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葦原の鹿

さて、昨日、奈良の鹿が鹿島の鹿を連れて行ったもので、藤原氏の祈願所である奈良の春日大社はこの鹿島神宮の神を奈良に分霊したものだと書きました。

今日はその奈良の鹿に絡む話ですが、長ったらしいので、興味のある人だけ読んでくださいね。

奈良の都で春日大社を建て、勢力を拡大した藤原氏が日本の歴史を数百年間にわたって、封印してしまったので謎解きゲームのようなことが必要になってきているように思われます。

石岡の歴史についても、古墳時代は何もわかっていません。歴史と言うのがこの風土記からはじまるのです。

常陸国風土記の編纂者として名前があがっている「藤原宇合(うまかい)」は藤原氏の基を築いた藤原不比等の三男で、719年に25~26歳で常陸国守として赴任し、723年まで滞在しました。
みやこに戻って翌年には蝦夷で反乱が起こり、鎮圧のために陸奥国に大将軍として出かけています。

この宇合が赴任を終えて戻る時にこの地の娘から贈られた歌が石岡小学校の敷地に置かれています。

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「庭に立つ 麻手(あさで)刈り干し布曝(さら)す 東女(あづまをみな)を忘れたまふな」(藤原 宇合(うまかひ)大夫(まへつきみ) 、任 遷(うつ)りて京に上る時に 常陸娘子(ひたちのをとめ)の贈る歌)

(麻を、刈ったり干したり晒したりしていた東国の女を忘れないでくださいの意見)

この頃からこの地の歴史が始まり1300年の歴史と言われるゆえんですが、この前はというと皆考古学とみなされて、その間の繋がりが無くなってしまっているのです。
ここに藤原氏が封印した歴史が眠っているのでしょう。

 さて、今日の話の「葦原(あしはら)の鹿」については、この歴史から脱落してしまった世界が書かれているように思います。歴史の学問から外されてしまった世界のようです。

 実は、これは茨城県の県名の由来を書いてきた時に気になった項目の一つです。

 「常陸国風土記」で、黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなって戻って埋葬された地とされる信太郡(しだぐん)について以下のような不思議なことが書かれています。

「諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」(口訳・常陸国風土記)

そのまま解釈すれば、
「葦の茂るような湿地帯に棲む鹿の肉は下総などの鹿とは味が違う(まずい)ので、狩りをして全滅させられることもないだろう。」
というようなことでしょうか。

このすぐ前には、この地(信太郡あたりの地)のことを「葦原の中津の国」とも表現されていますので、この信太郡の地の鹿のことを書いていることになります。

古事記や日本書紀では「葦原中国(あしはらのなかつくに)」はこの日本国の最初の国だとされており、それが出雲にあり、これを譲り受けることで、今の天皇制の国家が出来上がったとされています。

従って、何故常陸風土記ではこの信太の地を「葦原の中津の国」と呼んだのでしょうか。
また、黒坂命がこの地に戻る時に「日高見の国」と書かれているのでしょうか?

「日高見国(ひたかみのくに)」は辞書をひくと、「日本書紀に登場する現在の東日本(一説では東北地方、岩手県内の北上川流域)にあったとされる蝦夷の国である」と書かれています。

これは、景行天皇27年(4世紀初め頃?)、武内宿禰が東国を巡視し、「東に日高見国がある。蝦夷が住んでおり、土地は肥沃で広大である。征服すべきである」と報告したという記載が基になっています。

そして、ヤトタケルが派遣されて、統一されることになるのです。

ヤマトタケルは実在したかははっきりしませんが、黒坂命はそれより数十年前の時代で、常陸国の北部まで大和朝廷の勢力を拡大した人物です。

従って、この日高見国(ひだかみのくに)は、蝦夷の国ではなく、蝦夷と接する大和朝廷の最前線の安定した(制覇されて完全に自分たちの勢力範囲になった)地域を指す言葉と解釈してよさそうです。

黒坂命の時代はこの霞ケ浦を渡る手前の「信太郡」の地域です。
そして、その後常陸国全体がこの日高見国になり、この地を「常陸」と呼ぶようになったものと思います。

(「常陸」の語源は常道、直道など平地がつながっている様からきており、東北(蝦夷地)を道奥と書いていたものが、陸奥と書くようになり、常陸になったというのが、今では定説のようですが、これは承知の上で、このように考えてもいいのではないかということです)

