古東海道(足柄峠~上総国~下総国)

 今日も2年前に書いていた下書きをUPします。

でも2年前からあまり進歩していないな。

 先日作成した古東海道の足柄峠(こちら)の先を少し載せておきます。

昔ヤマトタケルが通ったとされる足柄峠から東側を吾妻の国といったという。
富士山の噴火でこの峠が通れなくなったときはあったが(こちらで書いた記事参照)

さてこの足柄峠から常陸国へのルートであるが、大きく時期によって2つにわかれる。

延喜式に各街道の駅屋(うまや)の名前が載っている。この東海道は現在の東海道と似通った場所を通るとされている。
延喜式が完成したのは平安時代中期の927年のことで、律令制が敷かれた当初(奈良時代の初め710年)からは200年ほど後になる。

現在の東京は湿地帯であり武蔵国に所属していたが、この国府が今の府中市から国分寺市あたりだ。
この武蔵国は最初は東山道の国に属していた。

これが地図でもわかるが東山道から武蔵国府中に行くのではかなり寄り道になってしまう。
そこで宝亀2年(771年)10月27日に「東山道の派遣官吏が上野国、武蔵国、下野国と経由するのは日程が延びて非効率だが、これを東海道に属させて相模、武蔵、下総と経由すると効率的である」との旨の太政官の奏上を天皇が宣下し東海道に移され、陸路が整備された。(Wikipediaより抜粋)

従って延喜式の駅屋(うまや)はこの武蔵国が東海道に編入された後のものだ。

1118-20.jpg
(クリックで拡大します)

見にくいので一部を拡大します。

engisiki920.jpg

上の駅屋は推定される場所を示しているに過ぎず全てが確認されたものではない。
大和朝廷と各国の間の馬で伝達のための乗り換えの駅が駅屋(うまや)であり、30里(16km)置きに設置された。

でもヤマトタケルなどが東京湾を渡ったとされて各地にその地名などで名残が見られており、奈良時代の初期までは少なくとも東京湾を舟で渡り上総国(国府:市原市)下総国(国府:市川市)経由で常陸国に入って来ていたはずである。
都(大和)に近いほうが上総で遠い方が下総となるのである。

海老名
(クリックで拡大します)

このあたりのルートを追いかけるとかなり面白いのだが、労力も使う。いまだにまとまらないが途中のルートを少し地図に記入して見た。

まずは足柄峠の道から相模国まで。

この相模国は最初は海老名に国府があったというのが一般的だ。しかし未だに確定されておらず4か所くらい候補地があるのだそうだ。
私は大雑把だが、最初海老名にあり、途中で平塚に遷都されたのではないかと考えている。

古東海道2
(クリックで拡大します)

この平塚から先のルートを載せて見る。

葉山から衣笠、走水(横須賀市)ときてここで東京湾を舟で千葉県の富津岬へ渡った。
ここから先は市川まで地図に載せて見たが、これはいろいろな資料から大体の位置は読むことが出来る。

問題はこの先なのだが、これがなかなかわからない。
延喜式のルートを追いかけるのは比較的できそうだが昔の常陸国の入口(榎浦の津)までのルートを追いかけるのが楽しそうなので暇になったらまた始めて見たい。

まあこれも2年前に考えていたのだがまったく進んでいない。何時になったらまとまるのだろうか?
気長にやっていきたい。

記事をまとめておかないと前の記事がお蔵入りとなってしまうのでとりあえずUPだけしまた。

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古東海道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/02/12 20:49
コメント
古東海道の目的は
Romanさん、ご無沙汰しました。
以前読ませていただいた古東海道を思い出させていただき、新たな興味を持ちました。
そもそも律令国家の頃から東への街道を作った情熱は何によるものか思います。それは朝廷が蝦夷の存在を知ってそれを征服するのが動機だったのでしょうか。洋の東西を問わず、より多くの富を得るには自力の開墾など後代の事で、古代には肥えた良い土地を見つけて手に入れるのが当たり前だったわけで、古東海道も結局それが目的だったのかな、などと思います。
そして鹿島・香取は先鋒の砦から始まった場所だったかしら、などともう一度奇麗に見せていただく興味を感じております。今後の連載にまた期待致します。
忠顕 さま
> 以前読ませていただいた古東海道を思い出させていただき、新たな興味を持ちました。

もう2年も記事を寝かせていて見直していたら書きかけが出て来たので今頃追記してUPしました。
これもなかなかまとまらないですね。日本の国の形を整えるために100年以上かかったのでしょうね。

> そもそも律令国家の頃から東への街道を作った情熱は何によるものか思います。それは朝廷が蝦夷の存在を知ってそれを征服するのが動機だったのでしょうか。

中国の唐の律令制をまねて国家を統一するためだと思います。
そして肥えた土地を開墾したり征服したりして稲作を行いその一部を中央に運搬させるためには道の整備が必要だったのでしょう。
それに北の蝦夷を制圧するためには武器や戦闘員も供給するために道を整備したと思います。

> 洋の東西を問わず、より多くの富を得るには自力の開墾など後代の事で、古代には肥えた良い土地を見つけて手に入れるのが当たり前だったわけで、古東海道も結局それが目的だったのかな、などと思います。
> そして鹿島・香取は先鋒の砦から始まった場所だったかしら、などともう一度奇麗に見せていただく興味を感じております。今後の連載にまた期待致します。

たしかにおっしゃるとおりでしょう。
生活に必要なものとは異なってしまえばやがて使われなくなってしまいますね。
今でも高速道路建設に多大な税金を使っていますから、昔もこれらで莫大な税と人手が必要だったでしょうね。
でも生活や文化もその道のある所に生まれて行った要素も強いでしょう。

連載はなかなかできません。気長に調べていきたいと思います。
コメントありがとうございました。

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