子供の頃(新諸国物語)
先週土曜日までは天気も悪く寒い日が続いたのでいつになったら春が来るのだろうと思っていました。
ところが今週になって、天気予報ではまだ寒い日が続き冬に戻るようなことも言っていましたが、もうそんなことはありません。
いつもと同じ時間に、いつもと同じ道を車で走っています。今週から見える風景も、吹く風も、差してくる日差しや木々の影の長さまで「もう春ですよ」とささやいています。
畑に貼られた色紙テープに日が当ってキラキラ輝いています。
筑波山の頂の色も春らしくなりました。
恋瀬川を眺めれば、春の日差しで水面(みなも)がきらきら輝きます。
そこに水鳥が楽しそうに泳いでいます。
昨日まで硬く閉ざしていた梅のつぼみがパッと開いて野山に明るい彩りがつけられました。
雪の降る地方はまだ春が実感されていないようですが、あと1~2週間でそちらにも届きそうです。
土の中から虫が這い出てきますね。(啓蟄は3月6日でしたから、暦の上ではもう過ぎてしまいましたね)
さて、石岡の街並みや古東海道などを順に紹介する予定ですが、毎日書いているとどうしてもネタが切れてくるんです。
そのため時々子供の頃の思い出話などを混ぜて見たのだけれど、これはこれで結構大変ですね。
でも、若い人にとっては私の話もすでに歴史ですね。(笑)
私の小さい子供の時(まだ横浜にいた小学1年生までの頃)にはまだテレビはありませんでした。
その頃はラジオとたまに見る映画が娯楽の中心で、マンガはありました。
漫画では「幼年ブック」があり、「さいころコロ助」など夢中で読んでいた記憶があります。
また映画ではディズニーのダンボが昭和29年に公開され、きれいな色にとても驚いた記憶があります。
日本の映画は時代劇が多く、ちょうどその頃にカラー映画が始まったのではないでしょうか。
必ずカラー映画は「総天然色」と銘うって宣伝されていました。
今日は、ラジオドラマのお話を少しさせてください。
当時NHKラジオで子供向けに放送されたのが「新諸国物語」シリーズで、「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」「怪人二十面相」「黄金バット」「赤胴鈴之助」などと続くのですが、もっとも記憶に残っているのは笛吹童子と紅孔雀です。
夕方この放送があるから遊んでいても必ずみんな家に帰りました。
笛吹童子は昭和28年の1年間。
紅孔雀は昭和29年の1年間。
放送時間は日曜日を除く夕方6:30~6:45の15分間です。
4歳の終わり頃から2年間聞いたのですが、今でもこの主題歌はおぼえています。
でも胸躍らせて聞いたお話の内容はほとんど覚えていません。
まだ小さかったので忘れてしまっても不思議ではないでしょう。
でもこの主題歌は今でもかなり歌えるんですよ。
♪ヒャラーリヒャラリコ、ヒャリーコヒャラレロ 誰が吹くのか不思議な笛だ。:笛吹童子
♪まだ見ぬ国に住むという紅き翼の孔雀どり、秘めし願いを知ると言う秘めし宝を知ると言う:紅孔雀
(横浜でしたので覚えていたのは 「秘めし宝」などは「しめし宝」と歌っておりました。(笑))
その後映画になったり、テレビでも製作されたようですが、このラジオの世界は独特でした。
想像力をいっぱいにふくらませて聞くことができるのです。
もちろん私より少し後の世代は「赤胴鈴之助」などを思い浮かべるでしょう。
これには吉永小百合が千葉周作の娘の声を担当していました。
真空斬りなどと言うのが男の子ではブームになったのです。
小説を読んで感じたものが映画となって見た時にがっかりすることが良くありますが、それと同じようなものかもしれません。
テレビで育った子供は想像力が限られてしまって楽しさも半減でしょう。
もちろん映像による楽しさは別な楽しさが加わりますので、楽しみ方は違って当然かもしれません。
でも、テレビがないから可哀そうなどと言うことはありません。
逆にテレビがない時代を知らないことは少しつまらないんじゃないかと思ってしまいます。
テレビがないと、子どもたちは外で走り回って遊んで、この時間(6時頃)には決まって家にみんな帰っていたんです。
貧しいけれど楽しい時代でした。砂糖などは高級でサッカリンなどと言うも使っていました。
