浮島と製塩(広畑貝塚)
ここ数日前から縄文海進で5000年ほど前には海面が5mくらい高かったのではないかと書いてきました。
これは、色々な文献にも書いてあることですし貝塚などの分布でもある程度推察できるようです。
しかし、最近この高さがもう少し低く+2~3m程度ではないかとも言われています。
前に紹介したFlood Mapsというソフトで+5mくらい海面が高いとして地形を眺めて見ると、むかしのことが書かれている風土記などの書物や、その地に残っている地名、言い伝えなどの話との辻褄が合ってくると考えていました。
これを+2mくらいかもしれないという事象が今回紹介する「広畑貝塚」という場所の存在です。
先日、稲敷市浮島を散策して偶然にその場所の存在がわかったところですが、国の史跡に認定されているそうです。

浮島の真中を走る街道にも近く、ただの空地に案内板が置かれています。

特に目立って特徴的なものはありません。こんなところでも貝塚が発見されたのだと思う程度です。
ただの平地に見えます。

でもとても不思議なことが書かれています。
上の現地案内板に書かれている内容がわかりますか?
最初に読んでもよくわからないのですが、これはとんでもないことが書かれているように感じています。
1)日本の製塩技術は何時頃から行なわれてきたのか?
2)何処から伝えられたのか?
3)この場所はこの土器が使われていた時に陸地であったのか?
これらの疑問を解く時に、まず最初に常陸国風土記の内容を少し理解してから話を進めましょう。
常陸国風土記の信太郡のところに
「昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜(のりはま)に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。(略)
乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしてゐる。」(口訳・常陸国風土記より)
という記述があります。
倭武の天皇は天皇と書かれていますが、ヤマトタケルのことです。
昨日書いた「景行天皇」はこの日本武尊(ヤマトタケル)の父親とみなされています。
また浮島の村の人家は十五軒とありますが、昔は1軒(竈が1個)で10人近くが生活していたようなので100人以上いたのではないかと思われます。
常陸国風土記が書かれたのは奈良時代初期の713年頃に編纂されたもので、この日本武尊が浮島に来たのはそれより400年くらい前の4世紀初め頃ではないかと思われます。
ここに書かれている製塩の事象が事実なら4世紀には製塩が行なわれていたことになります。
まあ、考古学者でもないのでこれ以上調べる根気もないので、話は問題提起だけにしておきますが、考古学上はこの製塩土器というのは皆さん知っていることらしいのです。
でも一般にはほとんど知られていないですね。
製塩用の土器に海藻を利用して採ったかん水を入れ煮つめて塩を作るもののようです。
ここの浮島は風土記には海苔が採れたとも書いてあります。
ではいったい何時頃から行なわれてきたのでしょう。
全国に製塩土器が発見されているようなのですが、ここの常陸国(茨城)がもっとも古いようです。
(たばこと塩の博物館より塩の歴史→こちらを参考にしました)
さて、現地の説明板によれば、この広畑貝塚からは縄文時代と弥生時代の遺跡が階層的に見つかっているようで、ここに書いた製塩土器は縄文時代のものだというのです。
そうすると、もしかしたらこの貝塚が製塩土器の最古のものかもしれません。
紀元前1000年頃の物になりそうです。
今から3000年ほど前のことになりますね。
しかし、この発見された場所は説明にある通り海抜が+1.5~2mくらいのところにあります。
ということは、3000年前はこの辺りの海面は今より1.5~2mくらい高い程度であったと考えられます。
また良くわからなくなりました。地形的には今から+2mも+5mも大きく変化はありません。
このあたりも水田やレンコン畑などは皆低地に作られており、その場所が昔海(湖)であったというのはごく当たり前のように考えられます。
(下の地図はサムネルです。クリックすれば大きくなります)

(海面が今より+5mとした時の地図)

