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都々一坊扇歌(3)-その生涯

 さて、都々一坊扇歌のお話の3回目です。
父の実験道具とされ、目がほとんど見えなくなり、兄をなくした子之松少年(扇歌)は、佐竹寺の寺子屋に通うようになります。

 寺小屋に通うようになった子之松だが、当時姉が稽古していた唄や三味線を聞いて何時か芸人になりたいと憧れるようになっていきます。

 家から寺小屋までは約1里ほどの山道を通うのだが、その途中でよく歌を唄いながら歩いたといいます。

子之松はもともと頭がよく、寺子屋でも先輩を追い抜いて2年で総代になるまでになったが、三味線や芸人にだんだんと興味がわいてきて、「いまに江戸に出て芸人になりたい」などというようになってきました。
また、すぐ上の姉(次女)の桃経は弟を不憫に思って隠れては三味線や小唄、潮来節の稽古などを手伝っていたといいます。

この姉を慕っていた扇歌は、最後、姉の嫁いだ府中(石岡)の地で亡くなるのです。

 芸人になりたい夢は持っていたが、父は反対で、13歳になると、子之松を商人にしようと、多賀郡相田村の呉服問屋へ丁稚奉公にだします。
しかし、半年も経つとこの暮らしにはついていけず、奉公先を飛び出して家に戻ってきてしまいました。

家に戻ると今度は土地の枡屋という造り酒屋から養子に乞われ、最初は気が進まなかったが、唄もやれるということで進んで養子になりました。

名前を福次郎と改め、最初はかわいがられて育てられますが、枡屋に実の子供が生まれると、疎んじられるようになり、やがて16歳で三味線一丁を手に枡屋をひそかに飛び出してしまったといわれています。

それから、三味線をかかえてあちこち放浪の旅が始まります。
やっと磯部の家に戻ってきたのは19歳の時ですが、父の玄作はすでにこの世になく、姉の桃経も嫁に行って、叔父の玄市が医者の跡を継いでいたといいます。

 叔父には子供はなく、福次郎に医者を継がせたいと思っていたが、福次郎は毎日、三味線をかかえて、太田の盛り場で唄っていたといいます。

 叔父は「藪医者の子が芸人になって、江戸一番などと考えるのは、とんでもない思い上がりだ。」といさめると、福次郎は即興で

   ○ 親が藪ならわたしも藪よ 藪にうぐいす鳴くわいな。

と唄ったという。

 その後、叔父から一両ニ分の路銀をもらい、4月8日のお釈迦様の誕生日に、芸人を目指して家を出たが、すぐには江戸に向かわずに、腕を磨くために、北の方に向かいました。
 
 まず平潟(現北茨城市)で三味線と唄をうたってしばらく逗留したが、三味線は奥州(東北)の芸人達にはかないません。

磐城湯本の宿で聞いた「おばこ節」のもつ魅力に感動し、新たな唄を作りたいと山に3ヶ月ほど籠もり当時流行っていた「よしこの節」をベースにこれを越える唄を作ろうとしたといいます。

   ○ 私しゃ奥山ひと本桜 八重に咲く気は更にない。

   ○ 白鷺が小首傾(かしょ)げて二の足踏んで やつれ姿の水鏡

   ○ たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車

奥州路を北へ旅し、津軽三味線にも接し、それから3~4年後に、やっと自分の唄(都々逸)が出来たのです。

ドドイツの名前は旅の途中豊原の宿で同宿の旅芸人より聞いた神戸節(ごうどぶし)の唄

「おかめ買う奴あ頭で知れる 油つけずのニつ折れ そいつあどいつじゃ ドドイツドイドイ 浮世はさくさく」

の調子が面白かったのが忘れられず、ドドイツとなり、都で一番になるとの思いから「都々一」となったと言われています。

しかし、名古屋の熱田地区の神戸節(ごうどぶし)をもって都々逸の発祥という人もいるので、扇歌の都々逸を茨城の人はもっと主張しないといけません。(名古屋の熱田にはこの神戸節が起源として「都々逸発祥の地」碑があるそうです。)

また生まれた常陸太田市磯部町に「都々逸坊扇歌碑」があります。

そのためには、その歴史などもよく理解が必要です。

senka1.jpg 石岡高野菓子店の銘菓「扇歌」

その後、福次郎は流しを続け、天保二年(1831)の正月に江戸へ出ます。
江戸では、寄席見物をする傍ら二年間江戸八百八町を流し歩きますが、関心を持ってはくれても普及するまでには力不足でした。

 そこで、師匠に付く必要を感じた福次郎は、当時寄席芸人の中で、落語に音曲を取り入れ、新しい世界を切り開いていた船遊亭扇橋の門を叩きました。

なんとか弟子入りがかないますが、言葉訛りもあり、音曲噺家になることはあきらめ、三味線を生かした、独特の謎解き唄を考案します。

これが師匠から認められ、師匠の扇の1字をもらい、芸名を「扇歌」と改めます。

当時江戸は十一代将軍家斉の時代で、江戸文化も華やかな時代で、天保九年(1838)八月に都々一坊扇歌として高座に上がることが出来たのです。

扇歌の謎解き唄は、当時の社会世相をうまく取り入れて、社会やお上を風刺したため、たちまち観衆を魅了していったのです。

しかし、天保四年から続いた東北・関東地方の飢饉で、全国各地で百姓一揆が起こったりしたため、老中水野忠邦は天保十ニ年(1841)「天保の改革」に乗り出し、寄席演芸も大きく制限され、江戸に125軒あった寄席が15軒に制限されてしまいました。

