和田岬と和田公園(浮島)
今日1月17日は17年前に阪神淡路大震災が起こった日です。
朝早く起きてテレビをつけていたら、5時46分に1分間の黙祷が行なわれました。
テレビに合わせ黙祷を捧げました。
今日は人間ドックの検診日でいつもより早く家を出て、昼過ぎに帰ってきました。
そして、只今午後2時46分になりました。東日本大震災の起こった時刻で、2度目の黙祷を捧げました。
阪神淡路の時は西ノ宮にいた家内の親類が被災し、家は倒壊しましたが幸い無事でした。
でも、当時はなかなか連絡が取れずずいぶん心配し、電車が動かない中、家内は行ける所まで行くと出かけて行きました。
途中までしか動いていなかった電車で行き、そこから歩いて何とかいけたようですが、その時の町の光景は忘れられないようです。
直下型であったため、完全に倒壊した家の列と道路一つ隔てたら何ともないところもあったようです。
年寄り一人で住んでいて、たまたま炬燵で寝ていて上にタンスが倒れたけど無事だったなどと、今では笑い話をするようですが、「このような経験をすると世の中の見方が変わってくる」と言っていました。
「皆がこういう時にはしっかりとその状況を見て状況をしっかりと体験しておくことが、何にも変えられない経験だ」といわれたのを思い出します。
その後、2004年10月には今度は私の親戚が新潟中越地震で被災し、しばらく家の中では怖くて車で寝ていたなどと言っていました。
こんなに災害の多い国なんですね。
人は痛みや悲しみは一時的には忘れるように出来ています。
そうでなければ立ち直れないんです。四六時中悲しんでいても生きていけません。
でも、まわりの人は忘れてはいけないんですよね。この話はこれくらいにしますね。
さて、今日は昨日の浮島の先端にある和田公園を紹介します。
昔、大和朝廷が東国を平定するために東京湾をわたり、流れ海(昔の内海であった霞ケ浦の一部)を渡りながらこの信太郡にやってきて、浮島や陸平(おかだいら)の地から大きな霞ケ浦を前にしてどのように進もうかと考えたのだろう。
その先にはとても肥沃な広大な土地が広がりそこには原住民が生活していました。
筑波山や海(霞ケ浦=香取の海)を前にしてどんな景色が見えていたのでしょうか。
当時は海岸線はもっと陸側にあったと思われますが、ながめた景色は今の水辺の様子に近かったのかもしれません。
今そこに「和田岬」と言う少し霞ケ浦に出っ張った岬がありきれいな公園があります。
石岡の方から来ると少し遠いので、あまり来る機会はありませんでした。
浮島散策の時にどんなところか見てきました。

和田岬は小さな湾になっていて、湖の中に穏やかな湖があるような感じです。
そこに漁船と釣り人が糸を垂れています。

写真の松林の向こうに広い霞ケ浦が広がります。

ここは「水郷筑波国定公園」です。
この水郷、霞ケ浦、筑波をひとつのエリアととらえてPRすべきだと感じました。

先ほどの松林の向こう側は防砂堤を設けて、砂を入れ、砂場を作る計画で工事をしています。
テレビのうわさのチャンネルだったかと思いますが、「入れた砂が皆流され、つぎ込んだお金がみんな波に持っていかれた」というような紹介がされたような気がしますが、なんとか昔の景観を取り戻したいと努力しているようです。
向こうに見えるのは筑波山です。

