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茨城の県名(7)-茨城廃寺(バラキハイジ)

茨城の県名の発祥についての記事の7回目です。

茨城群の群衙(ぐんが:群の中心で行政をつかさどる場所)がここ石岡に置かれたことを示す根拠となっているのが、今日紹介する「茨城廃寺(バラキハイジ)」の存在です。

「廃寺」というと皆さんはどんなイメージを抱くでしょうか。

私が初めてこの名前を聞いた時は「はいでら」なら、住職がいなくなって荒れ果てた無住の寺のこと?
って思いましたが、普通はその程度ですよね。

しかしこの「はいじ」というのは少し違うようです。

Wikipediaによると「廃止された仏教寺院のこと」と定義されています。

すなわち、昔寺院であったが、何かの理由で無くなってしまったものをさし、「廃寺跡」と表現されるのが普通のようです。

例えば、
・奈良の「吉備池廃寺跡(7世紀前半創建? 廃寺期不明)」
・愛知県「大山廃寺跡(7世紀後半創建 15世紀廃寺)」
・鳥取県「上淀廃寺跡(7世紀後半創建 11世紀廃寺)」
・片山廃寺跡(8世紀後半創建 10世紀廃寺)」
などが挙がっています。

では、ここ石岡の「茨城廃寺」(バラキハイジ)はどうなんでしょうか。
「イバラキハイジ」ではなく「バラキハイジ」とふり仮名が振ってあります。

石岡にあるのですが、どのくらいの人に認知されているのでしょうか?
この寺は1300年前に建てられたという国分寺よりも古くて大きな寺だったようなのです。

Wikipediaの「廃寺」として紹介に上がらないのは何故なのでしょう。

まだ調査が完全でなく、良くわかっていないということもありますが、この茨城の名前と県名発祥の地との関係も明確な統一見解はまだないようです。

haiji05.jpg

高浜街道の貝地地区に「茨城廃寺跡」への案内看板があり、狭い道を入ると住宅地を抜けたところに、上の写真にある栗畑に説明看板が置かれています。

ここは、発掘調査をして、ここに金堂などがあったことが確認された場所です。

haiji03.jpg

また、この家の裏手に少しうっそうとした竹林がありますが、それを越えた先に斜めに下りる道があります。
ここに廃寺の礎石が残されています。

この廃寺の礎石は市内にある「平福寺」と「清涼寺」にも残されています。どれも元々あった場所ではなく、動かされたものです。

haiji02.jpg

場所は小目代公民館のとなりで、知らない方が見つけるのは大変だと思います。
ここにあることがわかっていれば比較的探しやすいのですが、道案内などの案内板が少し不足しているようです。
石岡の史跡全般にこれは言えることで、私も場所を探すのに苦労したので、HPなどではできるだけ行く道順などを載せるようにしています。
ここを最初に訪れたのは、石岡民俗資料館を見学していた時に、東京の方が見えていて、館の係りの人に場所を聞いていたので、私もわからなかったので、私の車で一緒に探しに行ったのです。

狭い道をくねくね。道を歩いている人に聞いたりしてたどりつきました。

一緒に行かれ東京の方は図書館関係の人のようでした。

「ここが茨城の名前がおこったところですね」といっていました。
「場所は茨城と漢字で書きますが、バラキと地名は読みますよ。」と教えると不思議そうな顔をされていました。
もう3~4年前ですね。

haiji01.jpg

国分寺よりも前の時代に、このような立派な寺があったのです。
でも廃寺というだけですから、石岡の人にもあまり馴染みはないようです。話題にも上りません。

この大きな寺は、飛鳥時代の白鳳寺院だというのだから本当に驚きなのですが、扱いはどうも粗末に思えてしまいます。

ここでは「八郷町史(平成17年)」に記載されている説明を紹介しましょう。(石岡市史よりこちらの方が新しいので)

「茨城廃寺は、石岡市小目代に所在する白鳳寺院で、昭和55年から3年間かけて調査を行ったところ、塔跡、金堂跡、講堂跡が発見され、法隆寺式伽藍であることがわかった。塔の規模は東西約12.2m、南北約11.5mで・・・・・・・・。

