於岐都説神社(行方市)
さて、今日紹介するのは、数日前に記事にした霞ケ浦の砂浜「ほほえみの丘」のすぐ近くに鎮座していた「於岐部説神社」です。
恐らく、これは街道沿いにあり、ここを通る人は車の中から一瞥することはあっても、車を止めてまでして見る価値はないと思い通り過ぎるだけだと思います。
それほど特別なものはないと思うに違いありません。
私も今までなら眼にもとめずに通り過ぎていたと思いますが、この時は何故かなんだろうと車を脇道に止めて歩いて見に行きました。
また、車を止めたので近くの浜辺「ほほえみの丘」の存在も知ったわけです。
門に掲げられた額に書かれている文字が読めずに写真だけ撮って後で調べてみました。
「於岐都説神社=おきつせじんじゃ」と読むようです。

しかし、於岐都説神社(おきつせじんじゃ)っていったって何者だという感じですが、これも調べ始めたら意外に面白いのです。
どんどん広がっていきますがイメージがまとまりません。ブログにも書ききれないようになっていきます。
そこで少しだけ内容を紹介しておきたいと思います。
「於岐都説神社」は西暦901年に成立した歴史書「三代実録」に「於岐都説神」の記述があり、この於岐都説神は今の「息栖(いきす)神社」のことだと新編常陸国誌などに記載されているといいます。
この息栖神社は「鹿島神宮」「香取神宮」と合わせて「東国三社」と言われるほど有名な神社です。
今は他の二社に比べると、交通の便も悪く訪れる人は少ないようですが、とても由緒のある神社です。

しかし、この写真の「於岐都説神社」は行方市沖洲(おきす)という場所にあります。
一方息栖神社の名前の由来は、古くは「於岐都説」(オキツセ)と書き、「沖洲の津」「沖洲瀬」の意味だったとありました。まさに沖洲ですね。

息栖神社の祭神は「岐神」(ふなどのかみ)と「鳥船命」が祀られており、私は当然海運に長けた民族が東国にわたってきた時に建てられたものだと思っていました。
これは間違ってはいないのだろうけれど、もう少し面白い事柄が出てきました。
実はこの東国三社(鹿島・香取・息栖)を結ぶと、きれいな直角三角形になり、霊的なトライアングルとしてレイライン(太陽の道)研究などの人達には有名な場所となっているのですが、これはどうやら人工的に考えて作られたようなのです。
この息栖神社は実は最初は、もう少し南東にある「日川地区」にあった神社を大同二年(807年)に遷宮されて現在地に建てられたものなのだといいます。
これは人的に位置を正確に測って(太陽の方向などで)移されたということになります。
もう一つ気になることは「常陸国の三蚕神社」の一つ「蚕霊神社」がこの神栖町日川にあることです。
そして、もう一つの三蚕神社の日立市川尻町にある「蚕養神社」はむかし「於岐都説神社」と呼ばれていたというのです。
前に紹介した筑波山麓の「蚕影神社」(こちら)を含めたこの「三蚕神社」はすべて豊浦と名前のある地にたっており、すべて金色姫伝説が伝わっているのです。
まあ、これも良く調べると「インドから豊浦の地に到着したという「金色姫伝説」の話が先にあって、これらの養蚕神社が豊浦とかかわっていて、それぞれがこの伝説を自分のところと主張していることなのかもしれません。
於岐都説(おきつせ)が養蚕に関係しているのではなく、名前の由来は川の中州のような「沖洲」に建てられた神社を呼ぶのかもしれません。
でも何処かに関係がありそうな気がしています。

東国三社と行方市沖洲の「於岐都説神社」の位置関係。
この神社のすぐ近くに「三昧塚(さんまいづか)古墳」があり、意外にこの神社も由緒のあるものかもしれないですね。
東国三社や常陸国の三蚕神社などについてはいろいろ調べたいことがたくさんあります。
時間があれば少しずつ紐解いてみたいです。
一つの何にもなさそうなことから話が広がる時はとても楽しいのですが、話が発散して、短い時間では表面的なことしか書けませんね。
でもそのうち他の記事を書いていてつながってくるかもしれないので気長に行きたいと思います。
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恐らく、これは街道沿いにあり、ここを通る人は車の中から一瞥することはあっても、車を止めてまでして見る価値はないと思い通り過ぎるだけだと思います。
それほど特別なものはないと思うに違いありません。
私も今までなら眼にもとめずに通り過ぎていたと思いますが、この時は何故かなんだろうと車を脇道に止めて歩いて見に行きました。
また、車を止めたので近くの浜辺「ほほえみの丘」の存在も知ったわけです。
門に掲げられた額に書かれている文字が読めずに写真だけ撮って後で調べてみました。
「於岐都説神社=おきつせじんじゃ」と読むようです。

