佐竹寺(常陸太田)(1)
西山荘の帰りに佐竹寺に寄ってきました。
もちろん私がこの寺に寄ろうと思ったのは、ここが常陸国を統一した武将佐竹氏の菩提寺だったからです。
また、この佐竹氏が秋田に飛ばされてしまったのですが、源氏の直系として名前が刻まれていたからでもあります。
常陸国における源氏は新羅三郎(源)義光(しんらさぶろうよしみつ)が常陸介としてやってきたことに始まります。
この義光は八幡太郎義家の弟であるが笙(しょう)の名手であり、この笛についてのエピソードなども昔よく軍記物の昔話などに登場していたのを思い出します。
この義光の孫の昌義(まさよし)が1133年に常陸国佐竹郷(さたけごう・現茨城県常陸太田市)に居住し“佐竹氏”を名乗ったのにはじまるとされています。
この源義光の子供には常陸の武田郷に住んだ武田氏が甲斐に移って甲斐武田氏となっています。
佐竹氏は、その後、奥7郡を支配していましたが源頼朝の挙兵時に平家方に加わり所領を没収されてしまいます。
室町時代にようやく常陸太田城へ復帰し、1189年に秀義が源頼朝の奥州征伐に参加し、無印の白旗で参戦していたため、馬印に月印五本骨軍扇を与えられ、家紋となりました。(月丸扇とも、一部には日の丸扇とも呼ばれています。)

佐竹寺山門。
この佐竹寺の創建については、985年に、現在地から西北西に700mくらい離れたところに元蜜上人により開山され、「観音寺」と称していたといいます。
先に述べた新羅三郎義光の孫の昌義が初代佐竹氏を名乗り、1177年にこの寺を祈願所と定めて繁栄していったと伝えられています。

1543年に寺は兵火で焼失し、3年後に佐竹家18代義昭によって現在の場所に再建されたものだそうです。


この本堂は明治39年に国指定重要文化財に指定されています。
とても見ごたえのある造りです。

この続きは明日へ。
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もちろん私がこの寺に寄ろうと思ったのは、ここが常陸国を統一した武将佐竹氏の菩提寺だったからです。
また、この佐竹氏が秋田に飛ばされてしまったのですが、源氏の直系として名前が刻まれていたからでもあります。
常陸国における源氏は新羅三郎(源)義光(しんらさぶろうよしみつ)が常陸介としてやってきたことに始まります。
この義光は八幡太郎義家の弟であるが笙(しょう)の名手であり、この笛についてのエピソードなども昔よく軍記物の昔話などに登場していたのを思い出します。
この義光の孫の昌義(まさよし)が1133年に常陸国佐竹郷(さたけごう・現茨城県常陸太田市)に居住し“佐竹氏”を名乗ったのにはじまるとされています。
この源義光の子供には常陸の武田郷に住んだ武田氏が甲斐に移って甲斐武田氏となっています。
佐竹氏は、その後、奥7郡を支配していましたが源頼朝の挙兵時に平家方に加わり所領を没収されてしまいます。
室町時代にようやく常陸太田城へ復帰し、1189年に秀義が源頼朝の奥州征伐に参加し、無印の白旗で参戦していたため、馬印に月印五本骨軍扇を与えられ、家紋となりました。(月丸扇とも、一部には日の丸扇とも呼ばれています。)

佐竹寺山門。
この佐竹寺の創建については、985年に、現在地から西北西に700mくらい離れたところに元蜜上人により開山され、「観音寺」と称していたといいます。
先に述べた新羅三郎義光の孫の昌義が初代佐竹氏を名乗り、1177年にこの寺を祈願所と定めて繁栄していったと伝えられています。

1543年に寺は兵火で焼失し、3年後に佐竹家18代義昭によって現在の場所に再建されたものだそうです。


この本堂は明治39年に国指定重要文化財に指定されています。
とても見ごたえのある造りです。

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重厚感と古さを感じられる山門ですね
(仁王様も)
いつも思うのですが、こういう場所の
札は、許可を得て何かの祈願の意味で
貼ってあるのでしょうか・・・?
こんにちは。
少し写真ブログに戻りましたでしょ。
古きものに何処か重厚な感じがして確かにいいですね。
> いつも思うのですが、こういう場所の
> 札は、許可を得て何かの祈願の意味で
> 貼ってあるのでしょうか・・・?
江戸時代にこの「千社札」を貼るのが流行ったらしいです。
名前を書いた札(紙)を貼ると貼ってある間効力が続くと思われたようです。
基本的には寺や神社で「御朱印」をもらって札を貼るのがルールだったようですが、
こっそり貼ることも多々あったと思います。
相撲の文字などと同じ江戸文字で名前や屋号を書いて(木版画として墨で刷って)貼ったようです。
それが、名刺代わりのあいさつや格好良く見せようとデザインに凝って色や絵を描いて寺とは関係ないところにも使われていった。いまでも携帯ストラップなどでもたくさんあるようですよ。