茨城廃寺の屋瓦は、大きく3つの系統がある。一つは創建瓦である筑波系・・・、2つ目が結城廃寺から九重東岡廃寺の流れをひく・・・、3つ目が常陸国府系の・・・・。

・・・つまり、第1期の屋瓦が、7世紀後半、第2期が8世紀前半、第3期が8世中葉と考えられる。

墨書土器に「茨木寺」「文殊」「南院」というものがでてきており、この「茨木寺」というのは、ここが茨城郡の郡寺であることを示すものであり、那珂郡の台渡廃寺に「仲寺」、久慈郡の郡寺と想定されている薬谷廃寺から「久寺」という土器が出土しているのと同じように郡寺と考えられる」

と書かれています。

このため、7世紀後半にはこの石岡の地に、茨城郡の郡衙(ぐんが)が置かれていたということは間違いないでしょう。

しかし、昨日書いたように、茨城の名前はもっと昔からあって、最初に茨城と言った場所は

ウバラキ → ウバラ →小原 で小原神社の辺りだということだろうと思われることです。

この友部に近い小原からこの石岡へ移った時期は不明ですが、5世紀~6世紀の頃でしょうか?
 
卑弥呼の頃は3世紀前半ですから、何時ごろなのかは考えて見るだけで幾らでも想像できてしまいます。

東日本で2番目に大きな前方後円墳である舟塚山古墳が比較的近い場所にあります。

この古墳が造られたのはは5世紀後半と推定されていますので、この寺との関係なども何かあるのでしょうか?

常陸風土記の丘の展示室(有料)には、舟塚山古墳群の中から発掘されたという鉄製の盾と甲冑が展示されています。(こちら参照)

鉄が使われていたことに少し驚きましたが、展示室には何の説明もありませんでした。
まだまだ不明なことが多すぎますね。

さて、常陸国分寺は743年から752年にかけて建立されたのですが、この寺は、それより前であり、茨城廃寺の造られたのは、瓦から7世紀後半(670~690年頃)のことではないかと勝手に推論しています。

この県名のルーツを探る旅はとりあえず終わりにします。

調べながら興味が出てきた事柄もありますが、機会があれば別な形で紹介できるといいなと思っています。
他の県の人には興味はなかったかもしれませんね。



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茨城の県名 | コメント(22) | トラックバック(0) | 2011/10/26 06:58
コメント
No title
茨城県名のお話とても興味深く読ませてもらいました
簡単にわかることではないので大変だと思います。私も少し調べてみたくなりました。ブログに書くかどうかは別として面白そうです。
Romanさんの記事を見た他県の方が自分の住んでるところの歴史に興味を持ってくれたら一番いいですね。
Re: No title
troyさん
ありがとう。
最初に思った事よりまとまりがなかった気がするけど
これもブログだからいいよね。
興味を持っていただけたならとてもうれしい。
時間がかかってやはり大変なだったです。
これもtroyさんもやって見て経験しているので理解していただけてうれしいです。

> Romanさんの記事を見た他県の方が自分の住んでるところの歴史に興味を持ってくれたら一番いいですね。
本当にそうですね。もう少しまた頑張ろうという気になってきました。
しばらく充電したらまた何かを書きたいです。
No title
ROMAN様
昔 県民の歌斉唱の際、’いんばらき~’とか
’えんばらき~’と歌っておりました。(実際には、ん→nではなくmですが)
んばら、って言うのは私たちには、ばらきよりも
自然で発音しやすいように思えます。
一旦口を閉じてmの形にして、ぱっと唇を開く発音ですよね。
うば、とか小原とか教えていただき、あ~なるほどと膝を打ちました。なにか、もやもやしますね。
Re: No title
行徳様

さすがに音の発音はうるさそうですね。
和名抄には「牟波良岐」とこの国府の名前が書かれているそうです。
これをどんな発音の言葉をこの漢字にあてたのでしょうか?
少しわかってきそうですね。
ムnパラキなんて感じでしょうかね。