その後ダイエットに砂糖の代わりに使われたりしたようですが、今では発がん性の疑いが少しあるかもしれないといわれて使用されていないようです。
牛肉などはあまり食べられませんが、イワシは安く手に入りました。
それをすりこぎですりつぶして丸めてお団子にして揚げたり、みそ汁に入れれば、とても美味しく骨も丈夫になったに違いありません。
先日雛まつりが過ぎてからお人形店の前を通ると、今まで飾ってあった雛人形はすべてなくなり、代わりに端午の節句に合わせて、武者人形や兜がたくさん並べられていました。
ああもうすぐ5月が来るのかなどと、まだ先なのに思わされました。
男の子はやはりチャンバラごっこですよね。簡単なアニメを作ってみました。
イラスト画像も左右反転や円周方向に回転することはすぐできるのだけれど、横向けたりは三次元でないので無理ですね。3D画像でなければまあ無理ですね。
アニメももう終わりです。(あまり単純すぎますね)

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ところが今週になって、天気予報ではまだ寒い日が続き冬に戻るようなことも言っていましたが、もうそんなことはありません。
いつもと同じ時間に、いつもと同じ道を車で走っています。今週から見える風景も、吹く風も、差してくる日差しや木々の影の長さまで「もう春ですよ」とささやいています。
畑に貼られた色紙テープに日が当ってキラキラ輝いています。
筑波山の頂の色も春らしくなりました。
恋瀬川を眺めれば、春の日差しで水面(みなも)がきらきら輝きます。
そこに水鳥が楽しそうに泳いでいます。
昨日まで硬く閉ざしていた梅のつぼみがパッと開いて野山に明るい彩りがつけられました。
雪の降る地方はまだ春が実感されていないようですが、あと1~2週間でそちらにも届きそうです。
土の中から虫が這い出てきますね。(啓蟄は3月6日でしたから、暦の上ではもう過ぎてしまいましたね)
さて、石岡の街並みや古東海道などを順に紹介する予定ですが、毎日書いているとどうしてもネタが切れてくるんです。
そのため時々子供の頃の思い出話などを混ぜて見たのだけれど、これはこれで結構大変ですね。
でも、若い人にとっては私の話もすでに歴史ですね。(笑)
私の小さい子供の時(まだ横浜にいた小学1年生までの頃)にはまだテレビはありませんでした。
その頃はラジオとたまに見る映画が娯楽の中心で、マンガはありました。
漫画では「幼年ブック」があり、「さいころコロ助」など夢中で読んでいた記憶があります。
また映画ではディズニーのダンボが昭和29年に公開され、きれいな色にとても驚いた記憶があります。
日本の映画は時代劇が多く、ちょうどその頃にカラー映画が始まったのではないでしょうか。
必ずカラー映画は「総天然色」と銘うって宣伝されていました。
今日は、ラジオドラマのお話を少しさせてください。
当時NHKラジオで子供向けに放送されたのが「新諸国物語」シリーズで、「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」「怪人二十面相」「黄金バット」「赤胴鈴之助」などと続くのですが、もっとも記憶に残っているのは笛吹童子と紅孔雀です。
夕方この放送があるから遊んでいても必ずみんな家に帰りました。
笛吹童子は昭和28年の1年間。
紅孔雀は昭和29年の1年間。
放送時間は日曜日を除く夕方6:30~6:45の15分間です。
4歳の終わり頃から2年間聞いたのですが、今でもこの主題歌はおぼえています。
でも胸躍らせて聞いたお話の内容はほとんど覚えていません。
まだ小さかったので忘れてしまっても不思議ではないでしょう。
でもこの主題歌は今でもかなり歌えるんですよ。
♪ヒャラーリヒャラリコ、ヒャリーコヒャラレロ 誰が吹くのか不思議な笛だ。:笛吹童子
♪まだ見ぬ国に住むという紅き翼の孔雀どり、秘めし願いを知ると言う秘めし宝を知ると言う:紅孔雀
(横浜でしたので覚えていたのは 「秘めし宝」などは「しめし宝」と歌っておりました。(笑))
その後映画になったり、テレビでも製作されたようですが、このラジオの世界は独特でした。
想像力をいっぱいにふくらませて聞くことができるのです。
