子供の頃の思い出(2)-おもらいさん
昨日の祖父のもう一つの笑い話があります。
その祖父も先生をやめて、新潟の長岡で本屋さんを始めます。
本屋さんも軌道に乗り長岡でも大きな本屋になりました。
そして、その本屋も息子に譲り、毎日碁を打ったりしてのんびりしていた時の話です。
昔は、行商の物売りなどが良く玄関先にきていました。また碁打ちのお仲間が家に来られていました。
ある日祖父だけが家にいて、男の人が一人やってきました。
「あの、どちらさまですか?」
「はあ・・・あの もらいですが・・・」
「さて、どちらのもらい様でしょうか?」
男は、きまずそうに「おもらいですから、何でも結構です。何かいただけるものは・・・・」
そうです。昔はこのように家を訪ねて恵みをいただいている方もおられたのです。
この話もその時の時代を写していた話ですし、格好を見ればだいたい想像がつくでしょうに、まったくそのような事に頓着もなかった祖父の人柄を伝える話で好きです。
私達兄弟も中学生くらいまでは毎年、夏休みに長岡に遊びに行っていました。
(父方の祖父母は私が小学1年の時に相次いで亡くなり、母方の田舎(長岡)へ行く機会が多くなりました)
小学校低学年の頃も上野まで母が送ってくれ、駅のホームで電車にのせて子供だけで長岡まで上越線で行きます。
清水トンネルは出来ていましたが、当時はまだ単線だったように思います。
列車がトンネルの中に長いこと止まってすれ違いの列車待ちや特急?列車の通過待ちなどで1時間近くトンネルの中で待たされるのです。
清水トンネルも山を登っていきますから、トンネルを出て下の方に入ってきたトンネルの入口が見えるのです。
冬でしたら川端康行の「雪国」の駒子のように「国境の長いトンネルをぬけると、そこは雪国であった」ということになるのですが、冬は子供だけで行くことは少なかったと思います。
冬は上野駅などに入ってくる列車の屋根に雪が積もっていて雪国とつながっているのを感じたものです。
もちろん夏休みに子供の兄弟だけで乗るのは鈍行列車ですから、上野から長岡まで7時間半くらいかかりました。
でも子供は列車に乗るのが楽しみで、途中の各駅の名前を暗記し、途中の高崎駅で「とりめし弁当」を買うのが楽しみでした。上野駅では買わずに、高崎につくとホームに下りて買ったり、窓から弁当売りが来るのを待ちます。
しかし停車時間もあまりなく、ホームでの弁当売りも忙しく、動き出してもまだお釣りを渡したりギリギリまで売っていました。
今ではこういう風情もなくなりましたね。
また上野駅で冷凍のミカン(4~5個くらいがネットに入っている冷凍されたミカン)を買ってもらって、途中で食べるのです。
昔の列車時はたぶんクーラなどなかったと思います。
夏は暑いので冷たいミカンが気持ちよかったのです。
昭和30年代に駅の売店ではブームとなっていて良く売れたそうです。
これも今のような冷凍とは違い、中までは凍っていません。皮の部分までが凍っているのです。
何回にもわけて水をかけながら凍らせていたそうです。
子供だけの長い旅は良いですね。是非今の子供たちにも経験させていただきたいものです。
我が家の下の2人の子供(女の子と男の子)が小学生の時に、子どもだけで東京の母(祖母)に家に電車で行かせたことがあります。
上野駅の乗り換え、東京駅の乗り換え、降りる駅の確認などを一生懸命に覚えて、出かけました。
そして、目的駅までいって、祖母の家に電話して、
「じゃあ、おばあちゃんはこれから迎えに行くから、駅から真っ直ぐ歩いて来て頂戴。途中で会おうね」
と電話でして、子どもたちは意気揚々と歩き始めました。
でも途中で会えなかったんです。
子供たちがあるいていた道は、真っ直ぐというのですが、駅を降りて通りに出てそこの広い通りを真っ直ぐ行くのですが、子どもたちは真っ直ぐと言われて広い通りを突きぬけて曲らずに商店会の中の道を真っ直ぐ進んでしまったのです。
