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出島散歩(21)-志戸崎(2)

 昨日書いた志戸崎地区の街並みを少し紹介します。
この街中を通る湖岸沿いの県道は今春バイパスができて、この街中や歩崎公園前を通らずに霞ヶ浦大橋の方に行くことができるようになりました。

これは便利ではありますが、街中の景色が徐々に無くなっていくようであり寂しい気もします。
元々漁港以外にはこれといったところでもないので気になります。

これはわが街も同じ。現在6号のバイパス工事をしていますので、そのうちにレストランが連なっている通りが寂れてしまわないかととても心配です。

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これは「大国屋商店」さんです。結構古い建物のようです。

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お店の中には生活雑貨類が置かれています。雑貨屋さんでしょうか。
店の前に年季の入った灯油などの給油機があります。
どうやら雑貨よりも燃料を街の家々や船などに卸しているのではないかと思います。
店の入口に掲げられている額には「液化石油ガス販売事業者証」がありました。

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横から見るとこんな感じです。土蔵・石蔵の造りと同じようです。

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この大国屋さんの隣はものすごく大きな屋根の家です。昔は藁葺きの家の作りをそのまま瓦屋根にしたのでしょうか。

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このお宅は商売をされていないように見えますが、「タバコ屋」さんと地図にはあります。
「たばこは町内でかいましょう」とあります。しかし合併前の「霞ヶ浦町」です。
霞ヶ浦町はその前は「出島村」でした。土地柄のイメージはやはり出島が合います。

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すぐ通りの反対側(山側)に「慈眼寺」という寺がありました。
境内には石像や五輪塔などが無造作に置かれています。いつ頃の時代のものでしょうか。

五輪塔は江戸時代にも造られていたようですが室町時代まで遡るものかもしれません。

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さて、この慈眼寺についてよくわからないので調べていたらとても面白い記事を見つけた。
「天保の坂村大騒動」というもので、天保五年(1834)にここ坂村志戸崎を中心にして起きた農民の決起騒動です。
以前志筑(しずく)村で安永七年(1778)に起こった助六一揆と同じようではあるが、志筑では義人福田助六がまつられているのに対し、こちらは細野冉兵衛(ぜんべい)という人物だ。

常陽新聞社が昭和42年に連載で書いているようなので、あまり詳しくは省略するが、原因は坂村の名主が土浦藩の代官と密約して(悪代官と名主がグルになって)不当な年貢米を課したため、当時の志戸崎の貝塚恒助がリーダとなってこの「慈眼寺」などに農民が集まって話し合い、隣り村深谷で人望の厚い「細野冉兵衛」に頼み込んだ。

しかし証拠がなく、何とか証拠を探そうとするうちに恒助は代官にみつかりつかまってしまった。
騒動が大きくなってきたのを見た細野冉兵衛は農民の味方をして代官を縛り上げてしまった。

冉兵衛は私財をなげうって土地を開墾したりしていたため、土屋の殿様から土浦領の東郷(土浦から東側一帯)の名主総代に選ばれてもいたようで、体も大きくなかなかに押しの強い人物だったらしいが、ここは土浦藩に背いたとみなされて、入牢となってしまった。

そして翌年牢屋で病気で死亡したとされます。まあ72歳ということですから牢屋は応えたのでしょう。
また首謀者であった貝塚恒助は25歳の若さであったが打ち首になったそうです。
そして恒助の墓は「長福寺」にあるそうです。冉兵衛の墓は深谷にあるそうです。

この長福寺も通りから離れてはいますが、なかなか興味深い場所にあるので今度一度行ってみたいと思います。

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出島散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/04/09 19:57
コメント
大黒屋
立派な和風建築の店ですね。もとは何の店だったのか、これだけの間口や二階の連子窓など、雑貨屋として始まった店でないことは確かでしょう。
 昔の店の形はすべてこのような形で、懐かしいです。昨年の震災で多くが壊れたことですが、大きく壊れてしまうと、もうこの形を蘇らせるのは不可能になりますね。
 横の漆喰が落ちるのを補強するトタン板も定番で、よく目にしました。漆喰の壁から出ているL字型の金具も、何に使うのか子供の頃疑問に持ったのを思い出します。(今だに何用か知りませんが;;;)
大国屋
忠顕さま。

記事が間違っており、ひとつ訂正しました。大黒屋→「大国屋」です。

この名前が気になっていたのに間違うとは。申し訳ありません。すでに訂正済みです。
「大国屋」というのは、土浦で大きな呉服屋として「大徳」さんがありますが、この創業者(江戸時代)が大国屋徳兵衛というそうなので気になっています。

土浦の観光用に解放されている「土浦まちかど蔵「大徳」」の見世蔵、袖蔵、元蔵、向蔵などと言われている4つの蔵が残っています。

しかし、大徳さんは呉服がメインの大きな商屋でしたが、このもとの大国屋さんは江戸の半ばに土浦で醤油造りをして成功し、この大徳はここから分かれているようです。
でも出身地は伊勢国射和(いざわ)だそうですので、どうもこの出島の大国屋とは関係はないように思われます。(この出島の大国屋さんはこの辺に多い苗字の貝塚さんという人です。)

さて、土浦の醤油の大国屋(亀甲印)は江戸に店を構えたのが最初で、この土浦で作った醤油を江戸で売っていたようです。この土浦醤油は大国屋勘兵衛商店といっていたようですが、今は国分勘兵衛となって卸の会社「国分」として商売をしています。

> 昔の店の形はすべてこのような形で、懐かしいです。昨年の震災で多くが壊れたことですが、大きく壊れてしまうと、もうこの形を蘇らせるのは不可能になりますね。

商屋つくりというのでしょうか。やはり昔は何か大きな商売をしていたのでしょうね。

> 横の漆喰が落ちるのを補強するトタン板も定番で、よく目にしました。漆喰の壁から出ているL字型の金具も、何に使うのか子供の頃疑問に持ったのを思い出します。(今だに何用か知りませんが;;;)

この漆喰も今回の地震で崩れたところも多いようです。なくなっていくのはやはり寂しいですね。
L字金具? 面白いですね。 こんど探してみます。

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