Parakiは(パラは縄文語で広いで、パラキは拓く)ということの方がすっきりします。
No title
ROMAN様
昔は百里をひゃくりっぱらと呼んでいたらしい。
っぱら、ですね。広い場所、あるいは広い’ひろい’、という形容詞とも同根?
バラける、とかばらばらとか、あるいはお米がパラパラとかでも、何か離れる、広がる、というイメージの音ですね。はるか、なども同じように思えます。HとRで大きなイメージ。まほらにもHとRがありますね。ホラは大きな穴の意味ででもある。ハラ=原、がそもそも、韓国語ウォン、中国語イェンですから、ハラは、輸入の漢字読みとも関係なさそう。
ひょっとしてですが、畿内の盆地から進出した当時の豪族が、’これはまっ平でひろびろした場所だ’と’ばら’の音を当てたか?(ひろびろ!もh&R)
さらに石岡だけなのか茨城全体かはわかりませんが、’げ’というのが誰それさんの場所と言う言い方があります。(今思い出しました)。鈴木んゲ~、みたいな使い方だったと思います。
かつては場所=氏みたいなものですから、げ、に特定の人々がいる場所というニュアンスがあったとしても不思議ではないですね。(漢字の家=け、げ、と思っていました)
広い=nばら、場所=げ(ieではなくgeあるいはngie)
今の’いえ’と言う発音もここからの派生でしょうか。
これだとツチグモの伝説よりも自然に飲み込めそうに思います。
広い場所=まほら、と近似。実際、社会人になり他の地方見るにつけふるさとは広いなと思いました。北海道発見以前では間違いなく一番。
この感覚で付けられた名前なら、あ~!ですね。’広い場所’。

はらほろひれはれ。って日本語語源学としてとても意味深いように思えてきました。冗談でもなく。
広い場所の寺!
あの辺りから、船塚山、霞ヶ浦の風景を思い起こすと凄く自然に思えます。
Re: No title
行徳様
もうお休みになったと思ったら別な興味に火をつけてしまったようですね。
とても素晴らしい感性をしておいでだと思います。
今の日本語にはたくさんの縄文語(もっともそのまま残しているのがアイヌ語)
から来ているものがあるといわれています。
でも誰も考えないみたいですよ。石岡にいる鈴木健さんくらいでしょうか。

原=para=paかわしも+ra低いところ →(pはhに変わっていく) 
ハラニ(中国地方)、ハリ(徳島)、ハル・パル(沖縄)、ヒラ(熊本)
r→tとなってハタ(畑)

para(ひろく)+ke(あらしめる)+i(こと、ところ)=parakei=開く、拓く
p→hやbにかわるので パラキ、ハラキ、バラキなどにいろいろなところで変わっていく。
畑(はた、はたけ)、裸(はだか)、はだける、

ヒラキ(パラキ、バラキ):開墾地、イバラキ:広く開墾したところ

~げ(ge)←ke(け)=部分 家?

地方に行くほど昔の言葉(発音)が残っているのでしょう。

これは鈴木健さんの「日本語になった縄文語」(自費出版本)によります。
No title
ROMAN様
やはりツチグモ伝説より、ひろ!という感動から
ついた地名と考えたほうがうれしいですね。

仏教の当地への伝来も霞ヶ浦経由高浜上陸という
可能性高いでしょうし、古代~飛鳥にかけては
船塚山の存在も考えれば、高浜界隈のほうが
まず先に栄えていたと考えても良さそうですね。
さて更に想像。
飛鳥時代~大化の改新前後でばらきの豪族達
のパワーゲーム勃発。
茨木寺はそれにより焼失、またはパトロンを
失い衰退?
伝説の鐘はもともとこちらにあった、あるいは
水上輸送で送られる途中だったのが、この
争乱の中で水没。

国衙、国分寺は奈良時代になり、いわば新都心を
開発する形でそれまで何もなかったところに
建設。後に鐘が見つかり、国分寺に。

防衛上の観点からも内陸に移動させた、という
こともあるでしょうね。それも争乱と関係があるとか?