そして、歩いてとうとう隣り駅まで歩いてしまいました。
携帯電話などありませんので、そこで公衆電話から電話してやっと何処にいるかわかって無事にたどり着いたというのです。
いまは物騒ですから、なかなか冒険もさせられませんね。
でもいつまでも親の庇護のもとにはいられませんので、どこかで自立させなければダメですね。
そんな中で、へき地や戦争地帯などに一人で行って、現地の人の家に泊めてもらい、その人たちの笑顔を撮り続けているカメラマンの方がおられます。ブログなども時々拝見します。
本当にすごいですね。日本人にも雑草魂がまだあるとほっとするんです。
最近の小さな家族主義では世界に負けることは必定です。考えさせられます。
企業は今後海外に生産拠点だけでなく、ソフト部門も移転していくことでしょう。
海外の人もたくさん企業に入ってくるようになりました。
中国人・フィリピン人・アラブ人たくさんになりました。
このような人とも競争していくことになります。
さて、道を間違えて隣り駅まで行ってしまった娘も来月結婚します。
4月からは娘婿となる方の海外赴任が決まっていて、一緒に3年くらいはオーストリアのウィーンに行くようです。
また冒頭に書いた長岡の祖父母から始まった本屋さんは残念ながら、時代の波に翻弄されて今はありません。
出版業界の非情も見えたりもして言いたいこともたくさんありますが、これも時代の流れですね。

昨日も少し雪が降りましたが溶けてしまいました。今朝は久しぶりに氷点下になったようです。
車のフロントガラスにも氷の結晶が一面に出来ました。
日が出てきたらすぐに溶けてしまいました。・ 春よ来い!

霜柱も少なくなりましたね。昔は庭などに10cmくらいの霜柱が立ったのですが、今ではすっかり少なくなりました。

この前書いた蝋梅(ロウバイ)の花は結構長く咲いています。でもその花の下にはご覧のように散った花がたくさん散らばっています。 このように花が次々咲いては散っていくのを繰り返しているのです。
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その祖父も先生をやめて、新潟の長岡で本屋さんを始めます。
本屋さんも軌道に乗り長岡でも大きな本屋になりました。
そして、その本屋も息子に譲り、毎日碁を打ったりしてのんびりしていた時の話です。
昔は、行商の物売りなどが良く玄関先にきていました。また碁打ちのお仲間が家に来られていました。
ある日祖父だけが家にいて、男の人が一人やってきました。
「あの、どちらさまですか?」
「はあ・・・あの もらいですが・・・」
「さて、どちらのもらい様でしょうか?」
男は、きまずそうに「おもらいですから、何でも結構です。何かいただけるものは・・・・」
そうです。昔はこのように家を訪ねて恵みをいただいている方もおられたのです。
この話もその時の時代を写していた話ですし、格好を見ればだいたい想像がつくでしょうに、まったくそのような事に頓着もなかった祖父の人柄を伝える話で好きです。
私達兄弟も中学生くらいまでは毎年、夏休みに長岡に遊びに行っていました。
(父方の祖父母は私が小学1年の時に相次いで亡くなり、母方の田舎(長岡)へ行く機会が多くなりました)
小学校低学年の頃も上野まで母が送ってくれ、駅のホームで電車にのせて子供だけで長岡まで上越線で行きます。
清水トンネルは出来ていましたが、当時はまだ単線だったように思います。
列車がトンネルの中に長いこと止まってすれ違いの列車待ちや特急?列車の通過待ちなどで1時間近くトンネルの中で待たされるのです。
清水トンネルも山を登っていきますから、トンネルを出て下の方に入ってきたトンネルの入口が見えるのです。
