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山岡鉄舟

 さて昨日書いた義経の笛が保存されている久能山久能寺(鉄舟寺)が山岡鉄舟が尽力して再興したといわれていますが、鉄舟は寺の再興が叶わぬうちに亡くなったといいます。

しかし、何故この寺の再興を進めたのでしょうか?
興味がわくのですが、鉄舟を少し調べて見るととても興味深い人物だということがわかります。

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(石岡市高浜神社の説明文:上の「高浜神社」の文字は山岡鉄舟の書)

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(高浜神社)

私のいままでの知識では
1)勝海舟に依頼されて駿府(静岡)まで来ていた西郷隆盛に海舟の書をもって会いに行った。
2)その時敵地に行く鉄舟の堂々とした対応や、西郷の条件提示をどのように受け応えたか。
3)石岡の高浜神社には山岡鉄舟の書いたといわれる額が残されている
4)鉄舟の兄(小野古風)がこの高浜にいて高浜小学校の初代校長となっている
5)茨城県が出来た時に初代の茨城県参事(現県知事)となっている(数か月の短い期間)

などなのですが、今回少し興味を持って調べたら面白い内容がたくさんあるのです。
少しだけ知ったことを紹介しておきますね。

山岡鉄舟は江戸本所に御蔵奉行小野朝右衛門の四男として生まれます。
母は磯女塚原氏なのですが、この母は鹿島神宮の神官塚原氏の娘です。
この塚原氏は有名な「塚原卜伝」の出た家系です。

実はこの塚原氏は、大掾氏の一族・鹿島氏の分家ですので正確には「平」姓です。

さて、鉄舟こと鉄太郎が10歳の時に飛騨高山に郡代となった父母について行き、高山で母・父と相次いで病死でなくしてしまい、17歳の時に江戸にいた義兄の小野磯三郎のところに身を寄せています。

しかし、高山にいた頃より剣術(北辰一刀流)に励みかなりの腕になっていたようです。

注目すべきは15歳で後に有名となっている「修身二十則」を書いています。(こちら

前に読んだことがありますが、なかなか含蓄のある言葉が並んでいます。これは今でも通用する言葉です。

二十歳の時に、槍術を学んでいた山岡静山が急死したため、望まれて山岡家の養子となり、静山の妹英子と結婚し、山岡姓となったのです。

その後、新撰組の前身である浪士隊などを率いて京へ行ったりしていますが、三十三歳の時に、駿府に西郷隆盛と松崎屋源兵衛方にて会見し、西郷が提示した条件の中の1つ慶喜を敵に預けることを頑として受け入れなかったとされています。

西郷もこの条件を外して無血開城が達成されたのです。

何故山岡鉄舟が使者に選ばれたのか?
勝海舟は最初「高橋泥舟」を派遣したいと考えていたが、高橋泥舟は徳川慶喜の警護で江戸を離れることができず山岡鉄舟を推薦したようです。
海舟・泥舟・鉄舟は幕末の三舟としてその功績がたたえられています。

鉄舟については、五十三歳で亡くなるまでいろいろなエピソードが残されています。
また武士道と禅の一体の境地を追求していた鉄舟が胃がんで死期を迎えますが、坐したまま死んだという逸話が伝わっています。(参考→こちら

時間があればゆっくり調べてみたいと思います。
これはブログで簡単に書く内容でもないので表面的な事柄だけを記しました。

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番外編 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/22 15:00
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