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茨城の県名(5)-地名の変化

 茨城の県名の5回目です。

前回に万葉の頃の新治郡とその後の新治郡が場所が変化したことを見てきました。

少し、調べる必要が出てきましたので、ネットで調べた概要を以下に述べます。

1)常陸国ができる以前(ヤマトタケルなどのの3~4世紀頃):6つの小国
  
 常陸国風土記の序章(口訳・常陸国風土記より)に書かれていることによると

 「相模の国の足柄の坂(やま)より東の諸々の県(あがた)は、すべて吾妻の国といってゐたもので、常陸といふ名の国もなかった。
ただ新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の小国には、朝廷より造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されてゐた。」

と書かれています。

2)律令制時代 :常陸国となり、11郡に分けた。

 常陸国風土記の上の記載の後には、

「後に、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世に、高向(たかむこ)臣や中臣幡織田(はとり だ)連(むらじ)らを派遣し、足柄の坂より東を八国として総轄統治せしめた。その八国の一つが、常陸の国である」

となっています。

孝徳天皇は第36代天皇で、その在位は645年~654年です。大化の改新が2年目の646年です。

さて、この時の常陸国の郡(11郡)は
・「新治郡」中西部、小貝川中流・・・郡衙は筑西市(旧協和町)古都(水戸線の新治駅付近)
・「白壁郡」筑波山西北、真壁、明野 郡衙は不明
  → 8世紀末に「真壁郡」に名称変更される(郡衙は真壁郡真壁町古城・源法寺)
・「筑波郡」筑波山南西、毛野川(小貝川) 郡衙は筑波山南麓(平沢郡衙跡)
・「河内郡」現在のつくば市周辺 郡衙はつくば市金田台
 ・・・古代筑波国の一部と茨城郡の一部が分離結合して成立?
・「信太(しだ)郡」南部、霞ケ浦の西、龍ヶ崎周辺 郡衙は美浦村付近
・「茨城郡」中南部 郡衙は石岡市茨城(バラキ)付近・・・常陸国国府も石岡に置かれた。
・「行方(なめかた)郡」霞ケ浦内の半島部、潮来(板来)から北側 郡衙は旧玉造町南部
 ・・・茨城郡から分離して成立
・「香島郡」東南部、大洗町以南の鹿島灘、郡衙は鹿島神社前(鹿島市神野向)
・「那賀郡」中部、那珂川流域、郡衙は水戸市南西部(水戸市渡里)
・「久慈郡」北部、久慈川流域 郡衙は久慈郡金砂郷町薬谷・大里
・「多珂郡」北東部、日立市以北、 郡衙は高萩市付近

ここで少し北の方の群を話としては別にして、白壁郡(後に真壁郡)はその前の新治郡から7世紀後半に分割して作られたことがわかっています。

3 平安時代末期~

 奈良時代の律令制下で農地を増加させるために開墾した土地の私有を認めたため、各所に荘園(しょうえん)ができ、自立的に各地に村が発生し、村単位の自治が起こります。

戦国時代に突入し、戦国大名がこれを解体・支配することになり、荘園はその自治が失われてきました。

4 1594年 太閤検地

 豊臣秀吉が、細分化されていた郡や荘を再編したのですが、この時に古代からつかわれていた土地の名称を別な地域につけてしまったのです。
これにより、昔と異なる場所に同じ名前が発生しました。

これにより、古代の新治郡と近世以降の新治郡は全く違うところになってしまったのです。

<古代の新治郡> 律令制時代の新治郡と白壁郡(真壁郡)を両方合わせたような地域
<律令制時代の新治郡> 中西部、小貝川中流・・・郡衙は筑西市(旧協和町)古都
<近世(安土桃山以降)の新治郡> 現在の石岡市、かすみがうら市、土浦市、小美玉市の旧玉里村、つくば市の桜村が入っていました。

古代の新治郡と近世以降の新治郡が全く違っている理由はだいたいお分かりいただけたのではないかと思いますが、その他の郡については特に調べていないので、興味のある方はご自身で調べて見てください。

 本当にぐちゃぐちゃでわかりません。さて問題の茨城の地名ですが、常陸国風土記では、律令制時代になるまえに6つの小国の1つに茨城国があり、その中に茨城郷という場所があったようです。
そして、この茨城郷の場所が、大化の改新より前に那珂(那賀)国に組み込まれたので、そのまとめ中心地を現在の石岡の地に移したようです。

そして、その後大化の改新が行なわれ、常陸国が成立した時にこの石岡に常陸国の国府が置かれることになったようです。


石岡は常陸国のほぼ真ん中に位置し、北部に比べまだ大和朝廷の意向を安心して反映できる場所であったことが選定の理由だったのかもしれません。

石岡の「鹿の子(かのこ)遺跡」が高速道路建設時に発見されたものによると、ここに大規模な工房の跡が見つかりました。
鉄製品などを製造しており、蝦夷に対する軍事工場的な役割もしていたようです。
年代としては749年~795年頃の年代が判別できるものがたくさん出土されています。

このため、奈良時代以降の常陸国の中心都市であったのですから、石岡はこの事をもっとアピールして、復権をしてほしいものです。

最初に書いた「茨城の県名発祥の地」などという曖昧な内容でアピールするのは良くないと思います。

調べるのが中途半端になってしまいました。
茨城郡も途中で「東茨城郡」「西茨城郡」ができ、その後、多くが市などの名前になると、今度は古代の茨城郡とは全く関係ないところに(東茨城郡の中の長岡町、川根村、上野合村、石崎村と鹿島郡の沼前村が昭和30年以降に合併して)「茨城町」が誕生してしまいました。

古代の茨城郡は現石岡が中心の中南部がその地域でしたので、後の「東茨城郡」「西茨城郡」とは全く違っていたのです。

先の合併で土浦市と合併した「新治村」がありましたが、この村は1955年にこの村の名前になりましたが、古代の新治郡の名前を使ったので、古代の歴史には直接関係ありません。

次回(6)は茨城の名前が最初に使われたとする場所を紹介します。

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茨城の県名 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/10/24 07:06
コメント
No title
おはようございます。
いよいよあそこの登場ですね。楽しみにしてます。
父が亡くなった時戸籍を調べたら、新治村となってました。協和町になって駅周辺を新治と名付けたようです。50号沿いに新治廃寺跡、近くに郡衙跡があります。今度行ってみたいと思います。
お早うございます。
石岡市、奈良時代の頃 茨城県の中心だったとは 石岡市 歴史的にも凄い誇りです!13000年、あのせんと君に負けないくらいアピールしたいですぅ~
Re: No title
troyさん

新治はたくさんありますね。その中で一番古いのが協和の新治ですね。
古臭そうな名前だけれど、あちこちに使われ、小学校も同じ名前では混乱します。
そちらの方が詳しいでしょうからまた機会があったら教えてください。

> いよいよあそこの登場ですね。楽しみにしてます。
ばればれですね。でもあまり中身が無いので期待しないで。お願い!
Re: お早うございます。
みーさん

> 石岡市、奈良時代の頃 茨城県の中心だったとは 石岡市 歴史的にも凄い誇りです!13000年、あのせんと君に負けないくらいアピールしたいですぅ~
・・・歴史にも詳しい”みーさん”が知らなかったのですか?
ではあまり知られていないのですね。
「国府跡」が石岡小学校のところに昨年の5月に正式に認定されて、国分寺、国分尼寺跡と3個所が国の史跡に登録されています。
もっともっとPRも必要ですね。市民のモチベーションUPは必須ですから・・・。
これからも宜しく。

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