冬でしたら川端康行の「雪国」の駒子のように「国境の長いトンネルをぬけると、そこは雪国であった」ということになるのですが、冬は子供だけで行くことは少なかったと思います。
冬は上野駅などに入ってくる列車の屋根に雪が積もっていて雪国とつながっているのを感じたものです。
もちろん夏休みに子供の兄弟だけで乗るのは鈍行列車ですから、上野から長岡まで7時間半くらいかかりました。
でも子供は列車に乗るのが楽しみで、途中の各駅の名前を暗記し、途中の高崎駅で「とりめし弁当」を買うのが楽しみでした。上野駅では買わずに、高崎につくとホームに下りて買ったり、窓から弁当売りが来るのを待ちます。
しかし停車時間もあまりなく、ホームでの弁当売りも忙しく、動き出してもまだお釣りを渡したりギリギリまで売っていました。
今ではこういう風情もなくなりましたね。
また上野駅で冷凍のミカン(4~5個くらいがネットに入っている冷凍されたミカン)を買ってもらって、途中で食べるのです。
昔の列車時はたぶんクーラなどなかったと思います。
夏は暑いので冷たいミカンが気持ちよかったのです。
昭和30年代に駅の売店ではブームとなっていて良く売れたそうです。
これも今のような冷凍とは違い、中までは凍っていません。皮の部分までが凍っているのです。
何回にもわけて水をかけながら凍らせていたそうです。
子供だけの長い旅は良いですね。是非今の子供たちにも経験させていただきたいものです。
我が家の下の2人の子供(女の子と男の子)が小学生の時に、子どもだけで東京の母(祖母)に家に電車で行かせたことがあります。
上野駅の乗り換え、東京駅の乗り換え、降りる駅の確認などを一生懸命に覚えて、出かけました。
そして、目的駅までいって、祖母の家に電話して、
「じゃあ、おばあちゃんはこれから迎えに行くから、駅から真っ直ぐ歩いて来て頂戴。途中で会おうね」
と電話でして、子どもたちは意気揚々と歩き始めました。
でも途中で会えなかったんです。
子供たちがあるいていた道は、真っ直ぐというのですが、駅を降りて通りに出てそこの広い通りを真っ直ぐ行くのですが、子どもたちは真っ直ぐと言われて広い通りを突きぬけて曲らずに商店会の中の道を真っ直ぐ進んでしまったのです。
そして、歩いてとうとう隣り駅まで歩いてしまいました。
携帯電話などありませんので、そこで公衆電話から電話してやっと何処にいるかわかって無事にたどり着いたというのです。
いまは物騒ですから、なかなか冒険もさせられませんね。
でもいつまでも親の庇護のもとにはいられませんので、どこかで自立させなければダメですね。
そんな中で、へき地や戦争地帯などに一人で行って、現地の人の家に泊めてもらい、その人たちの笑顔を撮り続けているカメラマンの方がおられます。ブログなども時々拝見します。
本当にすごいですね。日本人にも雑草魂がまだあるとほっとするんです。
最近の小さな家族主義では世界に負けることは必定です。考えさせられます。
企業は今後海外に生産拠点だけでなく、ソフト部門も移転していくことでしょう。
海外の人もたくさん企業に入ってくるようになりました。
中国人・フィリピン人・アラブ人たくさんになりました。
このような人とも競争していくことになります。
さて、道を間違えて隣り駅まで行ってしまった娘も来月結婚します。
4月からは娘婿となる方の海外赴任が決まっていて、一緒に3年くらいはオーストリアのウィーンに行くようです。
また冒頭に書いた長岡の祖父母から始まった本屋さんは残念ながら、時代の波に翻弄されて今はありません。
出版業界の非情も見えたりもして言いたいこともたくさんありますが、これも時代の流れですね。

昨日も少し雪が降りましたが溶けてしまいました。今朝は久しぶりに氷点下になったようです。
車のフロントガラスにも氷の結晶が一面に出来ました。
日が出てきたらすぐに溶けてしまいました。・ 春よ来い!

