縄文海進
律令制の始まった頃から全国的に七つの官道が整備されました。
これは主に各地と都との連絡や租庸調の徴収などのために必要とされたようです。
大化の改新(646年)以降、畿内から東には三つの官道が整備されました。
その道は各国の国府を繋いでいたのです。奈良時代初頭にはかなり整備されていたと思われます。
海寄りを進むのが東の海道で東海道(中路)
本州の真中を走る東の山道で東山道(中路)
日本海側を越後(または佐渡)まで行く北陸道(小路)
東山道は陸奥国国府(多賀城市)まで続き、東海道は常陸国国府(石岡市)まで続いていました。
そして16km毎に駅家(うまや)をおいてそこに馬(中路は10疋、小路は5疋)を置き、各国府との連絡に馬で乗り継いで連絡する仕組みができていたようです。
中路となった東海道、東山道は幅員が6~12m位あったようです。
東京の所属する武蔵国は771年に東山道の国から東海道の国に編入されたのです。
これは東京湾の下町から埼玉南部にかけて大きな湿原が存在しており、最初の頃には東海道も武蔵国は通らずに東京湾を船で渡っていました。
また東山道も武蔵国国府(東京都府中市)を通ると全くの時間ロスになっていたといいます。
このため、武蔵国は東海道に組みかえられたというわけです。
また甲斐国(国府:笛吹市)も東海道に組み込まれていますが、箱根を越えて山中湖~河口湖を経由して峠越えで行きますので武蔵国を通らなくても良かったのでしょう。
この武蔵国が東海道に組み込まれてから色々なルートができてきたように思います。
武蔵府中から松戸などとがつながるルートも出来てきたのではないかと思います。
しかし、10世紀から11世紀には廃れてしまい、幾つもの生活道路が出来て、鎌倉時代に鎌倉街道と呼ばれる各地の道とダブってきてしまったようです。
しかしこの古代の官道のルートを理解する上で、この縄文海進を少し理解しておいた方が良いと思います。
あまりにも現在と地形の様子が違ってくるからです。
今から6千年ほど前が海面上昇のピークと言われていますが、今よりも海面がかなり高い時代があったのです。
これは地域によっても違うし、その後の土砂の蓄積などで地面が高くなったところもあり明らかにはなっていません。
各地に残された貝塚などの分布を基に今より6~7mくらい高かったという説と、2~3mくらい高いという考え方があるようです、
しかし、この数mの海面の上昇がもっとも大きく地形を変えている場所がここの霞ケ浦周辺だと思います。

(日経BP社の海進シュミュレーションより)
これは海面が5m高かった場合の地図ですが、霞ケ浦はとても大きな内海でした。
この呼び名も各地名をとって○○の流海(ながれうみ)、香取海(かとりのうみ)など様々です。
そして、東海道も常陸国府(石岡)には東京湾を渡った後に川を下り、何度もこの流海を渡ってきたようです。
湿地帯や山岳地帯を歩くよりも意外にこちらの方が楽だったのかもしれません。
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これは主に各地と都との連絡や租庸調の徴収などのために必要とされたようです。
大化の改新(646年)以降、畿内から東には三つの官道が整備されました。
その道は各国の国府を繋いでいたのです。奈良時代初頭にはかなり整備されていたと思われます。
海寄りを進むのが東の海道で東海道(中路)
本州の真中を走る東の山道で東山道(中路)
日本海側を越後(または佐渡)まで行く北陸道(小路)
東山道は陸奥国国府(多賀城市)まで続き、東海道は常陸国国府(石岡市)まで続いていました。
そして16km毎に駅家(うまや)をおいてそこに馬(中路は10疋、小路は5疋)を置き、各国府との連絡に馬で乗り継いで連絡する仕組みができていたようです。
中路となった東海道、東山道は幅員が6~12m位あったようです。
東京の所属する武蔵国は771年に東山道の国から東海道の国に編入されたのです。
これは東京湾の下町から埼玉南部にかけて大きな湿原が存在しており、最初の頃には東海道も武蔵国は通らずに東京湾を船で渡っていました。
また東山道も武蔵国国府(東京都府中市)を通ると全くの時間ロスになっていたといいます。
このため、武蔵国は東海道に組みかえられたというわけです。
また甲斐国(国府:笛吹市)も東海道に組み込まれていますが、箱根を越えて山中湖~河口湖を経由して峠越えで行きますので武蔵国を通らなくても良かったのでしょう。
この武蔵国が東海道に組み込まれてから色々なルートができてきたように思います。
武蔵府中から松戸などとがつながるルートも出来てきたのではないかと思います。
しかし、10世紀から11世紀には廃れてしまい、幾つもの生活道路が出来て、鎌倉時代に鎌倉街道と呼ばれる各地の道とダブってきてしまったようです。
しかしこの古代の官道のルートを理解する上で、この縄文海進を少し理解しておいた方が良いと思います。
あまりにも現在と地形の様子が違ってくるからです。
今から6千年ほど前が海面上昇のピークと言われていますが、今よりも海面がかなり高い時代があったのです。
これは地域によっても違うし、その後の土砂の蓄積などで地面が高くなったところもあり明らかにはなっていません。
各地に残された貝塚などの分布を基に今より6~7mくらい高かったという説と、2~3mくらい高いという考え方があるようです、
しかし、この数mの海面の上昇がもっとも大きく地形を変えている場所がここの霞ケ浦周辺だと思います。

