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霞ケ浦を渡る牛

 かすみがうら市牛渡(うしわた)の地名の由来はここに牛が泳ぎついたという伝説が伝わっているのです。
これがとても興味深いのです。
前に、古東海道がここを船で渡っていたのではないかと書いたことがあります。(こちら

そのことを示す言い伝えとして残されている「牛塚古墳」を紹介します。

ushiduka01.jpg

霞ケ浦の湖側に近いところを走る道路に沿って土浦側から牛渡に向かう途中にこじんまりした丸い塚がある。
これが「牛塚古墳です」
塚には松の木と小さなお宮さん(中に石の観音様が安置)が置かれています。
その場に書かれた説明板の内容を下記します。

「霞ケ浦沿岸の低地、房中(ぼうじゅう)集落の西に位置し、市内で最も低いところにある古墳で、形は円墳です。常陸国府に下向途中、この地で亡くなった勅使を慕って泳いできた牛が力つきてこの地で亡くなり、土地の人々がこれに感動して塚をつくり牛塚と名付けたという伝説があります。五世紀に築いたものと推定されています。 かすみがうら市教育委員会」

多くの方が、この事を単なる物語ととらえているようですが、まさかこんなところに古東海道の道(船道)があったとは考えないようです。

律令制の始まる前からある道で、奈良時代になり律令制の施行された時に各国府を結ぶ官道を整備したのですが、これは10世紀には良くわからなく廃れてしまったのです。

源氏物語が書かれたのは1001年?頃で、ここに常陸介が何回も登場します。
空蝉の夫は常陸介ですよね。

常陸介が常陸国国府(現石岡)にいくのには牛車でゆっくりと進みます。
この頃の道は舗装もされていませんのでスピードは出ません。

なぜ、馬でないのか?などと言う人もいますが、当時の馬は数も少なく、とても小さかったようです。
また去勢などの処置もされていませんので、とても扱い辛かったようです。

都からこのような遠い国にいくのも馬車ではなく牛車で優雅に進んだのです。
(それにしても、選ばれて下向するのは大変だったでしょうね。そのうち時代が経つと役職も名目だけで、実際には下向しなくなってしまうのです。)

ここの古墳に書かれている話は勅使がこの地で亡くなり、慕って後を追ってきた牛が力つきたとなっていますが、話は2つあります。

1)対岸の美浦村(牛込)より勅使は船に牛も載せて牛渡地区の沖合で船を止め、この地の神社(鹿島神社?)にお参りするために勅使が小舟に乗り換え上陸しますが、牛が後を追って湖に飛び込んでしまった。

2)牛は牛込に残して勅使が船で国府に向かった。しかし、残された牛が後を追いかけて湖を渡った。

どちらかかよくわかりませんが、このような話が残っていることはとても興味深いのです。

石岡の三村地区に「鷲塚」「鰻塚」という塚が昔あったそうです(この塚は埋め立てに削られてしまったようです)。室町時代末期に三村城主常春が滅ぼされた時に伝わる「鷲と鰻の大決闘」の話などとどことなくつながっているのかもしれません。
こちらの鷲塚・鰻塚も5世紀頃の古墳で人骨と石館が出てきたそうなので、古墳が先で、話は後からついたものかもしれません。

ただこんなことを考えるのも面白いと思っています。今年もこの道を追いかけることになるのか??

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古東海道 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2012/01/06 21:00
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