もちろん私より少し後の世代は「赤胴鈴之助」などを思い浮かべるでしょう。
これには吉永小百合が千葉周作の娘の声を担当していました。
真空斬りなどと言うのが男の子ではブームになったのです。
小説を読んで感じたものが映画となって見た時にがっかりすることが良くありますが、それと同じようなものかもしれません。
テレビで育った子供は想像力が限られてしまって楽しさも半減でしょう。
もちろん映像による楽しさは別な楽しさが加わりますので、楽しみ方は違って当然かもしれません。
でも、テレビがないから可哀そうなどと言うことはありません。
逆にテレビがない時代を知らないことは少しつまらないんじゃないかと思ってしまいます。
テレビがないと、子どもたちは外で走り回って遊んで、この時間(6時頃)には決まって家にみんな帰っていたんです。
貧しいけれど楽しい時代でした。砂糖などは高級でサッカリンなどと言うも使っていました。
その後ダイエットに砂糖の代わりに使われたりしたようですが、今では発がん性の疑いが少しあるかもしれないといわれて使用されていないようです。
牛肉などはあまり食べられませんが、イワシは安く手に入りました。
それをすりこぎですりつぶして丸めてお団子にして揚げたり、みそ汁に入れれば、とても美味しく骨も丈夫になったに違いありません。
先日雛まつりが過ぎてからお人形店の前を通ると、今まで飾ってあった雛人形はすべてなくなり、代わりに端午の節句に合わせて、武者人形や兜がたくさん並べられていました。
ああもうすぐ5月が来るのかなどと、まだ先なのに思わされました。
男の子はやはりチャンバラごっこですよね。簡単なアニメを作ってみました。
イラスト画像も左右反転や円周方向に回転することはすぐできるのだけれど、横向けたりは三次元でないので無理ですね。3D画像でなければまあ無理ですね。
アニメももう終わりです。(あまり単純すぎますね)



それに対し、自分が子供だったころの記憶は確かな生活と思いが残っているのにそれを裏付けるモノはもう在りません。しかしどちらも歴史遺産として、受け渡す価値があるものだと思います。
ラジオ番組というソフトはラヂヲ受信機というハードと結びつきその機械はは街にいくつもあったラジオ屋という商売ないし生活と結びついていました。もちろん昔はハード・ソフトなどという言葉も概念もありませんが。
町には電気屋とラジオ屋は別にありました。そしてラジオは主にラジオ屋に頼んで作ってもらうものだったのが、この笛吹童子などのころからは買うものに変わっていったのでした。
ラジオ屋の看板を見るだけでも、そうした歴史に思い致すものです。
こんばんは。コメントありがとうございます。
> 古い家や街並みや、はたまた遺跡の残骸を見て有ったかどうかも定かでないものに思いを馳せるのは、そこに居たひとびとの生活や思いです。
そうですね。私もこの地で史跡などを訪ねた時には昔のその時に生活していた人の思いを感じることが良くあります。そんなことが好きなのがこのブログを始めたきっかけです。
観光案内は何と味気ないんでしょうか。
> それに対し、自分が子供だったころの記憶は確かな生活と思いが残っているのにそれを裏付けるモノはもう在りません。しかしどちらも歴史遺産として、受け渡す価値があるものだと思います。
そうですか。
そんな価値があるかはよくわかりませんが、何か残しておきたい気持ちになりました。
> 町には電気屋とラジオ屋は別にありました。そしてラジオは主にラジオ屋に頼んで作ってもらうものだったのが、この笛吹童子などのころからは買うものに変わっていったのでした。
> ラジオ屋の看板を見るだけでも、そうした歴史に思い致すものです。
確かに昔は「ラヂオ屋」さんがありましたね。石岡の「中村ラジオ店」さんのことをお聞きしてネットで検索したら全国に「ラジオ店」さんが今でもたくさんありました。
同じかどうかはわかりませんが「中村ラジオ店」という名前は長野にたくさんありました。
この名前に愛着と郷愁を感じるのでしょうか。
むかし中学くらいにはトランジスタがたくさん売られていて、ラジオを製作したりしました。
はんだゴテなど使って・・・・
そんな雑誌が売られていて流行りだったのです。