色々想像できますね。

瓦に書かれた茨木寺、というのも大阪の茨木
と共通で気になりますね。

この時期ですと、仏教文化、建築には百済系
の遺民が同行していますので、こちらも
気になるところ。
大化の改新に至る仏教系対土着信仰の戦いが
この廃寺の背後に見えるようにも思えますし
遠い飛鳥の政治軍事がここまで及んでいた
と思うとぞくぞくしますね。


Re: No title
行徳様

お仕事大丈夫ですか??あまり夢中になると・・・。(笑)

> やはりツチグモ伝説より、ひろ!という感動からついた地名と考えたほうがうれしいですね。
・・・実際にそうだと思いますが、頭の固い学者の方は風土記に書いてあるのでと先に行きません。
ただ、鈴木健さんは、奴隷となった縄文人が開墾した土地で、その開くがもとではないかと言っています。
これも想像するしかないので、何でもそれらしく聞こえてしまいます。

> 仏教の当地への伝来も霞ヶ浦経由高浜上陸という可能性高いでしょうし、古代~飛鳥にかけては
> 船塚山の存在も考えれば、高浜界隈のほうがまず先に栄えていたと考えても良さそうですね。
> さて更に想像。
・・・まさにそうですよ。古官道もこちらからでしたし、舟も大切ですよね。
今は全くイメージわかないですけれど。

> 飛鳥時代~大化の改新前後でばらきの豪族達
> のパワーゲーム勃発。
> 茨木寺はそれにより焼失、またはパトロンを
> 失い衰退?
> 伝説の鐘はもともとこちらにあった、あるいは
> 水上輸送で送られる途中だったのが、この
> 争乱の中で水没。
・・・想像しすぎですよ。

> この時期ですと、仏教文化、建築には百済系の遺民が同行していますので、
・・・石岡も百済氏が上の位についていましたね。
No title
ROMAN様
これも想像しすぎでしょうが、百済滅亡後の亡命
遺民達が関東に入植していたのは確かで、埼玉の
高麗などは明らかですよね。
百済滅亡、日本全国への仏教伝播、大和朝廷による
地方支配浸透など、7世紀中盤から9世紀頭までの
流れの中で、縄文以来の土着組と、ヨソ者との
間には軋轢と融和が様々あったでしょうね。

昼休みに書いていたのですが、予定より早くお客が
来てしまい、送信できないまま夕方となり、
おっかけて送信致しました、御心配なく~。
Re: No title
行徳様
石岡には税所(さいしょ)氏が、おりますが、
この人は「百済氏」が元の名前です。(貝地の万福寺のところ)
百済が滅ぼされたときに、多くの百済の身分の高い人が
日本に逃げてきました。
この一族だと思っています。
埼玉などだけでなく石岡にもいますね。

