子供の頃の思い出(3)-ニシキヘビ
今日は横浜にいた頃の思い出です。
3歳くらいから小学1年生くらいまで住んでいたのですが、小さな家です。
その時に雪が降った時に玄関を開けていたら野良犬が家の中にノコノコと迷い込んできました。
玄関が高くなっていればそんなこともないのでしょうが、子どもにとっては家の大きさなどどうでもよいことで何とも思ったことはないのですが、母が一言言った言葉がまだ忘れられません。
「いやだよ。この犬、外と間違って家に入ってきてしまって・・・・」
小さな家で外と区別もできないほどのバラックのような家だったのです。
そんな家でも子供にとってはどんな家でも恥ずかしいなんてことはありません。近くの山(八聖殿)の上にキリスト系の保育園(高風保育園→こちら)がありました。
当時はまだ幼稚園や保育園に行くのはそれ程多くはなく、小学校からと言う人も普通におりました。
そこに1年だか半年だったか通ったのですが、卒園式に私ともう一人の女の子で卒園の答辞を読むことになり、そんな家の中で一生懸命練習していたといっていました。答辞を読むなんてすごいでしょ。
何で選ばれたのかはわかりません。
入園の当日はいやで家に逃げようと山道でころんで保育園に連れ戻されたドジな男の子です。
2年前に兄は見事に逃げ帰りに成功したのに・・・。
その女の子は今どうしているかなど顔も全く思い出せません。
しかし私はその女の子のリードされるままに読んでいたようです。そんな時男の子は頼りないですね。
オネショタレの鼻水小僧でした。
さて、横浜に「野毛山動物園」がありました。
そこには小動物がいて、大した動物はいなかったようなのですが、ニシキヘビがいるというので楽しみに見に行きました。
ニシキヘビの小屋の前で私と兄は怪訝な顔をしてのぞき込んでいたようです。
「ねえ、かあさん このへび二匹いないよ。なんでニヒキヘビなのに1匹しかいないの?」
大笑いですよね。横浜も東京と同じく「ヒ」と「シ」の区別ができません。
兄弟2人してニシキヘビは「二匹へび」だと思い込んでいたのです。
こんなヘビかと思って見ていたんですね。
野毛山の動物園のことも「下の動物園」と言っていました。
「上野動物園」に対して「下の動物園」です。
これはまったく信じ切っていたようです。
「ねえ、お母さん 下の動物園連れてって!」とよくせがんだんです。
そしてある時事件が起こりました。
母と子供二人で動物園に来て、夕方帰ろうとしたら母があわててサイフがないというのです。
その頃は結構スリがいましたので、盗まれてしまったのでしょう。帰りの市電の電車賃が無いのです。
動物園の入口近くに交番がありました。
母はわけを行って交番で電車賃を貸してもらって無事に帰ってこれたのです。
今でも交番では言えば貸してもらえるかもしれませんが、借りたのはその時だけです。
子供の頃の交番と言えば10円(昔のことですから1円だったかもしれません)拾って届けたことがある位ですね。
その時おまわりさんは何と言ってくれたのか思いだせないのですが、今では小さな子供が拾った10円は遺失物として受け取り、ポケットマネーで子供に10円を出すと聞いたことがあります。
私が横浜にいた頃はまだ1円札と言うのがありました。10銭、50銭なんていうのもあったようです。
お菓子と言えば駄菓子屋さんで、飴玉を買っていたように思います。
おまわりさんも大変ですね。正直な子供を育てるのもお仕事かもしれません。

(小美玉市「池花池」)(サムネルです。クリックで大きな写真となります)
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3歳くらいから小学1年生くらいまで住んでいたのですが、小さな家です。
その時に雪が降った時に玄関を開けていたら野良犬が家の中にノコノコと迷い込んできました。
玄関が高くなっていればそんなこともないのでしょうが、子どもにとっては家の大きさなどどうでもよいことで何とも思ったことはないのですが、母が一言言った言葉がまだ忘れられません。
「いやだよ。この犬、外と間違って家に入ってきてしまって・・・・」
小さな家で外と区別もできないほどのバラックのような家だったのです。
そんな家でも子供にとってはどんな家でも恥ずかしいなんてことはありません。近くの山(八聖殿)の上にキリスト系の保育園(高風保育園→こちら)がありました。
当時はまだ幼稚園や保育園に行くのはそれ程多くはなく、小学校からと言う人も普通におりました。
そこに1年だか半年だったか通ったのですが、卒園式に私ともう一人の女の子で卒園の答辞を読むことになり、そんな家の中で一生懸命練習していたといっていました。答辞を読むなんてすごいでしょ。
何で選ばれたのかはわかりません。
入園の当日はいやで家に逃げようと山道でころんで保育園に連れ戻されたドジな男の子です。
2年前に兄は見事に逃げ帰りに成功したのに・・・。
その女の子は今どうしているかなど顔も全く思い出せません。
しかし私はその女の子のリードされるままに読んでいたようです。そんな時男の子は頼りないですね。
オネショタレの鼻水小僧でした。
さて、横浜に「野毛山動物園」がありました。
そこには小動物がいて、大した動物はいなかったようなのですが、ニシキヘビがいるというので楽しみに見に行きました。
ニシキヘビの小屋の前で私と兄は怪訝な顔をしてのぞき込んでいたようです。
「ねえ、かあさん このへび二匹いないよ。なんでニヒキヘビなのに1匹しかいないの?」
大笑いですよね。横浜も東京と同じく「ヒ」と「シ」の区別ができません。
兄弟2人してニシキヘビは「二匹へび」だと思い込んでいたのです。