しかし、於岐都説神社(おきつせじんじゃ)っていったって何者だという感じですが、これも調べ始めたら意外に面白いのです。
どんどん広がっていきますがイメージがまとまりません。ブログにも書ききれないようになっていきます。
そこで少しだけ内容を紹介しておきたいと思います。
「於岐都説神社」は西暦901年に成立した歴史書「三代実録」に「於岐都説神」の記述があり、この於岐都説神は今の「息栖(いきす)神社」のことだと新編常陸国誌などに記載されているといいます。
この息栖神社は「鹿島神宮」「香取神宮」と合わせて「東国三社」と言われるほど有名な神社です。
今は他の二社に比べると、交通の便も悪く訪れる人は少ないようですが、とても由緒のある神社です。

しかし、この写真の「於岐都説神社」は行方市沖洲(おきす)という場所にあります。
一方息栖神社の名前の由来は、古くは「於岐都説」(オキツセ)と書き、「沖洲の津」「沖洲瀬」の意味だったとありました。まさに沖洲ですね。

息栖神社の祭神は「岐神」(ふなどのかみ)と「鳥船命」が祀られており、私は当然海運に長けた民族が東国にわたってきた時に建てられたものだと思っていました。
これは間違ってはいないのだろうけれど、もう少し面白い事柄が出てきました。
実はこの東国三社(鹿島・香取・息栖)を結ぶと、きれいな直角三角形になり、霊的なトライアングルとしてレイライン(太陽の道)研究などの人達には有名な場所となっているのですが、これはどうやら人工的に考えて作られたようなのです。
この息栖神社は実は最初は、もう少し南東にある「日川地区」にあった神社を大同二年(807年)に遷宮されて現在地に建てられたものなのだといいます。
これは人的に位置を正確に測って(太陽の方向などで)移されたということになります。
もう一つ気になることは「常陸国の三蚕神社」の一つ「蚕霊神社」がこの神栖町日川にあることです。
そして、もう一つの三蚕神社の日立市川尻町にある「蚕養神社」はむかし「於岐都説神社」と呼ばれていたというのです。
前に紹介した筑波山麓の「蚕影神社」(こちら)を含めたこの「三蚕神社」はすべて豊浦と名前のある地にたっており、すべて金色姫伝説が伝わっているのです。
まあ、これも良く調べると「インドから豊浦の地に到着したという「金色姫伝説」の話が先にあって、これらの養蚕神社が豊浦とかかわっていて、それぞれがこの伝説を自分のところと主張していることなのかもしれません。
於岐都説(おきつせ)が養蚕に関係しているのではなく、名前の由来は川の中州のような「沖洲」に建てられた神社を呼ぶのかもしれません。
でも何処かに関係がありそうな気がしています。

東国三社と行方市沖洲の「於岐都説神社」の位置関係。
この神社のすぐ近くに「三昧塚(さんまいづか)古墳」があり、意外にこの神社も由緒のあるものかもしれないですね。
東国三社や常陸国の三蚕神社などについてはいろいろ調べたいことがたくさんあります。
時間があれば少しずつ紐解いてみたいです。
一つの何にもなさそうなことから話が広がる時はとても楽しいのですが、話が発散して、短い時間では表面的なことしか書けませんね。
でもそのうち他の記事を書いていてつながってくるかもしれないので気長に行きたいと思います。


日立市の小木津町にも奥津説神社(おきつせ神社)があります。読み方は同じですね。
何かつながりがあるのでしょうか?
> 日立市の小木津町にも奥津説神社(おきつせ神社)があります。読み方は同じですね。
> 何かつながりがあるのでしょうか?
こんにちは。
そうですか、私はこの神社を知りませんでした。
日立市日高町(小木津村)の「澳津説神社」の事だと思いますが、読みはやはり「おきつせ」と読むんですね。
「おくつ」と振り仮名を振られたのもありましたが、私は詳しいことは知りません。
でもとても興味がわいてきますね。
「小木津」の地名の名前が先なのか、神社名が先なのか?
日高の地名は日高見を表わしているのか? 和歌山の日高地方などからの名前の変遷は?
常陸国風土記には昔、美浦村あたりを日高見と呼んでいたという記述が在りますね。
ただ、「澳津」=「奥津」と「奥津城」の言葉がダブって聞こえてきます。
奥の津というと、津(湊)の奥の意味にもなりそうですが・・・・ この辺りに誰かの「奥津城」があったのか?
大甕神社の宿根石に閉じ込められた星のカカセオとの戦がいつ頃なのか?
その頃はこの日高地方が日高見国なのでしょうか?
想像すると楽しいですね。
何か分かったらお知らせください。