そして、そこに平景清が生まれた? 
調べると面白そうなんだけど・・・。
No title
ROMAN様
私が最初に行った外国が韓国です。もう29年前ですが。
以来数十回出張で行き、結構言葉も話せるように
なりました。
そこで思ったこと。まず、景色が石岡界隈に
にている。(ソウル近辺ですが)平地で潅木が多く、遠くまで見渡せる。
次にイントネーションが似ている。
~ですがね、という表現がxxンデヨ、と言う
のですが、これが茨城弁そのものの音とメロディ。なんとかで~、と茨城で言うときしり上がりになりますよね。それと同じ。本当にびっくりしたと同時に自分の御先祖が
辿った道に思いを馳せました。なにも韓国が起源と言うつもりはありませんが、ウラルアルタイ語
の共通の先祖を縄文以前に持っているが故、どこ
かで近似してくるのは無理からぬことでしょう。
釜山訛りですと、語尾が’べ’だったりします
ので、こちらも’おいおい’とびっくりしました。一般に韓国人は納豆が大嫌いですが、釜山周辺には納豆に近い発酵食品があり、鍋などに
入れています。
こういうことを、今時の韓国は、全て韓国が
オリジナルだ、という議論にしてきますが、
ま、それはそれ。歴史、というより東アジア
人類史の中での変遷、移動、伝播と考えるべき
でしょう。とはいえ、百済時代として成立して
いたものがもたらされていたのも事実でしょう。
ちなみに私が韓国語しゃべると、あなたの発音
は忠清道とよく言われました。百済の北に位置していますね。
Re: No title
行徳様
やはりご先祖は韓国(百済)かもしれませんね。
もっとも、日本も先祖は何処かでつながっていることが多いでしょうが・・・。
まあ、歴史を見ていくと、韓国はまだ浅いですね。
もっと昔からの歴史があるのですが、漢流ドラマなどあまり見れないです。
日本は島国で鎖国したので独特の文化ができたと思います。
これも最近は韓国もパクリはじめていますが。
もっと仲良くできないのでしょうかね。
No title
ROMAN様
日本海の向こう側はジコチューの権化のような
かたばかりで、嘘八百当たり前。
ドラマにしても日本の一般的な感覚からは
’クサイ’とされるものばかりですね。
一部の日本人にはそれが新鮮で、韓流ブーム
ということなのでしょうが。私の韓流は26年前
まで、その後はどんどん嫌いになりました。
これもよく聞きますね、知れば知るほど、、、、と。
そういうものだと理解してお付き合いする、ということでしょう。
Re: No title
行徳様
石岡の歴史などの市の本は何も書かれていないですね。
でも、やっとわかってきましたよ。
百済、高句麗たくさん常陸国にやってきていますね。
韓国の言葉と茨城弁が似ているとも書いたの見つけました。
やはりそうだったのですね。
何故かこの辺のことはスッポリと抜けてしまっています。
もうダメですね。意識的に書かないでいるとしか思われません。
昔の三国時代などの韓国の歴史を調べるとわかりそうです。
No title
ROMAN様
この辺りのことは間違いないと思うのですが、
そうすると、いわゆる韓国起源論好きの某国(笑)
が、それ見たことか、某国に土下座しろとなりがちです。
この人たちは近代国民国家と古代の’くに’の区別ができないのがまずひとつ。もうひとつがウラルアルタイ系の広がりと進出の時期と経路、そしてそれぞれのエスニックグループの言葉がいつ今の形になったかも考えません。
縄文語やアイヌ語もウラルアルタイ、琉球語もそうですね。
分化してそれぞれの地に定着した後でも、あらたなグループが入ってきて、また新たに言葉が
融合していく、と言った過程だったはずです。
古代日本には三国志の動乱を流れ、半島経由で
入った人々もいますし、渤海方面からも来ています。当たり前ですね、アジアの東の果てですから。韓国起源論はあほかいな、と思いますが、
こういう多層的な言語であり、文化である、と言うのも日本の実像だとも思えます。
そしてこれら多様性を飲み込んでしまうのが
八百万の八百万ゆえとも。
Re: No title
行徳様

そういうことはやはり書かない方がいいということでしょね。
わかりました。でも百済・高句麗は同じ民族のようです。
日本で蝦夷征伐などにも活躍し、土地を開拓してかなり土着していったようです。
坂上田村麻呂と一緒に行った記録があります。

また韓国ではソ連との分離時に高句麗民族がコーカサス地方にわたっているようです。
モスクワの寿司店などではまがいものの着物姿で日本人を模したこの地方の人が
働いています。
身分がどうのとかいってみても、大切にされて日本に土着した人々です。
これも日本人ですね。

> 八百万の八百万ゆえとも。
・・・これも理解できますね。
No title
Roman様
蝦夷征伐という東方、北方進出は多分に遺民対策
の一面もあったのでしょうね。
高句麗も滅んでいますし、唐も乱があるなど、
動乱続いている時期でしたか、大和王朝も東アジア
情勢に揺さぶられ続けていました。
これは近世、近代から今日至るまで同じですね。
Re: No title
行徳様

百済が滅んで(600年)、すぐに高句麗も唐と新羅に滅ぼされてしまった。

倭国は百済の残民とともに白村江で戦い、敗れて(663年)百済の高官たちを日本に連れてきた。
常陸国には56人きたという。
何故こんな数値があるのに何処にも出てこないのか。
あまり知られたくないのかもしれない。
特に石岡は平家だ。藤原だなんてことに価値を見ている人がたくさんいるみたいです。

高句麗人が日本に来たのは1799人といわれており、これが関東から東北へ進出しています。
あまり話題にはしない方がいいみたいです。
ある本に水戸の「木葉下(あぼっけ)」について、古代韓国の言葉で「土器を焼く村」であると出ていました。何か意味は分かりますか?