霜柱も少なくなりましたね。昔は庭などに10cmくらいの霜柱が立ったのですが、今ではすっかり少なくなりました。

この前書いた蝋梅(ロウバイ)の花は結構長く咲いています。でもその花の下にはご覧のように散った花がたくさん散らばっています。 このように花が次々咲いては散っていくのを繰り返しているのです。


懐かしい時代の話にはほっとするものがありますね。
子供達だけでの列車の旅も安心してできた時代です。
最近は物騒になり子供達だけでの行動もかなり制限されてきていますね。
少し可哀そうな気もしますが・・・
それでも良き時代のお話は伝えていきたいものですね(^^)
> 懐かしい時代の話にはほっとするものがありますね。
今思えば少しの冒険なのですが、親は心配なんですね。
昔は何でものんびりしていました。
> 子供達だけでの列車の旅も安心してできた時代です。
> 最近は物騒になり子供達だけでの行動もかなり制限されてきていますね。
> 少し可哀そうな気もしますが・・・
> それでも良き時代のお話は伝えていきたいものですね(^^)
ありがとうございます。段々と世知辛くなり、子どもの数も少なくなって
最近は親が子離れしない人を多く見かけるようになりました。
まあ昔のようには行かないですが、昭和の良さももう少し知ってほしいですね。
そのほかいきなり玄関を開けて獅子舞をやりはじめるのもいました。この者は何も言わず獅子舞だけで、それでも家人はそれと察して小銭を与えて帰ってもらうのでした。
どちらも昼間来たから、食えない時代だったということなのでしょう、昭和30年ごろ。
ご連絡嬉しく思います。
> もらいと自称する人は石岡にもいました。これには子供だった自分も「応対」して、もらいという言葉がわからず、長岡のお祖父様と同じ対応をしたものでした。
確かに昔は各地にいたのでしょうね。
今は石岡にもおりますが都会にいくとホームレスが多くなりました。
裕福になったのと反比例して増えるのですから皮肉ですね。
> そのほかいきなり玄関を開けて獅子舞をやりはじめるのもいました。この者は何も言わず獅子舞だけで、それでも家人はそれと察して小銭を与えて帰ってもらうのでした。
獅子舞いもその手の者もあったのでしょうね。今では獅子舞いも見かけません。
石岡の獅子頭の歴史も誰もはっきりさせませんね。言いたくないようです。
誰もはっきり知らないのではないでしょうか。
お祭りは「そういうものだ」というだけで伝わってきて、由緒やいわれが語り伝えられているとは思えないですが。一部には伝承があるのか文書に少し見るものもありますが。
いずれにしても、石岡の祭りは、獅子あり山車あり神輿あり、それにささらもありの何でもありの奇祭と言うべきかもしれません。祭りの習俗を考えると精神構造や行動規範がわかってきて、ついには自分の意識の根底もわかるのかな、などと検討課題にあげているところでした。
確かに今年は寒いですが、昔はこれが当たりマエダのクラッカー(失礼、古すぎますね)
霜柱も毎日のように見られましたよね?
