雨引観音(桜川市)2
今日は雨引観音の続きです。
1400年以上の歴史を持つこの雨引観音(あまびきかんのん)について、少し歴史的なことも書いておきます。
ここは安産、子育て、延命祈願のほか、昔はやはり雨乞いの祈願所でもありました。

雨引山に登る山道で。

雨引観音(楽法寺)も古木が多い。花の寺としても有名らしいが、やはり歴史的な重みを感じる。

入口にある仁王門(2階建ての楼門)です。最初は建長6年(1254)に建立され、鎌倉時代の仏師康慶 の彫刻した仁王尊が祠られています。
しかし門は焼失して、天和2年(1628)に再建されたものです。
門の上の彫刻は見事です。宝永(1704)年中無関堂円哲が彫刻したものと伝えられ、日光の東照宮を少し思い起こします。
家康とこの雨引観音との関係が何かありそうです。徳川幕府によって庇護されたようです。

向かって左側が「多宝塔」で江戸時代の嘉永六年 1853年の製作です。高さは22m。
右側が本堂(観音堂)で宝永七年 1710年建立されたものです。共に県指定の文化財です。
中央は本堂の入口で、ここから入り渡り廊下を歩いて本堂に行きます。
この雨引観音(楽法寺)は6世紀末ごろ(寺の説明書では587年)に中国梁の国人の法輪独守居士によって開かれたと伝えられ、本尊の延命観世音菩薩は国指定重要文化財に指定されています。
天平時代には光明皇后の御願によって安産を祈願し勅願寺となり、建長6年(1254)後嵯峨天皇の皇子宗尊親王により三重塔・仁王門・鐘楼堂・客殿・不動堂が建立されたが、兵火で焼けてしまい。再建されています。
この時本尊の観世音菩薩は自ら大木の陰に身を移して難を逃れたと伝えられています。
この本堂などの焼けた後に謎の覆面の職人たちが集まって仮本堂が17日間で完成したと伝えられ、この職人たちを指揮していたのが鬼の面をかぶった白馬にまたがった鬼神であったことから、この寺の「マダラ鬼神祭」が始まったといわれています。

仁王門の近くに立つ「地蔵堂」です。建長6年(1254)の建立した建物で、内部には享保年中(1715)仏師無関堂円鉄(円哲)が彫刻した地蔵菩薩(子安地蔵)が安置されています。

本堂のある境内の高台より筑波山を望む。左下に見えるのは「仁王門」右側に見えるのは「鐘楼堂」です。
この鐘楼堂は建長6年(1254)に建立されたが、焼失し天和2年(1682)に再建。しかしこれも大破したため、文政13年(1830)に再度建立したものだそうです。

「東照山王権現社殿」
社殿内から徳川家康神像と徳川将軍歴代(十四代)の位牌や東照大権現宮と山王権現宮の標札が発見されています。
寺伝によれば、慶長18年(1613)5月に徳川家康公に寺領として朱印百五十石を賜り、家康の死後、寛永2年(1625)に家康公を祀るため、境内に東照大権現(徳川家康の神号)の祠堂を建立したといいます。
その後、享保12年(1727)に仏師円哲により現存の東照宮を再建し、地主大権現として家康家光を合祠したとのことです。
この雨引観音(楽法寺)にきて、その彫刻などや色使いなどから日光東照宮を思い浮かべたのも頷けます。
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1400年以上の歴史を持つこの雨引観音(あまびきかんのん)について、少し歴史的なことも書いておきます。
ここは安産、子育て、延命祈願のほか、昔はやはり雨乞いの祈願所でもありました。

雨引山に登る山道で。

雨引観音(楽法寺)も古木が多い。花の寺としても有名らしいが、やはり歴史的な重みを感じる。

入口にある仁王門(2階建ての楼門)です。最初は建長6年(1254)に建立され、鎌倉時代の仏師康慶 の彫刻した仁王尊が祠られています。
しかし門は焼失して、天和2年(1628)に再建されたものです。
門の上の彫刻は見事です。宝永(1704)年中無関堂円哲が彫刻したものと伝えられ、日光の東照宮を少し思い起こします。
家康とこの雨引観音との関係が何かありそうです。徳川幕府によって庇護されたようです。

