出島散歩(11)(宍倉城本丸跡)
霞ケ浦大橋の手前から石岡三村の方に向かう街道(県道118号)があります。
あまり何もないところなのですが、ここに「宍倉城本丸跡」があります。
この城は永享年間(1429年~1440年)に野口遠江守が筑城し、その後小田氏の有力家臣である菅谷氏の城となっていました。
その後小田氏が佐竹氏に追い込まれていく中でどうやら佐竹氏側についたようです。
しかし、佐竹氏が秋田(出羽)に移ると(1602年)、それに伴って秋田にいったようです。
そしてこの城は廃城となりました。

県道の入口に矢印看板がありました。 近くにはミカンの木が。入口道路は車1台が入れるくらいの広さです。
手前で停めて、歩いていってみました。

そこは広い畑が一面に広がる台地です。
訪れた時はもう夕方で日が沈みかけています。

このように一面畑が広がります。周りに梅の木が数本あります。
本丸の大きさからするとかなり大きな城だったようです。
またこの城の周りには家臣の住宅などを配し、大きな城郭を形成していたようです。

この台地の一角に「城之内稲荷神社」が置かれています。



土塁などはよくわかりませんが、この台地を囲むように堀が彫られていた形跡が残されています。

稲荷神社の狐さんです。

神社から本丸跡を眺めてみました。この狐さんもどうやらそちらを見ているようです。
地理的に見て三村城で北の敵へ攻めるために城を出たすきをついて、攻めてきたのはこの菅谷氏あたりが小田側の主力だったのかもしれません。
石岡側から見ているだけではまわりの情勢が見えません。こういうところも見ておくことも必要です。
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あまり何もないところなのですが、ここに「宍倉城本丸跡」があります。
この城は永享年間(1429年~1440年)に野口遠江守が筑城し、その後小田氏の有力家臣である菅谷氏の城となっていました。
その後小田氏が佐竹氏に追い込まれていく中でどうやら佐竹氏側についたようです。
しかし、佐竹氏が秋田(出羽)に移ると(1602年)、それに伴って秋田にいったようです。
そしてこの城は廃城となりました。

県道の入口に矢印看板がありました。 近くにはミカンの木が。入口道路は車1台が入れるくらいの広さです。
手前で停めて、歩いていってみました。

そこは広い畑が一面に広がる台地です。
訪れた時はもう夕方で日が沈みかけています。

このように一面畑が広がります。周りに梅の木が数本あります。
本丸の大きさからするとかなり大きな城だったようです。
またこの城の周りには家臣の住宅などを配し、大きな城郭を形成していたようです。

この台地の一角に「城之内稲荷神社」が置かれています。



土塁などはよくわかりませんが、この台地を囲むように堀が彫られていた形跡が残されています。


稲荷神社の狐さんです。

神社から本丸跡を眺めてみました。この狐さんもどうやらそちらを見ているようです。
地理的に見て三村城で北の敵へ攻めるために城を出たすきをついて、攻めてきたのはこの菅谷氏あたりが小田側の主力だったのかもしれません。
石岡側から見ているだけではまわりの情勢が見えません。こういうところも見ておくことも必要です。


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