学校に行く前わざと踏んで遊んでましたもの。
平日昼間は勤めておりますので返信できませんでした。
> お祭りは「そういうものだ」というだけで伝わってきて、由緒やいわれが語り伝えられているとは思えないですが。一部には伝承があるのか文書に少し見るものもありますが。
おまつりについてもルーツもそれなりに以前書かせていただきました。
獅子頭を市のシンボルにしているのですが、由来がはっきりしないですね。
いろいろな考えがあるでしょうが、伝えられている話もあるのですからもう少しはっきりさせても良いように感じています。
柿岡の館獅子はルーツがあるようですが、石岡の方は江戸時代に別なところから伝わったように思います。
> いずれにしても、石岡の祭りは、獅子あり山車あり神輿あり、それにささらもありの何でもありの奇祭と言うべきかもしれません。祭りの習俗を考えると精神構造や行動規範がわかってきて、ついには自分の意識の根底もわかるのかな、などと検討課題にあげているところでした。
これも山車の数も多いし、幌獅子も変わっていますよね。良く考えたものだと思います。
> 素敵ですね、特にフロントガラスの氷の結晶のお写真、絵葉書にしたいな~❄
この写真あまりに単純だから消そうかと思っていました。
今日の朝はもっと結晶が細かくて面白かったですよ。
> 霜柱も毎日のように見られましたよね?
> 学校に行く前わざと踏んで遊んでましたもの。
昔は土の道路が多かったせいもありそうですが、寒さも強かったのかもしれませんね。
踏みつぶすのは楽しかったです。
おじい様何て素敵でご立派な方でしょうか!!
見かけや服装で判断せず 疎ましく追い払うこともなく 真っ直ぐに他の方と同じように平等にと遇されて・・・・お人柄が伝わってきます。
ファンになってしまいました。(*^_^*)
冷凍ミカンも懐かしい!!
旅と言えば必ず一年を通して冷凍ミカンが売られていましたね。
お茶も瀬戸物の四角い急須型で おちょこのような湯のみが蓋の上にかぶさっていました。
大きなやかんを持ったおじさんが お茶を満杯に継いでくれての販売でした。
子供の頃はこの空容器も大切に持ち帰り ままごと遊びの大切な道具として集めました。
その後で 半透明のプラスッチック型急須になりお茶もティーパックになりました。
これは持ち帰らないし 集めませんでした。
霜柱を見つけては キュッキュッと踏んで足裏から伝わる感触と音を楽しんだものでした。
べあべあさまの
>昔はこれが当たりマエダのクラッカー
も懐かしいです(*^_^*)
何だか3丁目の夕日ではありませんが 懐かしい昭和が一杯ですね♪~
心がほんわりします。良いお時間を頂きました。
> 見かけや服装で判断せず 疎ましく追い払うこともなく 真っ直ぐに他の方と同じように平等にと遇されて・・・・お人柄が伝わってきます。
> ファンになってしまいました。(*^_^*)
とてもうれしいです。まあ本屋と言っても商売は下手であまり物事に頓着しなかったようです。
ゴマ塩のひげを生やしたあごや頬で孫の私達の顔に押し当てて痛がるのをニコニコしていました。
懐かしい思い出です。
> 冷凍ミカンも懐かしい!!
> 旅と言えば必ず一年を通して冷凍ミカンが売られていましたね。
知っておられるのですか。駅の売店で昭和30年代初期はは出始めで珍しいものでしたが、
あっという間に広がったようです。
でも列車が冷房が入るようになって見かけなくなりましたね。
> お茶も瀬戸物の四角い急須型で おちょこのような湯のみが蓋の上にかぶさっていました。
そうです。これを窓側の桟の上に置いて飲みました。
> 子供の頃はこの空容器も大切に持ち帰り ままごと遊びの大切な道具として集めました。
物を大切にされていたのですね。高崎のダルマ弁当の容器も持って帰りました。
> 霜柱を見つけては キュッキュッと踏んで足裏から伝わる感触と音を楽しんだものでした。
今はアスファルトになって、車も通るので地面も堅くなったせいかあまり見かけませんね。
温かくなったのかもしれません。
> べあべあさまの
> >昔はこれが当たりマエダのクラッカー
> も懐かしいです(*^_^*)
良くご存じなのですね。藤田まことに白木みのるでしたか・・・。
> 何だか3丁目の夕日ではありませんが 懐かしい昭和が一杯ですね♪~
> 心がほんわりします。良いお時間を頂きました。
こちらもありがとうございます。