘡患者の治療法は知っていたのですが、当時の医学書に「疱瘡の病人には、青い魚類は大毒だ」と書かれていることを確かめたくなります。
そして、長男陽太郎には鰹(かつお)、子之松には鰯(いわし)を食べさせたのです。
だがこれがいけなかった。不幸にも医学書にかかれていることは真実であり、まもなく二人とも高熱にうなされ、あわてて手当を行なったが、二人とも視力を失ってしまいました。
その後、子之松はわずかに視力を回復しましたが、しょぼ目で顔にはあばたが残ってしまいました。
歴史にも疱瘡(天然痘)の話は多く残っており、独眼流正宗(伊達政宗)も幼少期の疱瘡がもとで右目を失ったことは有名です。
この15年前にはジェンナーが牛痘の実験をしたのですが、当時の日本にはまだ伝わっていなかったのです。
わが子二人の悲劇は玄作一家には大変ショックで、その後、玄作は以前の師である水戸の南陽の門をたたき、事件の詳細を話し、目が見えなくなった長男陽太郎の将来のことを頼んだのです。
南陽は陽太郎の名付け親でもあり、江戸の鍼匠へ紹介し、修業をさせ、おぼえもとても速かったといいますが、その二年後に流行り風邪でこの世を去ってしまったのです。
さて、ここから扇歌の苦労がはじまるのですが、この続きは次回(3回目)に続きます。

○ たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
この歌は扇歌がまだ都に出る前に三味線を抱えて諸国を放浪していた時の歌でしょう。
参考文献:「都々一坊扇歌の生涯」 高橋 武子著(叢葉書房)、「都々一坊扇歌」 柳生四郎編(筑波書林)
(この続きは明日へ)以下は余談です。
さて、このブログも毎日書いていると徐々にだが広がりが出てきているように思う。
こちらもあまり積極的にはPRもしないので、ほんの少しだが嬉しいことである。
1)9月に書いた十五夜の夜の記事で、霞ケ浦につき出た歩崎の公園で、「NHKのキッチンが走る」の車が来ていましたが、これの放送が先日ありました。
ここで
紹介された「日本一バーガー」美味しそうでした。
2)8月に志筑の長興寺の石像をシリーズで載せ、また7月だったかに小美玉市栗又四ケにある大きな石の仁王像を紹介しましたが、これに関連して石仏の写真を撮っておられる写真家のブログに紹介記事(こちら)が出ました。(別にブルースの演奏家の写真をフイルムカメラで撮られています。)
また、先日は和紙の記事が紹介されたのはお伝えしたと思います。
今度は都々逸の関係者が紹介してくれないかな。
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今日は扇歌の父親の話と、何故目が見えなくなったかのお話です。
あまり知られていないと思いましたので書物からの紹介だけしておきます。
都々一坊扇歌は、江戸時代後期の文化元年(1804年)、久慈郡佐竹村(現常陸太田市)磯部の医師、岡玄作(策)の次男として生まれました。
上には姉が二人おり、4人兄弟の末っ子で子之松(生まれた文化元年が子年であったため)といいました。
父の玄作は一風変った医者として数々の所業が伝わっています。
父の玄作は下野国(しもつけのくに)那須郡大内村の酒屋の次男として生まれ、若い頃から医者になる志をたて、当時、名医の誉れが高かった水戸藩医、南陽・原玄瑞の弟子になって、医術の修行を積みます。
南陽は和漢、オランダの医学に通じた名医であり、この南陽の弟子となった玄作は生まれつき才能も富んでおり、修行にも人一倍はげんだため、先輩を尻目に早くから頭角を現していきました。
修業中の7年間で300人もいた門弟の中の筆頭に記されるまでになったそうです。
あるとき、江戸の本屋に珍しい医学書が入ったと聞いて、南陽は玄作に四十両を持たせて、その書を買い求めに江戸へ行かせました。
江戸に出た玄作は、日本橋の近くに宿をとり、好きな歌舞伎を見て、すっかり本場の歌舞伎にはまってしまいます。
玄作は当時、江戸の三座といわれる市村座(堺町)、中村座(葺屋町)、森田座(木挽町)をすべて見物し、芝居見物の後は茶屋で酒を呑み、そのうち吉原通いまではじめたため、とうとう預かった四十両もほとんど使い果たしてしまいます。
そうしているうちに、南陽からは早く帰れの催促まで来て、困った玄作は本屋に頼み込んで、七巻もあるその医学書を読ませてもらい七日間で全ておぼえてしまったのです。
そして水戸を出てから35日目にようやく戻った玄作は、江戸でのことをありのままに報告し、医学書の内容をすらすらと口述したので、南陽は呆れるやら、驚くやらで、玄作の口述を聞き終わった後、「七日の間に、それを残らず書いて提出しろ」と命じました。
すると、玄作は、「金を注ぎ込んだ吉原学問の方はどうしますか。やはり、書いて出しましょうか」といったので、南陽は苦笑するしかなかったそうです。
南陽は玄作の高い能力には驚いたようですが、他の門弟の手前もあり、弟子として置いておくわけにはいかなくなり、南陽の紹介で佐竹村(常陸太田市)磯部で村医者として開業することを許されます。
玄作は名医との評判もあり、村や近隣から多くの患者が訪れてきていましたが、手遅れと思われた患者には手当てもせず、念仏を唱えるし、長くないと思われた患者の家族には葬式の準備をした方が良いという始末で、段々と患者も少なくなり、決して裕福ではなかったといいます。
玄作の妻は水戸藩桜井与六郎の娘で、二人の間には二男二女があり、子之松(扇歌)は玄作が磯部に来てから生まれた子で末っ子でした。
また、子之松が四才の時、母が亡くなり、子之松が七才の時、十三才の兄陽太郎と共に疱瘡(ほうそう:天然痘)に罹ってしまいます。
玄作は疱瘡患者の治療法は知っていたのですが、当時の医学書に「疱瘡の病人には、青い魚類は大毒だ」と書かれていることを確かめたくなります。
そして、長男陽太郎には鰹(かつお)、子之松には鰯(いわし)を食べさせたのです。
だがこれがいけなかった。不幸にも医学書にかかれていることは真実であり、まもなく二人とも高熱にうなされ、あわてて手当を行なったが、二人とも視力を失ってしまいました。
その後、子之松はわずかに視力を回復しましたが、しょぼ目で顔にはあばたが残ってしまいました。
歴史にも疱瘡(天然痘)の話は多く残っており、独眼流正宗(伊達政宗)も幼少期の疱瘡がもとで右目を失ったことは有名です。
この15年前にはジェンナーが牛痘の実験をしたのですが、当時の日本にはまだ伝わっていなかったのです。
わが子二人の悲劇は玄作一家には大変ショックで、その後、玄作は以前の師である水戸の南陽の門をたたき、事件の詳細を話し、目が見えなくなった長男陽太郎の将来のことを頼んだのです。
南陽は陽太郎の名付け親でもあり、江戸の鍼匠へ紹介し、修業をさせ、おぼえもとても速かったといいますが、その二年後に流行り風邪でこの世を去ってしまったのです。
さて、ここから扇歌の苦労がはじまるのですが、この続きは次回(3回目)に続きます。

○ たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
この歌は扇歌がまだ都に出る前に三味線を抱えて諸国を放浪していた時の歌でしょう。
参考文献:「都々一坊扇歌の生涯」 高橋 武子著(叢葉書房)、「都々一坊扇歌」 柳生四郎編(筑波書林)
(この続きは明日へ)以下は余談です。
さて、このブログも毎日書いていると徐々にだが広がりが出てきているように思う。
こちらもあまり積極的にはPRもしないので、ほんの少しだが嬉しいことである。
1)9月に書いた十五夜の夜の記事で、霞ケ浦につき出た歩崎の公園で、「NHKのキッチンが走る」の車が来ていましたが、これの放送が先日ありました。
ここで
紹介された「日本一バーガー」美味しそうでした。
2)8月に志筑の長興寺の石像をシリーズで載せ、また7月だったかに小美玉市栗又四ケにある大きな石の仁王像を紹介しましたが、これに関連して石仏の写真を撮っておられる写真家のブログに紹介記事(こちら)が出ました。(別にブルースの演奏家の写真をフイルムカメラで撮られています。)
また、先日は和紙の記事が紹介されたのはお伝えしたと思います。
今度は都々逸の関係者が紹介してくれないかな。


豊富な内容と詳しい記事、私も見習っていきたいです。
記事を拝見して 本当に良かったと思いました。
確か以前にも お伝えしたかと思いますが内容的にも 小・中学校などの社会科の教科書等に 郷土の歴史のようなタイトルで 引用されても良いのではないかと思っています。
昔話も面白いですし 郷土の祭り類なども子供たちに伝えられれば 茨城の為にも宣伝にもなると思っています。
こつこつと続けていらっしゃれば 必ず評価される内容ですから 頑張って下さいね。
嬉しいですよね。本当に良かったですね♪~
@文章の間に 空間を作られるようになり 見易くなりましたネ!日々の工夫が伝わってきます。
こんにちは
ブログを始めて14カ月。毎日更新を目指して連続記録を更新中。
継続していれば、少しはこうして見ていただきコメントをもらえ、元気ももらえる。
世の中いろんな人はいるけど、数人に気持ちが伝われば手ごたえありです。
前から、30人の束を作ればそこから大きくなる要素があると思っています。
世の中変えられますよね。
お互いに頑張ってやっていきましょう。
こんにちは。
喜んでいただいてとてもうれしいです。もっと頑張らなくちゃと思います。
> 確か以前にも お伝えしたかと思いますが内容的にも 小・中学校などの社会科の教科書等に 郷土の歴史のようなタイトルで 引用されても良いのではないかと思っています。
・・・嬉しいですね。子供向けには書いていないので、時々苦情を書いてしまったりして、反省ですね。
毎日何かを書き続けると、「まとまったら大きなものになっている」というようなことを夢見ています。
そして、何かの形に残ればとてもうれしいです。
1年過ぎたけれど、石の上にも三年というのでまだまだですが・・・。
> こつこつと続けていらっしゃれば 必ず評価される内容ですから 頑張って下さいね。
コメント大変力強く思います。ありがとうございます。
> @文章の間に 空間を作られるようになり 見易くなりましたネ!日々の工夫が伝わってきます。
これは言の葉ISさんの表現法を一部とりこんだものです。こっそり盗んでいます。(笑)
こんばんは。
とっても嬉しいです。
扇歌の紹介で、少しでも知っていただける人がいるだけで・・・・
ドラマにもなりそうですよね。とても面白い話です。
町を知ってもらうにもいい題材です。ドラマもいいですね。