その更にもっと前については、面白い記事を読みました。

和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺「道成寺」に残る古話「安珍・清姫伝説」の話を風の会の会報(こちら2P目から)に書かれた内容です。

道成寺は701年に建立されてた大変古い寺で、ここに伝わるこの古い言い伝えが歌舞伎や能で演じられてきているのは大変興味深いと感じます。

要するに、この日高郡の地名こそが、昔この地(和歌山県)が日高見国であって、大和に入るのに苦戦したところをヤタガラスがでてきて道案内して、無事にヤマトの国に入ることができたことにつながるって来るようです。



さて、常陸国風土記では、続けて、

「榎(え)の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神(今の鹿島神宮)を遥拝し、そののちに国に入ることができる。」(注:駅家(うまや)は律令制時代に整備した官道の駅にあたるもので、馬を数台常駐させ、官史などの往来時に宿や馬の交換などを行なっていた場所です。)

と書かれているのです。

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(信太(しだ)郡は常陸国の入口でした。ここから流海(香取の海)=霞ケ浦を渡っていたのです。)

これは、意味もわからないので適当に読み飛ばしていましたが、考えて見るととても意味深な言葉に思えます。

・ 葦原中国(あしはらのなかつくに)というのは、日本神話に登場するこの日本の始まりの国です。
そしてこれは出雲にあったとされています。(国譲りの話に出てくる)

・ 国譲りでは鹿島神宮神(タケミカズチ(建御雷神))と香取神宮神(フツヌシ(経津主神))が出雲に赴き、強引に国譲りを成し遂げます。

・ 鹿島神宮と香取神宮は、伊勢神宮を合わせた三社のみが昔は神宮と言う特別な名で呼ばれています。

・ 鹿島神宮は常陸国の一宮、香取神宮は下総国の一宮です。

・ この信太(しだ)郡は、この平安の時代以前は「常陸国」への入口でした。大昔の古東海道はここから霞ケ浦(流海・香取海)を舟で渡っていたのです。
渡った先はかすみがうら市の旧出島の牛渡(うしわた)辺りですが、一部は行方(なめかた)の方にも渡っていたかもしれません。

ヤマトタケルの伝説が対岸の行方に多いのは、この黒坂命が自分たちの勢力範囲と出来ていなかったところがこの地に残されていたのでしょう。
そして数十年後のヤマトタケルの時代になって、この地から舟で行方へ渡って、こちらにいた人々を服従させていったと考えるのがもっとも考えられることどと思われます。

そして以前書いた「清玉井」「現原の丘」などの話になっていったものと考えられます。

・香取神宮は「物部氏」。鹿島は「中臣氏」。そして鹿島の名前は、昔は香島と書いていたが、何時しか鹿島に変わっています。

中臣(なかとみ)氏は鹿島神宮の神官として、神と人との間をとりもつ(中をとりもつ人で「中臣」)占いの氏族でしょう。
九州が起源とされる皇族とかかわりを持つ古族「多(おお)氏」の系列です。

香取神宮の経津主神は物部氏が海洋技術に長けていたのでしょう。「舵取り=香取」でしょう。

そして、藤原氏の祖「中臣(なかとみ)氏」の神=タケミカズチ がこの物部(もののべ)を取りこんで行ったのでしょうね。そして、あたかも自分の仲間と言うように、一緒に神として祀った。

常陸国の入口を押さえた二つの神社はこんな意味合いがあったのでしょう。

冒頭で述べた「葦原の鹿」と言うのは、まだ鹿島(=香島)が香取を支配できていなかった不安定な時代のことを暗示しているのかもしれません。


ああ、なんだかこんがらがってきましたね。このパズルを解いてほしい!!

でもハズルを解いてしまうと1300年封印してきたパンドラの箱を開けてしまうかもしれません。

なんか怖いですね。これは程々にして、今度は写真いっぱいの記事に戻しましょう。

長ったらしい文を最後までお読みいただきありがとうございました。

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茨城の県名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/11/06 12:03
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