この一帯が松林でとても趣のあるところです。
霞ケ浦に砂浜と海水浴場などがよみがえる日は来るのでしょうか。
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朝早く起きてテレビをつけていたら、5時46分に1分間の黙祷が行なわれました。
テレビに合わせ黙祷を捧げました。
今日は人間ドックの検診日でいつもより早く家を出て、昼過ぎに帰ってきました。
そして、只今午後2時46分になりました。東日本大震災の起こった時刻で、2度目の黙祷を捧げました。
阪神淡路の時は西ノ宮にいた家内の親類が被災し、家は倒壊しましたが幸い無事でした。
でも、当時はなかなか連絡が取れずずいぶん心配し、電車が動かない中、家内は行ける所まで行くと出かけて行きました。
途中までしか動いていなかった電車で行き、そこから歩いて何とかいけたようですが、その時の町の光景は忘れられないようです。
直下型であったため、完全に倒壊した家の列と道路一つ隔てたら何ともないところもあったようです。
年寄り一人で住んでいて、たまたま炬燵で寝ていて上にタンスが倒れたけど無事だったなどと、今では笑い話をするようですが、「このような経験をすると世の中の見方が変わってくる」と言っていました。
「皆がこういう時にはしっかりとその状況を見て状況をしっかりと体験しておくことが、何にも変えられない経験だ」といわれたのを思い出します。
その後、2004年10月には今度は私の親戚が新潟中越地震で被災し、しばらく家の中では怖くて車で寝ていたなどと言っていました。
こんなに災害の多い国なんですね。
人は痛みや悲しみは一時的には忘れるように出来ています。
そうでなければ立ち直れないんです。四六時中悲しんでいても生きていけません。
でも、まわりの人は忘れてはいけないんですよね。この話はこれくらいにしますね。
さて、今日は昨日の浮島の先端にある和田公園を紹介します。
昔、大和朝廷が東国を平定するために東京湾をわたり、流れ海(昔の内海であった霞ケ浦の一部)を渡りながらこの信太郡にやってきて、浮島や陸平(おかだいら)の地から大きな霞ケ浦を前にしてどのように進もうかと考えたのだろう。
その先にはとても肥沃な広大な土地が広がりそこには原住民が生活していました。
筑波山や海(霞ケ浦=香取の海)を前にしてどんな景色が見えていたのでしょうか。
当時は海岸線はもっと陸側にあったと思われますが、ながめた景色は今の水辺の様子に近かったのかもしれません。
今そこに「和田岬」と言う少し霞ケ浦に出っ張った岬がありきれいな公園があります。
石岡の方から来ると少し遠いので、あまり来る機会はありませんでした。
浮島散策の時にどんなところか見てきました。

和田岬は小さな湾になっていて、湖の中に穏やかな湖があるような感じです。
そこに漁船と釣り人が糸を垂れています。

写真の松林の向こうに広い霞ケ浦が広がります。

ここは「水郷筑波国定公園」です。
この水郷、霞ケ浦、筑波をひとつのエリアととらえてPRすべきだと感じました。

先ほどの松林の向こう側は防砂堤を設けて、砂を入れ、砂場を作る計画で工事をしています。
テレビのうわさのチャンネルだったかと思いますが、「入れた砂が皆流され、つぎ込んだお金がみんな波に持っていかれた」というような紹介がされたような気がしますが、なんとか昔の景観を取り戻したいと努力しているようです。
向こうに見えるのは筑波山です。

この一帯が松林でとても趣のあるところです。
霞ケ浦に砂浜と海水浴場などがよみがえる日は来るのでしょうか。


丁度 チューリップの見頃で素晴らしかったです。翌年、同じ時季に地図を片手に行ったのですが、道が分からなくなり たどり着けませんでした。今はカーナビに助けられてますが、地図を見ながら行ったドキドキ感は無くなった様な気がします。昔の楽しかった想い出を思い ださせて頂きました (^^
こんばんは。
> 丁度 チューリップの見頃で素晴らしかったです。
そうですか。チューリップがきれいなのですね。
初めて行ったのですが、この時期ですから花はなく、公園も工事中などで通行止め個所もありました。
花の時期はきれいなのでしょうね。こんど機会を見て行ってみます。
情報嬉しいです。
確かに道がもっとはっきりしていればいいのですが、途中から入ると細い道で間違ったかと思ったりしました。
カーナビはいいですね。
私はカーナビ使わない主義だと自分を納得させていますので、やはり何時も良く間違えます。
そのため、一度で辿りつかないことがよくあります。
その代わり思わぬ発見もありますが・・・(言い訳です (汗))
>今日1月17日は17年前に阪神淡路大震災が起こった日です。
朝早く起きてテレビをつけていたら、5時46分に1分間の黙祷が行なわれました。
テレビに合わせ黙祷を捧げました。
その時はどんなにか驚き嘆き悲しんだことでも時間の経過と共に記憶が薄れてゆきますが 忘れてはならないことですよね。
被災された時間に手を合わせ 御冥福を祈ると同時に その時のことに思いを馳せ 忘れないように繰り返し記憶させていくこと そして語り伝えることの大切さを思いました。
記録することの大切さと 伝えることの大切さを深く考えさせられました。有難うございます。
いつもありがとうございます。
記事を書いていてそこに記録として残しておくと毎年思い出せますね。
これもブログの良さかもしれません。
記憶は薄れますね。忘れてはいけないことでもつい忘れてしまうものですから。
こうして書くだけでもまた気持ちが新たになります。
こちらこそありがとうございました。
おはようございます。
リンク構いません。
こちらもリンクさせていただきました。
相互リンクの件ありがとうございました。
こちらからもリンクを貼らせていただきます。
今後ともよろしくお願い致します。