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イベント広場の変遷(2)

 さて、昨日は熊岡製糸と石岡製糸が操業を中止したところまで書きました。
この石岡製糸や熊岡製糸は共に蒸気機関などを使った器械製糸会社で、石岡製糸では女工員150人、熊岡製糸では女工員200人位までになったようです。
また興味深いことは石岡製糸の社長は志筑の家老横手家に生まれ、廃藩置県後、養蚕農家をはじめています。
石岡の歴史にはあまり名前が出てきませんが、隣りの志筑の殿様は本堂家で、秋田からやってきますが、江戸にいてこちらは横手家老が一手に引き受けていたようです。
幕末に活躍した伊藤甲子太郎・鈴木三木三郎兄弟も志筑の出身です。
隣り同士ですから歴史ももう少し一緒に語り合わないと分からなくなってしまいます。
さて、石岡の製糸会社が傾いたところへ、もっと大手の製糸工場が進出してきます。
それが大正六年の長野県岡谷の大製糸家小口組で、熊岡製糸の工場の後は、この小口組の石岡工場となります。
石岡からみれば、外部資本に乗っ取られたようなものですね。
当時、長野県岡谷市は群馬県富岡市などと並んで日本の製糸産業をリードしてきました。
今も昔の建物などを文化財に登録し世界遺産申請などをしているようです。
石岡にもこの小口組の大きな繭かごの積まれた写真が残っています。
生絲で絹を生産し、ほとんどは横浜から海外向けとなり日本の発展に貢献していきました。
 しかし、昭和2年に金融恐慌が起こり、昭和4年に石岡中町を中心とした大火災が発生し、同じ年の10月に政界大恐慌がおこります。
多くの産業が倒産に追い込まれ、銀行も倒産していきました。
この頃のことはわかりませんが、多くの製糸所も自然と淘汰されたものと思います。
さて小口組石岡工場はその後も操業を続けますが次第に経営は悪くなっていったようです。
そこにやってきたのが神戸で生糸の販売会社から製糸業に着手した「神栄」です。
神栄は昭和2年の金融恐慌で経営困難となった京都の綾部製糸をそっくり引き継いでその後の世界恐慌などの波で破綻に追い込まれて行った全国の製糸会社を傘下に収め拡張していったのです。
なぜ拡張できたのかは、また別途に譲るとして、小口組の石岡製糸所が神栄に変わったいきさつは、神栄八十年史によると、大蔵大臣だった井上準之助の勧めによるといわれているようです。(井上準之助はその後昭和七年に銃弾に倒れます)
他の製糸会社が神栄の傘下となる中、ここの石岡製糸所は神栄の直営の工場となったのです。
さて、この続きはまた明日にします。

製糸産業 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/19 19:30
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