(日経BP社の海進シュミュレーションより)
これは海面が5m高かった場合の地図ですが、霞ケ浦はとても大きな内海でした。
この呼び名も各地名をとって○○の流海(ながれうみ)、香取海(かとりのうみ)など様々です。
そして、東海道も常陸国府(石岡)には東京湾を渡った後に川を下り、何度もこの流海を渡ってきたようです。
湿地帯や山岳地帯を歩くよりも意外にこちらの方が楽だったのかもしれません。


確かに5mも海面が高ければ 地形や生活環境も
随分違ったでしょうね(しかし6千年前って…
中国でも4千年の歴史なのに)(ーー;)
大きな街道の成り立ちには寺社の存在もあったの
ではないですか?例えば善光寺参りのための
中山道とか…?(ちゃうかな?)そこに祀って
ある神(皇族)との関係なんかもある気がしてた
んですが どうなんでしょう??
こんばんは。
> 確かに5mも海面が高ければ 地形や生活環境も
> 随分違ったでしょうね(しかし6千年前って…
> 中国でも4千年の歴史なのに)(ーー;)
その通りです。でも1300~1400年前の道を考える時、けもの道の様な道があり、
各部落を繋ぐ程度の道が続いていたはずです。
そこに、まったく生活や宗教とは関係なく官道をできるだけ真っ直ぐに作ったのです。
(中国の隋や唐の影響だと思います)
そのため、信仰や生活の道にはなっていかなかったので廃れてしまったのでしょう。
1000年ほど前でもその海面が現れたとしても湿地帯で歩行は困難だったようですよ。
奈良朝の頃に通った道が今のルートからあまりにも違っているので調べだしたのです。
まあ、何処に真実があるかはわかりませんが、言い伝えや民話のように伝えられているのも
面白いですよ。
坂上田村麻呂、平将門、八幡太郎源義家などの通ったところが気になるのです。
戦国時代の頃はかなり今と地形は近いです。
ただし江戸時代に利根川を移したことで大きく変わっていますが・・・。
まあ適当に読んでください。信用しないでくださいね(笑)
> 大きな街道の成り立ちには寺社の存在もあったの
> ではないですか?例えば善光寺参りのための
> 中山道とか…?(ちゃうかな?)そこに祀って
> ある神(皇族)との関係なんかもある気がしてた
> んですが どうなんでしょう??
これはもう大和朝廷が統一したずっと後のことです。
この官道は租庸調制度を維持するために無理やり作ったものだと思います。
ただし、この地域には2万年くらい前から縄文人がんでいました。