また、扇歌などの歌舞音曲は禁止となり、高座にあがれなくなってしまったのです。

江戸で高座に上がれなくなったので扇歌は京都、大阪へと旅立ちます。途中、品川、小田原、熱海、三島、宮の宿、那古屋、桑名、京都へと唄いながらの旅を続けたのでした。

大阪にでると扇歌の名前はここにまで届いており、「よしこの節」を凌駕する人気となっていました。

しばらくすると、江戸の禁止も解かれて、再び演芸も盛んになってきたため、扇歌は5年後に再び江戸に戻ります。

「都々一節」は、江戸でも、庶民芸としてたいそうの人気となり、あちらこちらにも呼ばれるようになっていきます。
そして、加賀の大名屋敷に招かれた時に

   ○ 上は金 下は杭なし吾妻橋

と唄い、これが当時の幕府の怒りをかって江戸追放となってしまいます。扇歌46歳の時でした。

 江戸を追放になった扇歌は常陸府中(現在の石岡市)にいる姉桃経を頼ってやってきます。

姉の桃経は小さい時に三味線の稽古をしてくれたり、幼かった子之松をかわいがってくれた最愛の姉でした。

桃経は最初府中総社宮の神官のところへ嫁ぎますが離縁となり、香丸町の旅籠真壁屋の酒井長五郎のところの嫁になっていました。

 扇歌は、長年の疲れもあり病に冒されておりましたが、姉桃経や酒井長五郎は優しく面倒を見たといいます。
その当時、時代は徐々に水戸藩の尊譲論などが現れてきており、旅籠のも憂国の士などの出入りも激しくなってきていたのです。

   ○ 汐時やいつかと千鳥に聞けば わたしゃ立つ鳥波に聞け

   ○ 菊は栄えて葵は枯れる 西に轡(くつわ)の音がする

などの歌を残しますが、やがて再び病魔がおそい、

   ○ 今日の旅 花か紅葉か 知らないけれど 風に吹かれて ゆくわいな

とかすかにつぶやくように唄い、嘉永五年(1852)十月二十九日に四十九歳の生涯を閉じたのです。

墓は千手院(現在の国分寺)にある酒井家の墓に納められました。
この墓はその後、大正時代になるまで世の中に知れることはなかったのですが、昭和六年、扇歌80周年忌を記念して国分寺の境内に「扇歌堂」が建てられたのです。

参考文献:「都々一坊扇歌の生涯」 高橋 武子著(叢葉書房)、「都々一坊扇歌」 柳生四郎編(筑波書林)


senka00.jpg

 酒井家の墓所の片隅に眠る扇歌の墓(国分寺内墓所で)。
昔の地図では国分寺の東側の墓所「ガラミドウ墓所」にあるように書かれていますが、現在は国分寺境内の墓所(酒井家)に納めされています。
墓の入口部に矢印の案内があるだけで、墓所には案内も説明もありません。

長い文を最後までお読みいただきありがとうございました。

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都々一坊扇歌 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/10/19 06:51
コメント
こんばんは
物語を読むかのように見いってしまいました。石岡市、茨城県には素晴らしい人物の埋もれた歴史が沢山有るのですね・ 県や市でも、もっともっとアピールして魅力度ランキング最下位からさよならしたいですね・
Re: こんばんは
みーさん
コメント嬉しいですよ。
皆さんに知られていないようでしたので、書物の受け売りですが載せてみました。
少しでも興味を持っていただける方がいればそれで十分です。
少しずつでも茨城の魅力アップになるといいですね。
思ったより隠れた茨城ファンもいそうですが、声を出せないでいるのかもしれません。
高橋先生より3代目
初めまして。

ネットは面白いですね。
石岡市に
こんなに
「都々一坊扇歌」を
ご存知の方がブログを開設なさっているとは
知りませんでした。

参考資料に書かれている高橋先生が
毎日新聞の「毎日都々一」の選者をして
おられました。
その先生から引き継がれながら、
今は、私が3代目選者をしております。

突然で大変失礼致しました。
Re: 高橋先生より3代目
毎日都々一の3代目様

御訪問とコメント大変ありがとうございます。
都々逸にも全く造詣もないのに勝手に記事にさせていただいています。
高橋先生の著書を図書館で借りて読んだものを紹介させていただいたのです。

このお話を埋めてしまうにはもったいないので皆さんにも知っていただきたいと思いました。

> 石岡市に
> こんなに
> 「都々一坊扇歌」を
> ご存知の方がブログを開設なさっているとは
> 知りませんでした。

石岡やその周辺に眠っている話や、行って感じたことなどを
少しでも掘り起こしてやればその後をまた探して掘り起こしてくれるのではないかという
僅かな期待を抱きながらやってきました。

こうして都々一の関係者の方にも見ていただければとてもうれしいことです。
励みになります。ありがとうございました。

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