(海面が今より+2mとした時の地図)
上の2つの地図を比べてもあまり大きな違いはありません。
(+2mでは川と思われるところがところどころが陸のようになってしまいますが、実際は土がもられたり、建物があるので白く陸地のようになっているだけでそこは水面になるはずだと思われます。)
しかし、昔の道をたどっていくと+5mくらい海面が高い状態と考えるとつじつまがあってくるのです。
ここはただのブログの1ページにすぎませんので、興味があったら学術的なことは別なところを調べてくださいね。
これだけでも論文になるテーマでしょう。
場所は浮島と言うよりも古渡(ふっと)に近い方で、常陸風土記に書かれている「乗浜」の近くではないかと思われます。
問題提起だけでしたが、長文になってしまいました。失礼しました。
← よろしければクリックお願いします。
これは、色々な文献にも書いてあることですし貝塚などの分布でもある程度推察できるようです。
しかし、最近この高さがもう少し低く+2~3m程度ではないかとも言われています。
前に紹介したFlood Mapsというソフトで+5mくらい海面が高いとして地形を眺めて見ると、むかしのことが書かれている風土記などの書物や、その地に残っている地名、言い伝えなどの話との辻褄が合ってくると考えていました。
これを+2mくらいかもしれないという事象が今回紹介する「広畑貝塚」という場所の存在です。
先日、稲敷市浮島を散策して偶然にその場所の存在がわかったところですが、国の史跡に認定されているそうです。

浮島の真中を走る街道にも近く、ただの空地に案内板が置かれています。

特に目立って特徴的なものはありません。こんなところでも貝塚が発見されたのだと思う程度です。
ただの平地に見えます。

でもとても不思議なことが書かれています。
上の現地案内板に書かれている内容がわかりますか?
最初に読んでもよくわからないのですが、これはとんでもないことが書かれているように感じています。
1)日本の製塩技術は何時頃から行なわれてきたのか?
2)何処から伝えられたのか?
3)この場所はこの土器が使われていた時に陸地であったのか?
これらの疑問を解く時に、まず最初に常陸国風土記の内容を少し理解してから話を進めましょう。
常陸国風土記の信太郡のところに
「昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜(のりはま)に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。(略)
乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしてゐる。」(口訳・常陸国風土記より)
という記述があります。
倭武の天皇は天皇と書かれていますが、ヤマトタケルのことです。
昨日書いた「景行天皇」はこの日本武尊(ヤマトタケル)の父親とみなされています。
また浮島の村の人家は十五軒とありますが、昔は1軒(竈が1個)で10人近くが生活していたようなので100人以上いたのではないかと思われます。
常陸国風土記が書かれたのは奈良時代初期の713年頃に編纂されたもので、この日本武尊が浮島に来たのはそれより400年くらい前の4世紀初め頃ではないかと思われます。
ここに書かれている製塩の事象が事実なら4世紀には製塩が行なわれていたことになります。
まあ、考古学者でもないのでこれ以上調べる根気もないので、話は問題提起だけにしておきますが、考古学上はこの製塩土器というのは皆さん知っていることらしいのです。
でも一般にはほとんど知られていないですね。
製塩用の土器に海藻を利用して採ったかん水を入れ煮つめて塩を作るもののようです。
ここの浮島は風土記には海苔が採れたとも書いてあります。
ではいったい何時頃から行なわれてきたのでしょう。
全国に製塩土器が発見されているようなのですが、ここの常陸国(茨城)がもっとも古いようです。
(たばこと塩の博物館より塩の歴史→こちらを参考にしました)
さて、現地の説明板によれば、この広畑貝塚からは縄文時代と弥生時代の遺跡が階層的に見つかっているようで、ここに書いた製塩土器は縄文時代のものだというのです。
そうすると、もしかしたらこの貝塚が製塩土器の最古のものかもしれません。
紀元前1000年頃の物になりそうです。
今から3000年ほど前のことになりますね。
しかし、この発見された場所は説明にある通り海抜が+1.5~2mくらいのところにあります。
ということは、3000年前はこの辺りの海面は今より1.5~2mくらい高い程度であったと考えられます。
また良くわからなくなりました。地形的には今から+2mも+5mも大きく変化はありません。
このあたりも水田やレンコン畑などは皆低地に作られており、その場所が昔海(湖)であったというのはごく当たり前のように考えられます。
(下の地図はサムネルです。クリックすれば大きくなります)

(海面が今より+5mとした時の地図)

(海面が今より+2mとした時の地図)
上の2つの地図を比べてもあまり大きな違いはありません。
(+2mでは川と思われるところがところどころが陸のようになってしまいますが、実際は土がもられたり、建物があるので白く陸地のようになっているだけでそこは水面になるはずだと思われます。)
しかし、昔の道をたどっていくと+5mくらい海面が高い状態と考えるとつじつまがあってくるのです。
ここはただのブログの1ページにすぎませんので、興味があったら学術的なことは別なところを調べてくださいね。
これだけでも論文になるテーマでしょう。
場所は浮島と言うよりも古渡(ふっと)に近い方で、常陸風土記に書かれている「乗浜」の近くではないかと思われます。
問題提起だけでしたが、長文になってしまいました。失礼しました。


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