野毛山の動物園のことも「下の動物園」と言っていました。
「上野動物園」に対して「下の動物園」です。
これはまったく信じ切っていたようです。
「ねえ、お母さん 下の動物園連れてって!」とよくせがんだんです。
そしてある時事件が起こりました。
母と子供二人で動物園に来て、夕方帰ろうとしたら母があわててサイフがないというのです。
その頃は結構スリがいましたので、盗まれてしまったのでしょう。帰りの市電の電車賃が無いのです。
動物園の入口近くに交番がありました。
母はわけを行って交番で電車賃を貸してもらって無事に帰ってこれたのです。
今でも交番では言えば貸してもらえるかもしれませんが、借りたのはその時だけです。
子供の頃の交番と言えば10円(昔のことですから1円だったかもしれません)拾って届けたことがある位ですね。
その時おまわりさんは何と言ってくれたのか思いだせないのですが、今では小さな子供が拾った10円は遺失物として受け取り、ポケットマネーで子供に10円を出すと聞いたことがあります。
私が横浜にいた頃はまだ1円札と言うのがありました。10銭、50銭なんていうのもあったようです。
お菓子と言えば駄菓子屋さんで、飴玉を買っていたように思います。
おまわりさんも大変ですね。正直な子供を育てるのもお仕事かもしれません。

(小美玉市「池花池」)(サムネルです。クリックで大きな写真となります)


1円で買える飴玉がありました。まんまるで硬い、ザラメをまぶしたような文字どおり飴玉で、駄菓子屋の丸いアルミ蓋が付いた四角いガラスびん(?)に入っていたように記憶してます。あるいは平置きの四角い浅い箱にガラス板がはめられた蓋がついた入れ物だったか、定かではありませんが…
四角のガラス瓶にブリキ?の蓋がついた中に飴玉が入っていましたね。
1円玉もって買えたんですよね。
今でも石岡には駄菓子屋さんが残っています。
懐かしいですね。
横浜では住んでいた隣りに親戚がいて駄菓子屋さんでした。
私の小学校の校歌で校訓の「正直・礼儀・親切」が入ります
「しょうじーきれいーぎしんーせつのー」と歌うわけですが、
二年生くらいまで「障子綺麗に親切の」と掃除の教えだと思ってました、
ほんとまじで( ̄▽ ̄*)
げっきょくさんは、響きが きっちょむさんみたいでいいですね、
たぶんほら吹き長者さんです(^^
> にひきへびいいですね( ^o^)
どうもです。
> 私の小学校の校歌で校訓の「正直・礼儀・親切」が入ります
> 「しょうじーきれいーぎしんーせつのー」と歌うわけですが、
> 二年生くらいまで「障子綺麗に親切の」と掃除の教えだと思ってました、
> ほんとまじで( ̄▽ ̄*)
これは、漢字で見なければ理解できない。
今でも歌われているんでしょうね。
そして皆んな家の障子を破ったりするなって・・・。
> げっきょくさんは、響きが きっちょむさんみたいでいいですね、
> たぶんほら吹き長者さんです(^^
でもはじめて見たら月極(つきぎめ)なんて読めない。
横浜は浜っ子はみんなヒとシの区別は出来なかったです。
忠顕さまの記憶の通りの駄菓子屋ありましたね。懐かしいですね。(*^_^*)
Romanさまの にひきへび可愛いですね♪~
次男も子供の頃「赤い靴履いてた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった~♪)と哀しい歌詞なのですが「良い爺さんに連れらて行った」と思っていたり(うさぎ追いしかの山~)を聞いて(うさぎさんって美味しいの?)と哀しそうに聞きに走ってきたりしたことなど・・・etc懐かしく思い出しました。
叶うことなら手繰り寄せたい懐かしい思い出が一杯です。良いお時間を頂きました(*^_^*)有難うございました。
懐かしい昔話も、書いているうちに懐かしくなってきます。
まあ、手前味噌な思い出だけですが、子どもの頃の思い出も懐かしむ年なのかもしれません。
駄菓子屋さんがまだ石岡にあるんですよ。
昔風のお店で看板mの出していないのに小学生がいつも来ています。
このニシキヘビのイメージに合わせたのですが、ヘビが嫌いな方が多いので少し気を使いました。(笑)
赤い靴の歌詞は北茨城に歌碑があり、横浜にもありますね。
何かジーンとくるものがあります。
北茨城の野口雨情の生家も今度の震災で家の中の高さで1.5mの津波をかぶったみたいです。
でも5月には再開できたそうで、資料も何とか避難で来て無事だったそうです。
たまには昔を懐かしむのもいいですよね。 お便りうれしいです。