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出島散歩(6)(南円寺1)

 湖の先端に行くのに通りを走っていて偶然見つけた「花の寺」の看板。
「五智山南圓寺」と書かれている。一度通り過ぎて気になって戻って寺の駐車場へいった。
駐車場も整備されていてきれいな寺だった。

通りの反対側には「南圓寺信徒会館」などもある大きなお寺である。

調べて見ると、このお寺は結構興味深い。
1374(応安7)年、この地を治めていた小田孝朝が、小田城の守りとして定めた小田領4ケ寺(普門寺、大聖寺、法泉寺、南円寺)の一つだそうだ。

前に筑波古道である「つくば道」を紹介した(こちら)時に、道の途中にあったお寺が「普門寺」で、この名前を懐かしく思い出した。

小田氏はこれら4つの寺を祈願所(小田四箇寺)に定め、寺もこの時(鎌倉・室町)時代に勢力を拡大したようだ。
また当時の普門寺は僧兵五百、こちらの南円寺は僧兵三百となっており、末寺もそれぞれ百以上持っていたそうである。

この話から石岡(府中)の三村城の秘話(こちら)を思い出した。
府中城の大掾(だいじょう)貞国の弟の大掾常春(つねはる)がこの小田氏の進入を防ぐために恋瀬川の対岸にある三村の城主となって守っていたが、1573年に落城し、常春は25歳の短い運命を閉じた。

また、この攻防を聞いた府中城から応援に駆け付けた援軍は、恋瀬川の高浜に近い対岸の高台で城の燃えるのをながめ、間にあわなかったのを嘆きその場で自害した。その数197人。麓の香勢堂墓地に地蔵が建っている。
これも偶然見つけて昔ブログに書いた。(こちら

この三村城(現三村小学校敷地)とこの南円寺とは直接台地でつながっており間にさえぎるものはない。
小田氏との攻防も厳しいものがあったのだという感じが伝わってくる。

また先日紹介している歩崎の観音様(行基菩薩の作といわれる)と同じ木で作られた三体のうちの一つがあるという。
国宝級の茨城三観音といわれるらしい。どんなものか見て見たい。

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寺の山門。山門を入ると梅や桜の木が迎えてくれる。
まだ梅も2~3分咲きくらいでこれからであったが、もう少ししたら綺麗な花が見られそうだ。

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寺の境内には「長谷寺」の案内が書かれていた。
奈良の長谷寺も真言宗豊山派の寺で十一面観音を本尊としているので、こちらも同じ豊山派なのだろう。

奈良長谷寺は牡丹の花が有名なので、こちらにも牡丹があるのか?
庭を見て回ったら、シャクナゲの木がいくつか目についた。
シャクナゲといって思い出すのは女人高野室生寺である。
こちらの室生寺も真言宗(室生寺派)で国宝の十一面観音像がある。

上の写真の右側に並んでいる石像はなかなか面白いものが置かれていた。明日紹介します。

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咲き始めた紅梅とバックの赤い鐘楼堂がきれいなコントラストを映していました。

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そしてすぐ近くには白梅が僅かに花を咲かせていました。(3月15日)

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寺の本堂です。

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境内に置かれていた古い観音石像です。



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出島散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/03/21 19:12
コメント
三村城援軍
古今東西の戦史にも興味を持っているので、三村城への援軍が自刃したお話に、オヤ?と思いました。
情景からすると会津の白虎隊のようですが、状況は全く別ですし、なぜその事件が起きたか本当はどうだったのか興味が湧きます。
弔いの六地蔵は事件から百年後の江戸時代?とすると原本の『南城実録』もその時代ですか。
兵農分離の無い時代と藩の禄を食む武家社会のものの捉え方は全く違い、はたして援軍の農兵皆心ひとつになって自害したのか。彼らは誰に何に被支配意識を持っていたのかが鍵だと思いますが、室町時代の他の戦史にこのような例があったか、いま思い出せません。
Re: 三村城援軍
忠顕さま

> 古今東西の戦史にも興味を持っているので、三村城への援軍が自刃したお話に、オヤ?と思いました。
> 情景からすると会津の白虎隊のようですが、状況は全く別ですし、なぜその事件が起きたか本当はどうだったのか興味が湧きます。

このお話は確かにおかしなところがたくさんあります。
府中城や外城の兵士といっても兵農一緒の時代ですから、何故自刀する必要があったのか?

> 弔いの六地蔵は事件から百年後の江戸時代?とすると原本の『南城実録』もその時代ですか。

この「南城実録・三村記」がいつ書かれたものか知りません。
今度わかれば調べて見たいと思います。
しかし何故か府中城の詳しい資料がほとんどありません。
三村城については結構細かくでてきます。人物の名前まで。
麓の常春寺に恐らく残されているのだと思います。
地元の方は住職からお話としてお聞きしたりしているようです。
機会があったら聞いてみたいですが、史実と言えるのか??

このブログなどで書いている話は歴史家であれば検証したりしなければ
いけないのだと思いますが、まあここは「こんなお話もあるよ」程度に
書いています。御批判もきっとあることでしょう。
でも史実として書かれた本なども嘘がたくさんありそうです。

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