常陸国分尼寺跡(1)
常陸国分寺を少し紹介してきたので、こちらの尼寺も紹介します。
石岡府中小学校の裏手に芝生の広い広場がある。
ここが国の特別史跡に指定されている常陸国分尼寺跡である。
少し入口が狭いのでうっかりすると通り過ぎてしまうかもしれない。
ここは遺跡であり、この場所を手をつけずにそのまま保存している。
(写真はサムネルです。クリックすると大きくなります)

入口には「法華滅罪之寺跡」と書かれている。
国分寺と国分尼寺は全国の国府に2つは対で建てられたが、尼寺の方はそのほとんどが途中で消滅してしまい、場所も特定されていないところも多い。
そんな中、この常陸国は両方の遺跡がはっきりしており、特別史跡の指定となった。
この国分尼寺の総本山は光明皇后が建立した奈良の「法華寺」です。(国分寺の総本山は東大寺です)
この寺は奈良を訪れた方ならきっと好きな方も多いのではないだろうか。
十一面観音は素晴らしいですよね。
しかし、この地には何も残っていません。

(国分尼寺跡の地より筑波山を眺めてみました)
この尼寺跡の地の真中に2本の桜の木が植えられています。桜の季節にはこの下でお弁当を広げる人もいます。
でも訪れる人が少ないですね。
この辺りは尼寺ヶ原(ニジガハラ)といいます。虹がかかるようなイメージと重ねてこの名前も覚えて置かれても良いでしょう。
でもニジガハラの名前しか知らない子供たちが、尼寺の事を知らなかったということで、この敷地の隣りの「府中小学校」では、子どもたちに地元の歴史を考える時間を考えたり、調べたりしているそうです。
昨年も風土記の丘の有料施設に昔の鹿の子遺跡などの小屋を復元した場所などを見学したりしていたと聞きました。
まず、身近な歴史にも興味を持って調べて見るのも必要ですね。
(明日に続きます)
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石岡府中小学校の裏手に芝生の広い広場がある。
ここが国の特別史跡に指定されている常陸国分尼寺跡である。
少し入口が狭いのでうっかりすると通り過ぎてしまうかもしれない。
ここは遺跡であり、この場所を手をつけずにそのまま保存している。
(写真はサムネルです。クリックすると大きくなります)

入口には「法華滅罪之寺跡」と書かれている。
国分寺と国分尼寺は全国の国府に2つは対で建てられたが、尼寺の方はそのほとんどが途中で消滅してしまい、場所も特定されていないところも多い。
そんな中、この常陸国は両方の遺跡がはっきりしており、特別史跡の指定となった。
この国分尼寺の総本山は光明皇后が建立した奈良の「法華寺」です。(国分寺の総本山は東大寺です)
この寺は奈良を訪れた方ならきっと好きな方も多いのではないだろうか。
十一面観音は素晴らしいですよね。
しかし、この地には何も残っていません。

(国分尼寺跡の地より筑波山を眺めてみました)
この尼寺跡の地の真中に2本の桜の木が植えられています。桜の季節にはこの下でお弁当を広げる人もいます。
でも訪れる人が少ないですね。
この辺りは尼寺ヶ原(ニジガハラ)といいます。虹がかかるようなイメージと重ねてこの名前も覚えて置かれても良いでしょう。
でもニジガハラの名前しか知らない子供たちが、尼寺の事を知らなかったということで、この敷地の隣りの「府中小学校」では、子どもたちに地元の歴史を考える時間を考えたり、調べたりしているそうです。
昨年も風土記の丘の有料施設に昔の鹿の子遺跡などの小屋を復元した場所などを見学したりしていたと聞きました。
まず、身近な歴史にも興味を持って調べて見るのも必要ですね。
(明日に続きます)


>(国分尼寺跡の地より筑波山を眺めてみました)
勝手な想像でしかありませんが 人生の悲しい歴史があって尼寺を 終の棲家とした尼僧たちなのに 今は其の尼寺さえもなくなり そのことを知っている人さえ少なくなり 桜の木のみが其の寺の跡地に植えられている・・・・・。
少し違うのかもしれませんが 同じく尼僧だった方の古歌を重ねつつ拝見しました。
***もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし***
人知れず美しく咲く山桜よ お前に私が感動するように お前も私のことを知って欲しい。
この土地では 私の心を知ってくれるのは花のおまえだけなのだから。
遠くにそびえる筑波山も 見守ってくれていたような映り方で ホッとしました(*^_^*)
この尼寺跡は私の住んでいる同じ町内にあるのです。
でも少し外れにあることもあり、あまり訪れることもありません。
今回も、国分寺に行ったのでこちらも写真撮っておこうという程度だったのです。
そこにこのような素敵な歌を紹介していただきお返事のしようがありません。
ただただ感謝です。
> 勝手な想像でしかありませんが 人生の悲しい歴史があって尼寺を 終の棲家とした尼僧たちなのに 今は其の尼寺さえもなくなり そのことを知っている人さえ少なくなり 桜の木のみが其の寺の跡地に植えられている・・・・・。
素敵な解釈ですね。
この尼寺は平将門の国衙攻めの1000年以上も前に一度皆焼けたそうです。
寺が出来た時は、10人程の尼僧がいたようですが、将門に寺を焼かれ辱めを受け、その悲しみがまだ眠っているのかもしれません。
あとからその俤を訪ねた人の歌が残されています。
尼寺ヶ原 石見に来れば 道もなし
足にまかせて 尋ねこそすれ
草原と瓦跡や礎石だけが残る昔尼たちが住んでいたところなのです。
記録が残っていないのですが、その後寺はまだ存続していて、常陸大掾(だいじょう)氏が佐竹氏に滅ぼされた1590年に完全に焼かれて廃れてしまったようです。
きっと「言の葉さん」には万葉の頃のこの寺の尼僧の姿と、その後にそこを訪れた偲ぶ尼僧の姿が見えたのかもしれませんね。
ありがとうございました。