向かって左側が「多宝塔」で江戸時代の嘉永六年 1853年の製作です。高さは22m。
右側が本堂(観音堂)で宝永七年 1710年建立されたものです。共に県指定の文化財です。
中央は本堂の入口で、ここから入り渡り廊下を歩いて本堂に行きます。
この雨引観音(楽法寺)は6世紀末ごろ(寺の説明書では587年)に中国梁の国人の法輪独守居士によって開かれたと伝えられ、本尊の延命観世音菩薩は国指定重要文化財に指定されています。
天平時代には光明皇后の御願によって安産を祈願し勅願寺となり、建長6年(1254)後嵯峨天皇の皇子宗尊親王により三重塔・仁王門・鐘楼堂・客殿・不動堂が建立されたが、兵火で焼けてしまい。再建されています。
この時本尊の観世音菩薩は自ら大木の陰に身を移して難を逃れたと伝えられています。
この本堂などの焼けた後に謎の覆面の職人たちが集まって仮本堂が17日間で完成したと伝えられ、この職人たちを指揮していたのが鬼の面をかぶった白馬にまたがった鬼神であったことから、この寺の「マダラ鬼神祭」が始まったといわれています。

仁王門の近くに立つ「地蔵堂」です。建長6年(1254)の建立した建物で、内部には享保年中(1715)仏師無関堂円鉄(円哲)が彫刻した地蔵菩薩(子安地蔵)が安置されています。

本堂のある境内の高台より筑波山を望む。左下に見えるのは「仁王門」右側に見えるのは「鐘楼堂」です。
この鐘楼堂は建長6年(1254)に建立されたが、焼失し天和2年(1682)に再建。しかしこれも大破したため、文政13年(1830)に再度建立したものだそうです。

「東照山王権現社殿」
社殿内から徳川家康神像と徳川将軍歴代(十四代)の位牌や東照大権現宮と山王権現宮の標札が発見されています。
寺伝によれば、慶長18年(1613)5月に徳川家康公に寺領として朱印百五十石を賜り、家康の死後、寛永2年(1625)に家康公を祀るため、境内に東照大権現(徳川家康の神号)の祠堂を建立したといいます。
その後、享保12年(1727)に仏師円哲により現存の東照宮を再建し、地主大権現として家康家光を合祠したとのことです。
この雨引観音(楽法寺)にきて、その彫刻などや色使いなどから日光東照宮を思い浮かべたのも頷けます。


ネタ違いですが、アド街、古河、ご覧になってます?
正直うらやましい。行徳住民としても。
アド街は見ていないのですが、今日古河をやったのですね。
私のブログの記事下にある「茨城情報」のブログランキングで
いつも1位になっているのが「古河っ子ブログ」で、最近になって
もう一つ「Kogakko's Memo」というのが上位に入ってきました。
このように熱心なところはそれなりにとりあげられるようになるものですね。
私などではなく、もう少し若い目で石岡もとりあげていく人が増えてくれば
きっと古河に追い付き追い越すでしょうが、その芽が見えません。
残念ですね。
せいぜい、わたしのところが無いよりはまし程度にはなっていると思います。
是非クリックお願いします。
数人が毎回クリックしてくれたらすぐに上位に入ります。
ところで階段上の門は今年の夏工事中でしたが終わってましたか?地震の影響なのでしょうか。ちょっと心配でした。
あと昨日のミイラですが、正しくは即身仏らしいです。訂正しておきます。
おはようございます。
何処もそうなんですが人が多い時にはそれなりの魅力はありますが
歴史的な建造物などはじっくり見られません。
是非天気の良い平日の混まない時をねらって行ってみてください。
私も後から調べだしたら見落としたところがたくさん出てきました。
何度かいかないとダメなようです。
> ところで階段上の門は今年の夏工事中でしたが終わってましたか?地震の影響なのでしょうか。
今は工事中のところはありませんでした。被害もあまり大きくはなかったようです。
> あと昨日のミイラですが、正しくは即身仏らしいです。訂正しておきます。
連絡ありがとうございます。