No title
ROMAN様
古代はわかりませんが、
ぽっく、は焼く、の意味あります。
焼き飯はポックンパップと言いますね。
たこの焼いたのがナクチポックン。
この間のお祭りの屋台で出ていたトッポギ。
トッが餅、ポギがやいたもの、ポックからの
語尾変化でしょう。関西風に言うと焼いたん。

言葉の順は日本語同様ですから、あ、が土器だとすれば、それを焼く、け(また出ましたね、き、または、け)=ところ、というのなら筋は通ります。
あーぽっくーけ、で’あぽっけ’ですか。
辞書当たってみましたが、’あ’はそれらしい
物見つかりませんでした。
わっしょい、が来た=わっそよ、から変化した、
なんて言う説もあります。
こういう断片をつなぐと、韓国語起源説になって
しまうのですが。
そりゃ近代でも、たんべだののっぽだのへぼだの在日民から入った言葉もありますが、それをもって韓国起源というのもあれですね。
逆に今でも韓国ではくつ、めがね、かばんなどと
言いますが、それを持って韓国語は全て日本語起源とは言わないでしょう。

もうひとつ、関西では、二人称の’お前’を’自分’と言いますね。初めて聞いたときは面食らいましたが、韓国語でも同様にチャギ(自己)という言い方があります。この辺りは起源論ではなく、もともと同じように使っていて、日本はその後分化していったのではないでしょうか?
Re: No title
行徳様

調べていただきありがとうございます。
前にも書いたことがあるのですが、アボッケというのは
縄文語(アイヌ語)でガケを示す「ポッケ」から来ていると
とりあえず考えておきましょう。(大歩危、小歩危)
そうしないと韓国語と縄文語が同じような言葉が
出てきてしまったりしそうです。

それと、関西弁ですがこれも面白そうです。
河内にこの百済王氏(くだらのこにきし)が住んでいたようです。
ここには茨木があります。どこかでつながりそう??
No title
ROMAN様
日本語、韓国語が成立する以前のそのまた以前の
ウラルアルタイからそれぞれ同じものを継承し、
変化するものは変化。だから同じような、似たようなが多々あるのは当たり前というところでしょう。

仰せの通り茨木がまた気になる。四天王寺から長岡京を経て京都に至る妙な場所にあるのですよね。

有名な例では韓国語のナラは国の意味です。
ついでに辞書当たったら、パラ(バラ)は開く、
広いの意味があるようで。
これを当てはめると、い=この、ぱら=開いた、
き=国(蔑称、シンラではなくシラギのギというのは蔑称という韓国起源説から)となります。
これは単純すぎますが。ただ漢字音読みではなく
元々の言葉では、ウラルアルタイ全体で共通な
音が結構あるかも?

関西では謙譲語表現が標準語に比べればやや少なく言葉の上で比較的フラットな人間関係ですが、
こちらも韓国語に似ています。
あ、わが故郷もそうか!
茨城郡の成立過程には大なり小なり東アジア
情勢に対する大和朝廷の対策が関係していそう
ですね。
関東の方言は昔の機内の言葉が残っているもの、
と言うのも昔どこかで読みました。
Re: No title
行徳様

すごい発想力ですね。
これはこれだけで、何年もかけて研究する価値はありそうですが。
これも大変な労力がかかるのでしょうね。
なにしろこのような研究は学会ではあまり認めてもらえない内容のようです。
知れば知るほど石岡市史などがつまらない記載しかしていないことに
気がついて行くので困りものですね。

この茨木のことばの由来も現地のHPなどで色々と書かれていますが、
茨城県の説明と似たり寄ったりで、深いところはついていません。
この地に古墳が多いことも興味があります。
いつか調べているうちに、どこかでつながってきそうです。

韓国語も似たものがあるのは当然なのかもしれません。
日本語と言っても、何もないところから発生するはずもありません。
色々とお教えいただき感謝いたします。

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