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夷針神社(2)

 昨日アクセスカウンターをみたら11万を越えていた。10万をこえたのが今年1月初めだった。
最近毎日書くのが多少苦になってきた。

少し追い立てられているようだ。ブログも毎日書こうと思い立って1年半が過ぎ、まだ1日もまだ欠けたことが無い。それだけが自慢だ。

またアクセスが多いことより、時々昔の記事にコメントや拍手をいただくことがあり、こちらの方が嬉しい。

書いている時は恐らくこんなマイナーな記事は飽きられてしまうだろうと思っていたし、一部の人しか興味のない記事が多いと思いながらも続けてきたことが大きいようだ。

昨日・今日の記事など本当につまらない記事なのだが、最初はただ単に紹介していただけであったものが、最近は記事を残しておかなければ、眠っているものが見えないように感じてしまっている。
そのうちに何か関連する事柄が出てきて一気にその場所とつながりが出て来るのではないかと思うようになった。

色々な方のブログを拝見しているうちに、こちらもずいぶん参考になり、自分のスタイルも影響を受けながら方向性が見えてきている。

しかし、もう少しいろいろなスタイルも試しながら続けていきたい。他の方のブログも真似させてもらおう。

 さて、昨日紹介した夷針神社であるが、どうも本当にこの神社が延喜式式内社であげられている夷針(イハリ)神社なのであろうか?

isimi06.jpg

色々な疑問が出てくる。

1)まずここは現在茨城町であるが延喜式の記された時代(平安時代10世紀)には那珂郡になっていたと思われる。
夷針神社は茨城郡の神社として数えられている唯一の神社である。
しかし、この地はそのもっと前(300年以上前?)は茨城郡であったのではないか?
(これは茨城の県名の話で小原神社を紹介した時に書いた。こちら
ということは別な場所から移ってきたのかも・・・・。
由緒書きには聖武帝神亀2年乙丑9月29日(725)の創建となっていた。

ihari00.jpg

2)この神社は江戸時代は「武隈明神社」と言っていたらしい。これはこの石岡とも大いに関係しており、常陸大掾(だいじょう)氏の家臣であった水戸馬場城が落城した時に、鯉渕城の城主で根小屋(根古矢、根古屋)にいた武隈氏がこの大戸(おおど)に逃げてきて移り住み、この神社に合祀したという。
ということは昔鯉渕にあった神社をこの時にこちらに移したものかもしれない。
このブログでも筑波詣での道として栄えた瀬戸井街道を検証する中で鯉渕宿(こちら)を見て調べていた時に記事は見つけて気になっていた。

まあ書かれている内容は大掾氏の平氏として続く正当性を書いてあるので石岡の歴史に書かれているものとあまり変わらない。話は半分程度と解釈しておこう。

3)それよりここの祭神は興津日子命(オキツヒコノカミ)・興津比売命(オキツヒメノカミ)だといいます。
これは竈(カマド)を司る神だといいます。民間信仰の神様ですね。
昔は竈(カマド)は大切にされ、火を使う台所に神聖な神が宿ると神棚を祀ったり、お札を貼ったりしていたので、天皇の先祖を祀った神社の神様に比べると庶民の神様と言う気がします。

調べていたら、興津比売命(または奥津比売命)は別名で大戸比売神(オオベヒメノカミ)とも書かれていました。
この地が大戸(おおど)というのと関係があるのでしょうか?

それにしても「夷針」とはどんな意味でしょうか?
筑波山の周辺地帯の呼び名として長いことあちこち点々と使われている「新治(ニイハリ)」とも関係しているのでしょうか。発音は似ていますね。

でも夷針の夷は征夷大将軍の「夷」です。これは東国の異民族を指す言葉です。
何故この「夷」が使われるのでしょうか? わからないですね。

では長たらしい文の口直しに神社の入口にあった火の見櫓です。

hinomi.jpg

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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/02/16 19:30
コメント
火の見櫓
懐かしいですね、火の見櫓なんて。(すみません、神社じゃなくて、火の見櫓に反応してしまうなんて。そういう年齢なんです?)
いまは使われていないのでしょうね。


べあべあさんへ
べあべあさん

やはりこっちに反応しますよね。
それでいいんです。つまらないのでこんなもの載せて見たんです。

> いまは使われていないのでしょうね。

下に小屋があり消防の道具が入ってそうです。
使っていそうでしたよ。
最近結構立派な鉄塔の火の見櫓を見かけます。

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